父から教わった、「人の畑に水を引く」。
銀座で遊んだ経営者が全てを賭けて取り組む。

【株式会社ビッグライフ社 記事提供】ふるさとの川の汚れを見てショックを受け、全財産を投げうって洗剤が要らない水を開発したという深井さん。ホテル事業に成功し「銀座で3日間で1000万円を使った」というほど遊んでいた深井さんが、地球を綺麗にしようと考えを改めた原点とは。お話を伺いました。

深井 利春

ふかい としはる|水を通じて環境や健康に貢献する
創生ワールド株式会社代表取締役。

※本記事は株式会社ビッグライフ社の記事提供で御届け致しました。

最愛の父からの影響


長野県に生まれ、広大な自然の中で育ちました。私が生まれたのは、日本が貧しかった時代。そして、長男は跡取りと決まっている時代です。長男は100%親のいうことを聞いて手伝えと。

家業は家畜商でしたので、家には常に牛が4,5頭いました。2階が藁小屋と私の勉強小屋でした。勉強部屋は区切られていましたが、牛と一緒に生活していたようなものです。学校から帰って牛の世話をするのが私の仕事で、乳搾りや、うんちの世話もしますし、仔牛の誕生にも立ち会いました。それが私の子ども時代です。

体格が良く、腕力だけはありましたから、学校でもけんかは負けませんでした。ただ、親に言われたのは、人を助けるためだったら、弱い者を守るためだったらけんかしてもいいよ、ただし、する以上はぶちのめす。丸太ん棒を持ってきてでも負けるなと。しかしそうでない限りは、弱い者を守るため以外はけんかするな、我慢しろと言われました。正義感や、弱い者を守る気持ちは強かったですね。

中学卒業後、鉄道員や鉄道保安官になれる学校を受験したのですが、落ちてしまいました。その学校を志したのは、電車が好きだったというわけではなく、みんなを守る職業に就きたかったからなんです。

私は、特に父親から、ものごとの捉え方・考え方において大きな影響を受けました。たとえば、少年時代のある日のこと、父は自ら分解した自動車のキャブレターを指し、私に「元に戻せ」と命じます。少年だった私はできるわけがないと途方に暮れましたが、「人間が作ったものを人間に直せないはずがない」と聞き入れてくれません。覚悟を決めた私は三日三晩かかってキャブレターの組み立てに成功し、「やってやれないことはない」ことを学びました。

そんな父は、地域の人からとても愛され親しまれていました。牛乳が採れると、父からまずは警察所や郵便局、駅に配るように言いつけられました。「町のために働いている人にお礼をするのが第一だ」と言うのです。ことあるごとに「自分の畑に水を引くな。人の畑に水を引け」と私に言い聞かせていた父から、助け合うことの大切さ、自分の利益のみを考えることの愚かさを学ぶことができました。

父の急逝をバネに、事業を大成功させる


高校を卒業後、集団就職で上野に来ました。バイクの普請をする会社に入って1年働いたのち、長野に戻り、父と一緒に事業を始めました。畜産業は今後明るくないだろうということで、産業用の手袋の製造販売する仕事の下請けを始めたんです。ところが、20歳の頃にこの仕事は元請けがつぶれてしまい、今度は親戚を頼って、千葉県にある会社に住み込みで働き始めました。1、2年後にまた長野に戻り、今度は父と研磨業を始めました。軌道に乗り、地元の会社から仕事ももらえるようになりました。しかし家庭の事情から長男の私が家を出ることになり、研磨業を一人で始めました。自転車のペダルなどの部品を、メッキする前に磨きをかけます。15、6人使うまでに成長しました。

そのうちに、父が千曲川の崖っぷちに鉄骨の建物を建てました。もともとは私が買っておいた土地です。その建物どうするんだと聞くと、「鉄骨だから腐らないから置いときゃいいんだ、ただし借金はお前が払え」と言うんです。そこで、私はその建物を展望レストランにしました。崖っぷちなので景色が良く、千曲川や街を見渡せるんです。飲食のことは何もわかりませんでしたが、群馬県の司厨士会というコックさんの会の会長さんの助けを借りて、高級ステーキハウスを立てたところ、非常に繁盛しました。

レストランを開いた翌年、34歳の時に父が亡くなりました。

すい臓の動脈にガンが見つかり、宣告された余命は半年。本人には何も知らせぬまま、ガンに効くと言われるものをこっそり食事に忍ばせるなど手を尽くしましたが、容態は一向に良くなりませんでした。

