「わたし」の境界を感じないで生きるために。
バレーボールやヨガを通してできること。

バレーボールやヨガ、人と人を繋ぐことなどを通じて、「自分を知り、向き合うきっかけ」を提供したいと話す田中さん。バレーボール選手になることや、海外で活動することなど、小さな頃からの夢をひとつずつ達成する中で、「夢を追い叶え続けることが、その先何に繋がるのか」と疑問も感じていたとか。そんな田中さんがヨガのマスターと出会い、少しずつ明確にすることができた「人生の目的」とは?お話を伺いました。

田中 聖美

たなか まさみ|子どもたちに気づきを共有する
日本各地で、子どもやママさん向けにバレーボールを指導する。またヨガ講師としてアスリートからシニア対象まで、全国でレッスンをする。

心が「大きい」海外に行きたい


大阪で生まれました。父は元日本代表のバレーボール選手であり監督、母もママさんバレーボーラーで、小さな頃からよく試合や練習を見に行っていました。だからと言って英才教育を受けるわけではなく、バレーボールはたまにする遊びでした。

それでも、小さな頃から、将来はバレーボール選手になると決めていました。父が海外遠征先で撮った写真が家にたくさんあり、「バレーボール選手になれば、まだ知らない、見たこともないものに出逢えるんだ!」とウキウキしたのをハッキリと覚えています。将来バレーボール選手になると決めていました。

また、小学生高学年の時に、父が研修のために住んでいたアメリカへ訪れる機会がありました。その時、アメリカに住む人たちに、内面的な広がりを感じました。

それまでは、勉強に運動に色々な面において、「ちゃんとしなきゃ」と思い、常に人の目を気にしていて萎縮して生きていました。そこには、父親の存在を常に感じている私がいて、娘として恥じない様に、と小さいながらに気にしていたんだと思います。だから、「こうしなきゃいけない」という縛りを感じないアメリカに、解放感を感じて、惹かれたんだと思います。

ここでもまた、将来、海外へ行くイメージをハッキリと持ちました。

中学でバレーボール部に入り、本格的に練習を始めたのは高校から。強豪、四天王寺高校に進みました。そこでの練習は、表現し切れないくらい辛く、心身共に追い込まれた。

内気な私を叩き壊そうと、先生からは父親のイヤミもたくさん言われましたが、先生に対する嫌悪感は少しも湧きませんでした。ただただ、できない自分が悔しかった。練習についていくのと、先生の言葉を跳ね返すことに必死な3年間でした。

そんな日々を送っているうちに、いつしか自分を出せるようになっていたんです。幼少期に作ってしまった心の壁を取り除けた気がしました。

あまりに必死な私を見て、さすがに父も黙っていられなかったのか、バレーボールに関して一切口出ししない父から、唯一の助言をもらいました。「考えなさい」と。なぜうまくいったのか、なぜうまくいかなかったのか相手を見て分析してプレーしなさいと。





海外でバレーボールに挑戦したい



高校卒業後は、アメリカの大学でバレーボールをする気でいましたが、日本のVリーグのチームへ入ることになりました。留学への未練はあったものの、足を踏み入れた限りはその場所でやり通そうとする性格なので、新しい環境で励んでいました。

ただ、夢見たバレーボール選手になれたのに、なぜか特に感動はなかったですね。ただ黙々と自分の世界でトレーニングに没頭する日々でした。

ところが3年目、肩を怪我して、半年間練習できなくなりました。リハビリ期間中は、今までのことや将来のことなどを考える時間が多くなり、自分の内面にも自然と目が向くようになりました。

すると、いつの間にか、幼少期よりも、さらに頑丈な殻の中に、自分を閉じ込めてしまっていたと気づいたんです。誰に何を言われても笑って跳ね返すだけの強さを維持するために、自分の立てた目標が崩れてしまわないようにと、必死に練習をすることで自分を守っていました。

ところが、怪我をして自分を守っていたものが崩れ落ちた時、その中にいた実際の私は、見るも無残な貧弱な姿をしていました。跳ね返す力ばかり身について、内からみなぎる力はなかったんです。

怪我よりも辛かったのは、本当の自分の姿を思い知らされたこと。絶望を感じ、どんなに苦しくても大好きだったバレーボールすら嫌いになりそうで、自己嫌悪に陥り、自暴自棄にもなりました。

しかし、そんな絶望的な状況の中でも、復帰後、海外でプレーしている自分の姿を描くことで、行動も変わっていきました。必死にリハビリに励み、チームへの態度も献身的になり、留学の資金を溜め、英語の勉強もしました。そして、アメリカの大学に進むために、4年所属したチームを辞めることを決めたんです。そしてこの時期、更に心身を高めて、海外で挑戦したいと、ヨガを始めました。





