競輪選手が描く、引退後の第二の人生。
きっかけをくれるのは、人との出会いなんです。
競輪選手としての19年間のキャリアに幕を閉じ、新たな挑戦をスタートした後藤さん。これまで人生できっかけを与えてくれたのは、「人」だと語る背景にはどんな出会いがあったのか。後藤さんの半生を伺いました。
後藤 圭司
ごとう けいじ|ボディメンテナンス
豊洲の「MIFA Football Park」内にある「ボディメンテナンス整骨院」の代表を務める。また、ワイルドマジックのプロデューサーも務める。
将来は、人に見られる仕事を
私は熊本で生まれ、幼稚園児の頃に香川へ、小学2年生の時に愛知へ引っ越しました。小さな頃から、贅沢をしたければ、一般的な仕事をするのではなく、「人に見られる人間になれ」と言われて育ちました。そこで、プロ野球選手を目指してリトルルーグに所属しました。
しかし、小学校5年生の時に静岡県裾野市に引っ越すと、そこには本格的な野球チームはありませんでした。そのため、野球をやめてしまったんです。
そんな時、テレビで放送していた自転車のレースが目に止まり、その衝撃的な映像に「なんだこれは?」と釘付けになりました。しかも、優勝者が掲げている賞金ボードに書かれていた金額は、3000万円近く。すぐに「この仕事をしたい!」と思い、いったいこれは何かと父に聞くと、「競輪だ」と教えてもらいました。その日から競輪選手を目指し始めたんです。
それ以来、自転車を毎日漕ぐようになり、中学では部活には入らず、となり町の沼津市にあったロードレースチームに所属しました。それまで乗ったこともない奇妙な形をしているロードバイクに慣れるため、毎日放課後に30キロほど走っていましたね。さらに、中学卒業後は、実家を出て、強豪自転車部のある東海大一高校に進学しました。
体力はあったし、自転車に乗ることが好きだったので、練習は苦しくありませんでした。ところが、長距離では結果を出せるのですが、短距離では結果が出ませんでした。元々、身体が細いので遅筋に比べて速筋が少なく、短距離だと力を出し切れずに終わってしまうんです。
しかし、競輪は短距離を競う競技。そのため、いくら競輪学校の試験に挑戦しても、合格タイムを切れないんです。高校3年の時から年2回の試験を受け続けるものの、卒業して2年間、計6回挑戦しても結果は出せませんでした。
絶対にプロになれると信じてくれた恩師のために
ただ、長距離では成績を残していたので、「自分にできないわけがない」「ちゃんと練習すれば受かるだろう」と、慢心もありました。もちろん練習はしていましたが、世間的には、完全に「プータロー」でした。そのため、成人式の時に開かれた中学校の同窓会では、それぞれの進路に進んだ友達みんなから、「早く諦めた方がいい」と言われてしまいました。
しかし、中学時代の担任の先生だけは、応援してくれたんです。先生は、競輪選手を目指して遠くの高校に進学した私を気にかけてくれ、高校時代の成績も新聞などで読んでくれていました。
そして、今の状況を見ても、「簡単なことではないと思うけど、小学生の頃から今まで好きで続けているなら、絶対にプロになれるよ」と言ってくれたんです。また、今頑張ることを続けたら、人生のどこかで挫折しそうになった時の強みになるとも伝えてくれました。
そして、「先生は信じてるから、プロになった姿を見せて」と言うんです。
この時、自分の中で、何かがはち切れました。それまでは、練習の合間には普通に遊んでいました。しかし、プロになる人間はその時間も練習に充てていることを、本当は分かっていたんです。
それからは、競輪選手の久松昇一選手に師事して、練習に没頭しました。朝4時半から練習を始め、午前中だけで100キロ以上走るような厳しい特訓。競輪に特化したメニューで、不得意なものばかり。正直なところ、かなり苦しいと感じていました。
ただ、その練習を半年間続けて臨んだ試験では、合格ラインを2秒近く上回ることができたんです。通算8回目の挑戦でした。合格した瞬間は、嬉しさよりも、「大変な練習から開放される」と、安心感が大きかったですね。
そして、1年間で学校を終え、静岡支部の登録選手として、21歳でプロデビューしました。
この人の名に恥じないレースをしたい
競輪選手は、実力によって、B級、A級、S級に分けられ、最初はB級からスタートしました。プロになりたてで、成績も下の下。そんな時、S級の選手と一緒に練習する機会がありました。
すると、スタートした途端、フェラーリと軽自動車で競争したくらいの差をつけられてしまったんです。この時、自分とは次元が違うと感じてしまい、上を目指す向上心が無くなってしまいました。
その後、B級のレースで優勝できなくても、評点でA級に昇級。すると、勝ち上がらなくても年収は1000万円超え。正直、「プロになること」が目的だったので、それで満足してしまったんです。そのため、練習は午前中で終わらせ、午後はプライベートに使うような、ぬるい生活を数年間続けました。
そんなある時、昔から憧れていた加倉正義選手と、一緒に練習をする機会がありました。学生時代に、特別競輪の試合で、忍者のようにすり抜けて走る姿を見て憧れを持った選手。教官に、私とタイプが似ていると言われたこともあり、学生時代からの目標でした。