それからの父は、私に仕事のことをあれこれ教え、引き継がせようとするようになりました。おそらく、自分の運命を悟っていたのでしょう。お互いの気持ちがわかっていながら口に出せないつらさに、涙をこらえながら話を聞きました。

医師の宣告どおり、半年後、父は57歳で亡くなりました。町の人に尊敬され、世のため人のために尽くしていた父が、なぜこんなに早く死ななければならないのかと、共に働いた工場でひとり声を上げて泣きました。

やがて、父が亡くなる前年に一緒にオープンしたレストランが盛況となり、波に乗ってホテルを開きました。このホテルも大当たりし、3年後にもう一軒ホテルを建てました。父が亡くなった悲しみを忘れようとがむしゃらに働きました。さみしさから逃げるために必死になって働いた。レストラン、ホテル、これからお話しする水にのめり込むきっかけになったババコウ栽培もそうです。そうして得たお金を手によく銀座へ繰り出しました。3日間で1000万円使ったこともありました。

「死とは? 自然とは?」39歳で全事業を売却


父が長生きしてくれたら一緒に農業をしたいと話していました。それで、山に土地を買ってあったんです。しかし、父が亡くなってしまったので、がむしゃらにレストランやホテル経営に走りました。とはいえ、父亡き後も農業への思いが残っていて、何か栽培できるものはと探すうちに、南国のフルーツ「ババコウ」に出会いました。1年かけて事業化に成功し、テレビや新聞にも取り上げられました。

翌年のある日、そのババコウの栽培に使う水を、自分のホテルの排水で賄えないかと考えました。試してみると、ホテルの排水は洗剤まみれで泡立っていて、とても栽培には使えません。胸騒ぎがして目の前を流れる千曲川に行ってみると、川面は洗剤の泡で汚れきっています。私を育ててくれた川は変わり果てていました。あろうことか、自分のホテルもそれに加担しています。

「いいか利春、自然と人間は一体だ。川を汚せば人間の血液が汚れ、必ず人間は病気になる。だから川を汚してはいけない」という生前の父の言葉が蘇りました。川を汚せば、地球が汚れる。それは必ず、私たちの身体に返ってくる。地球は住めなくなり、みんなが病気になってしまう。

洗剤をなくさなければという思いとは裏腹に、何をすればいいかわからず、そうしている間にも、自分のホテルからは洗剤を含んだ排水を垂れ流し続ける、そんな日々が続きました。

父の死のことも、まだ引きずっていました。父の死を認めたくなかったけど、認めざるを得ない。父の死や千曲川の汚れのことを考えるうちに、「死とはなんぞや? 自然とはなんぞや?」といったテーマに意識が向かうようになりました。39歳の時に、すべての事業を畳みました。数ヶ月かけて会社を清算した結果、1億数千万円が手元に残り、その資金で、洗剤をなくすための研究を始めました。

理系どころか大学すら出ていない私は苦労しました。7、8年があっという間に過ぎ、5、6000万が飛んでいきましたが、どうにか洗剤を200倍に薄めても洗浄力の落ちないシャワーヘッドを完成させました。しかし、アドバイスを受けていたある教授から「いくら薄めても洗剤は洗剤。毒は毒だよ」と指摘された私は、やっとの思いで開発したシャワーヘッドの販売を停止することにしました。

洗浄力を持つ水『創生水』の開発と普及


その頃には資金も底をついていましたが、成功していた事業を突然投げ出し、洗剤だ、水だ、と騒ぎ出した私は誰からも気が狂ったと思われ、信用などありません。親戚にさえ、頭がおかしくなったと思われていたほどです。ただ一人、私の夢を理解してくれた友人の不動産会社社長が、「俺は深井さんの夢を買っているんだよ。いつか、深井さんの自社ビルを建てさせてくれ」と快くお金を貸してくれ、研究を再スタートしました。彼は4000万円ものお金を貸してくれました。

研究を続けるうちに、トルマリンという電気石が水のクラスターを小さくすることを知りました。トルマリンとアルミ軟水器を組み合わせて、翌年、洗剤と同等の洗浄力を持つ水を完成させました。この水の生成器を50台ほど販売したところで、借金を完済することができました。