伝えるためのバレーボール


万全の準備で大学へ入学しましたが、大会に出られないことが分かりました。バレーボールを続けることを前提として探した大学だったので、ショックでしたね。

それでも、アメリカの大学で勉強すること自体も、中学生からの目標でもあったので、愉しく過ごしていました。しかし、1年も経つと、バレーボールへの気持ちが溢れてしまい、大学を辞めることにしました。

バレーボールからしばらく離れ大学生活を送り、多様な価値観の中で過ごす中で、今まで見えていなかった自分の姿を知るきっかけになったり、日本を離れることでより日本を見ようとしたり。そういう、貴重な機会が持てました。なので、復帰するなら、リハビリ期から目標にしていた、もしくは幼少期から目指していた、海外で挑戦したいと、ヨーロッパでプレーすると決意しました。

そこで、ノルウェーでコーチをしていた日本人の方に、自分の状況や海外でバレーボールをしたい想いを綴ったメールを送りました。すると、突然の不躾なお願いにもかかわらず、高校生の指導をしながら自分の練習もし、ノルウェーで復帰に備えないかと提案をもらえたんです。大学を正式に辞めて、アメリカからノルウェーに渡り、復帰の準備を進めていきました。

その後は、フランス、ポーランドのチームで1シーズンずつ過ごしました。ポーランドは、バレーボールがとても盛んで、日本人が珍しかったこともあり、街を歩いていると声をかけられるほど、地域に密着していました。

その環境に身を置くことで、コートは自分たちだけのものではなく、ファンやスポンサーや、みんなに支えられているステージなんだ、と感じるようになりました。そのステージに立つ以上、多くの人の心に届くパフォーマンスをしようと思う様になりました。自己鍛錬のツールでしかなかったバレーボールが、「バレーボールを通じて何かを伝えよう!」と、捉え方が変わったんです。

そしてシーズンを終え、翌年もこの国でプレーしたいと思いつつ、一時日本に帰国しました。

利己的な夢や目標ではない「何か」を目指して


日本にいる間、父に頼まれ、小学生対象のバレーボールスクールを手伝っていました。父親孝行くらいの軽い気持ちで始めたんですが、子どもたちにバレーボールを教えることが、どんどん愉しくなってきたんです。

それまでは、自分の夢や目標にのみ向かって進み、ひとつずつそれを叶えてきました。しかし、私欲を実現し続ける先に一体何があるのかと、疑問も感じていたんです。

悪い言い方をすれば、夢や目標は利己欲を満たすだけ。ひとつの欲を満たしても、また違う欲を補充しなければならず、いつまで経ってもその作業は終わらない。この私欲を満たす追求を、永遠に続けていくことが、人生の目的なのだろうかと、自問していました。

そんな自問の中で、漠然とではあるものの、子どもと関わることが、利己的な目標ではない何かに繋がる気がしていました。ポーランド時代に持った、バレーボールを通して人に何かを伝えたいという感覚とも合致していた気がします。そこで、ヨーロッパには戻らずに、日本でコーチを続けてみることにしたんです。

また、トレーニング目的で始めたヨガを深く学びたいと、講師の資格を取っていました。私自身、ヨガを通じて、肉体的にも精神的にも、他のエクササイズとは違う変化を感じていたので、もっと本質的なことを学べる師と出会うために、様々なヨガのワークショップに通いましたが、なかなか巡り会えず、1年くらいはヨガ難民でした。

そんな難民生活のある日、ひとりのインド人ヨガマスターと出会いました。「私がずっと疑問に感じていた問いに繋がる学びがある」そう感じる出逢いでした。

マスターはよく言います。僕に従う生徒ではなく、「自分で自分を正せる人間」になってほしいと。また、学びとは情報をたくさん得たり、暗記するのではなく、自分の身をもって経験し、しっかり噛み砕いた上で時間をかけて消化することだとも言います。「考え学び続けなさい」と。父からの教えである、「考えなさい」という教えに共通性を感じました。

また、マスターの元で学ぶ中で、幼少期の萎縮していた私や、他者からの言動に負けない強さを持とうとしてた私、自暴自棄になっていた私、殻に篭っていた私、など、過去の自分を振り返った時に、共通して存在する障害物が、「わたし」だと気づきました。

自分で勝手に、人と比べ、周りの目を気にし、苦しみ、全ては自分で作り出していたんだと。それを払拭するかの様に、夢や目標を立て、外に幸せを求めていたのかもしれません。

自分というエゴの境界線を隔てて社会を見ていたから、自分が見えず、自分で自分の首を絞めていたのだろうと思うようになったんです。そして、幸せは外へ求めにいくのではなく、内側へ探しに行くものだと気づき始めた時、生涯をかけて貫きたい想い、志も芽生え始めました。

人と人、笑顔を紡いでいく


現在は、子どもやママさんたちにバレーボールを教えたり、ヨガの講師をしたりしています。

マスターの元で学ぶ中で、隔たりを越え、境界線の向こう側で活動をしたいと思い始めています。越えると言っても、大切なのは外へ向かうんでなく、内側へ向かう事だと感じています。ただ、その行為って言葉で表現できるほど、簡単ではないとも感じていました。そんな時、ある経験をしました。

少し前にカンボジアの孤児院を訪れ、今まで色んなアイディアはあったものの、平面図でしかなかった想いが立体的になり、これまでの体験や考えが繋がった感覚がありました。

カンボジアの子どもたちは、バレーボールをしている時、できてもできなくても全力で愉しんでいました。そこには、他者と比べて、できるできないに振り回されて悲観したり、また驕り高ぶったりする、そのどちらもない様に感じました。

掃除の時間になったら、誰ともなく動き始めて掃除し、掃除してない子がいても注意したり文句言ったりすることもありません。「やらなくてはならない」でなく、シンプルに、行動がそこにあるだけなんだと感じました。

一番感動したのは、食事の時間。テーブルに一緒に座っていると、どの年代の子供たちも、自分が食べる前に、まず私の口へと食べ物を運びに来るんです。決してお腹いっぱいになるとは言えない食事の量なのに、「十分だよ、美味しいよ」と、何度も私に食事を分け与えてくれました。「私のモノ」という境界線を越えた行動を自ずとしている子供たちに感動しました。

滞在期間中の子供たちの言動全てに共通していたのは、「わたし」という垣根を一度も感じなかった、という点でした。境界線が外れている時って、いつも天真爛漫で、その人がいる空間が笑顔に溢れているんですよね。言語化できなかった光景が、子供たちの日常に溢れていました。

そういう風に笑ってる人は、周囲にも笑顔の影響を与えるチカラがある。特に、子どもは頭で考える前に、心で感じられる存在だと思うんです。子どもの本当の笑顔を作ることで、家族や社会にまで伝播していくだろうと考えています。だって、私自身、気づけばいつも笑顔になっていましたから。この瞬間、「人の笑顔を紡いでいくシゴトをしよう』と確かな意志に変わりました。

私がカンボジアでそう感じられたのは、それまでも、自分と向き合おうと自問し続けていたからだと思うんです。その過程で、何か想像と違うことが起きても、自分の定規で判断せず、「受け入れる」ことが、少しずつではありますが、日常において、できる様になってきました。もし、その準備ができてない人がカンボジアへ行っても、街を歩くだけでしんどくなって、不平不満の連続だろうな、とも思います。

だから、「考え」「自分と向き合うきっかけ」を、バレーボールやヨガを通して提供し続けたいと思っています。その先に、内から自然と溢れる笑顔があるのかなって。

具体的には、日本の子どもにも、カンボジアの子どもたちと触れ合う機会を作りたいと考えています。人によって感じ方は違うだろうけど、この環境に来たら、何か心に蒔ける種があるんじゃないかと思うんです。

カンボジアの子どもたちは非常に身体能力も高く、バレーボール選手としての可能性も強く感じました。指導者や環境さえ整えば、バレーボール留学もして、生きていく力を養える可能性もある。そこで、指導者として何かの役に立ちたいとも考えています。

私自身も、人との関わりの中で、日々学んでいる最中です。社会と関わっていく中に、自分と向き合う機会は幾らでもある。これからも、バレーボールやヨガを教えたり、海外の人と触れ合う機会を作ったりと、子どもたちに「自分と向き合うきっかけ」を提供し続けていきたいです。

ただ、私ができることは、あくまできっかけを提供することが役目だと思っています。一方通行的に「教える」のではなく「気づいてもらう」。それには、時間がかかるかもしれません。

何年も経ってから私自身も気づいたことがたくさんあったので、種さえ蒔いておけば、いつかその人自身で種を芽吹かせ開花させられるかもしれない。そこから学んだことが、ほんの僅かなきっかけだったとしても、その子の人生のどこかに繋がってくれれば、それで十分です。

そうやって、様々な境界を感じさせないあり方を広げていきます。

2016.02.09

田中 聖美

たなか まさみ|子どもたちに気づきを共有する
日本各地で、子どもやママさん向けにバレーボールを指導する。またヨガ講師としてアスリートからシニア対象まで、全国でレッスンをする。

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