あるときお客様から、「この水を飲むことは健康に良いのか」というお問い合わせがありました。ちょうど、水道水の塩素の問題などで、浄水器が流行り始めたころです。実際のところ、この水は飲用を想定していなかったため、私は返答に困ってしまいました。お客様のニーズは飲用による健康効果にあり、洗浄力だけでは、いずれ普及に限界が来ると感じた私は、このできごとをきっかけに生成器の販売を止め、洗えるだけではなく、飲んで健康にも良い水の開発に乗り出しました。

翌年、洗えるだけではなく健康にも良い水が完成しました。ついに、洗剤を一切必要としないライフスタイルが可能になったのです。私はこの水を『創生水』と名付けました。創生水の生成器を取り付けた家庭では、水道から出る水がすべて創生水になります。食器洗いや洗濯はもちろん、お風呂でも水だけで身体や髪を洗い、飲料水や料理にも、すべて創生水を使えます。洗剤や石けん、シャンプーが消えた家からの排水はきれいになり、きれいな水を地球にお返しできます。

創生水が完成して2,3年後、本屋さんで、腸内細菌で美しくなる、というような趣旨の本をたまたま目にしたことがきっかけで、ある大学と創生水の共同研究をおこなうことになりました。

研究の結果、腸内細菌の組成を改善し、食物繊維を増やす効果や子宮筋腫や子宮がん、乳がんを抑制することが分かりました。すごい水があるぞということで、普及に拍車がかかりました。この時期はトントン拍子で、5、6年で売り上げが年間7億ほどまで伸びました。

人生の締め括りは、創生水を応用したエネルギー革命


現在は、創生ワールド株式会社の代表取締役として、創生水を事業の中心としています。創生水ができてから、自分でカバンを持って各家庭を回り、セミナーを開いて思いを伝えていました。全国を回って、同じことを何度も繰り返し話しました。口コミで広まり、何人ものご家庭が創生水の生成器を取り付けてくれました。

この頃から、この水は21世紀になったら燃えますよと確信があって、そう言っていました。冷蔵庫から創生水のビンを取り出して、封だけ切って栓は抜かずに置いておくと突然栓がポンと飛ぶんです。創生水の中に水素ガスが含まれていて、エネルギーになると確信していました。

水に取り組み始めたときは、結婚して子どももいました。親戚に、「21世紀になったらオレの研究している水で洗剤が要らなくなり、地球も救われる。車も飛行機もこの水で走るから燃料削減できる」という話をしたときは怒られましたよ。気が狂ったような扱いでしたね。

60歳の頃から、人生最後の大仕事のつもりで、エネルギー問題に取り組んでいます。エンジンに入れる燃料に創生水を混ぜたところ、燃料のみの場合よりもはるかに燃費が良くなるという実験結果が得られました。批判的なご意見もいただきましたので、専門家の皆様にも納得していただけるよう、第三者公開の下で船舶の運航実験を行い、40%もの燃料削減に成功しました。この結果を受けて、すでに船舶などでの実用が始まっています。自動車のガソリンエンジンでの利用も、実用化に向けて動いています。

いま、世界のエネルギー情勢は、排ガスなどの環境汚染、また産油国と天然ガス産出国とのせめぎ合いなど、大きく揺れ動いています。政治の駆け引きも結構ですが、地球を汚せば、必ず自分たちに返ってきます。創生水を燃料として使うことで、コストも大幅に削減でき、環境も全く汚しません。

私は、上杉謙信が好きなんです。私は彼の「無」という心境、人のために無心になって何かをやる。これが小さいときから好きで、こういう生き方がいいなと思っていました。自分も、長野県上田市のような小さな町から世界を動かす発明をできると思ってます。

日本には、バイオマスなどさまざまなものをガソリンとまぜる法律はあるのですが、水を燃料としてエンジンに入れるという法律はないんです。まずは政府の頭を変えてもらわないといけません。水は燃える、エネルギーになるんだということを話して理解してもらい、法改正してもらおうとお願いしています。

私は、今年で68歳。「水」という夢に大金を注ぎ込み、一時は借金まみれにもなりながら、多くの試練を乗り越えここまでやってきました。悔いは一切ありません。やってやれないことはないのです。汚れた千曲川を見てショックを受けた私は、迷った末に思い切ってこのような人生を選びました。せっかくの一度きりの人生が、「他人の畑に水を引く」人生ならなお素敵だと、私は考えます。


インタビュー・記事執筆:ビッグライフ21編集部

2016.02.16

深井 利春

ふかい としはる|水を通じて環境や健康に貢献する
創生ワールド株式会社代表取締役。

※本記事は株式会社ビッグライフ社の記事提供で御届け致しました。

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