その憧れの人と、合宿でたまたま一緒になったんです。そして、加倉選手と私、どちらもよく知る教官のすすめで、一緒に練習することに。大した練習もしていない今の自分を見せるのは恥ずかしいと感じていました。しかし、そんな自分に対して、加倉選手は熱心に指導してくれるんです。激しい競技スタイルとは裏腹に、とても優しい人でした。
さらに、合宿の数日後に、加倉選手が試合でも使っていた自転車が送られてきたんです。一緒に練習してもらえただけでも嬉しいのに、「これに乗って頑張れ、また一緒に練習してくれたら嬉しい」とのメッセージまで添えて。
この瞬間、自分の中で火が着きました。この人の自転車に乗るなら、その名に恥じないレースをしたいと。
そして、S級を目指して、また朝の4時半には起き、アマチュア時代の過酷な特訓の倍の練習をするようになったんです。S級の選手との実力差は、自分の中ではトラウマ。ただ、加倉選手から言われた「昇ってしまえばなんとかなる」との言葉を励みに、がむしゃらに練習しました。
すると、レベルは違えど、「加倉選手のようなレース」をできるようになり、27歳でS級に上がることができたんです。
プロにとって、報酬は自分自身の価値を表すもの
S級は、想像以上に厳しい世界でした。しかし、上がったからこそ見えた世界にわくわくしたし、友人からの応援も増え、一層頑張ろうと思えるようになりました。そして、70歳まで現役を続けて、「あの人もプロ選手なの?」と驚かれるような人間でいたいと思っていました。
しかし、30代中盤になると怪我が重なり、「引退」を意識する瞬間が出てきました。鼻や目の周りの骨が折れる大怪我をしたこともあり、ずっとは続けられないかもしれないと感じ始めたんです。
さらに、競輪業界の不況から、退職金や報酬が大きく減額になってしまいました。同じ等級にいても、報酬は3分の1ほどに。プロとして、報酬は自分自身の価値を表すものなのに、それが大幅に減ることは、自分自身の価値が低く見積もられている気がしたんです。
競輪は、生身のまま70キロ以上のスピードで走るかなり危険な競技。大怪我もするし、レース中に亡くなる人もいます。しかも、私のプレースタイルは、周りの選手と接触することが多いハイリスクなもの。下がってしまった報酬では、そのリスクに見合わないと思ってしまったんです。
また、子どもには東京で教育を受けさせたいという妻の意向もあり、以前から、静岡から出ることを考えていました。そして、様々なタイミングが重なった35歳の時に、東京に出る決意をしました。
いつか引退が来る。それまでに、今後の人生に役立つようなことを、東京で経験しておこうと思ったんです。
東京に越してからは、妻のすすめで、様々な人とお会いしたり、サイクルショップでアルバイトをしてみたりしました。競輪以外のことを全くしてこなかったので、全てのことが新しく、刺激的でしたね。
ゴールして引退したほうがいいんじゃない?
その中で、柔道整復師の学校にも通い始めました。身体が細かったので、細い筋肉でも大きな力を生み出すには身体をどう使えば良いか、昔から考えるのは好きでした。また、怪我が治らなかったので、身体への関心は高かったんです。そして、これなら引退した後、仕事にしても良いと思っていました。
すると、妻の知人から、三井不動産が提案する「豊洲のフットボールパーク」のプロジェクトに参加してみないかと誘われたんです。そこで、プロ選手としての身体のケアの知識やスキルを活かして、ボディメンテナンスをして欲しいと。
どうしようかとは思いつつも、話をもらえるのも何かの縁と考え、その仕事を受けることにしました。すると、話は広がり、大人向けのボディメンテナンスだけでなく、子どもが怪我をした時に、保険を使って簡易な治療できる場所にしようと、整骨院として始めることになりました。また、そのフットボールパークを主催する人たちのチームに入り、人生で初めてサッカーもするようになりました。
そうやって様々な活動をしつつも、競輪選手としてのレースは継続していました。競輪自体は好きだったんです。しかし、レース中に落車してしまい、腕が上がらなくなるほどの大怪我をしてしまいました。
この時、「頑張って命をかけて何になるんだろう」と感じてしまったんです。それまではリスクが大きい分、リターンも大きかったからやれていたけど、さすがにもうダメかもしれないと。そして、整骨院の話もあるし、このまま引退することにしました。
ところが、引退しようと思っていることを、サッカーチームのキャプテンに話すと、「最後のレースが落車って嫌じゃない?」と言われたんです。ビリだとしても、現役最後のレース、ゴールして終えたほうが良いんじゃないかって。
確かにその通りかもしれない。そう思い、またトレーニングをして、レースに出ることにしました。そして、2014年9月29日のレースで無事ゴールして、正式に引退することにしました。ゴールした瞬間、「出てよかったな」と思いましたね。
落ち着くどころ、どんどん世界が広がっている
それからは、整骨院で、怪我をした子どもの身体を見たり、トレーニング指導に集中しようと考えていました。ところが、引退してから、さらに色々な人と会う機会が増えていき、思いもよらない方向にことが進んでいきました。
そのため、現在は、「ボディメンテナンス整骨院」の代表をしつつ、バーベキュー場などを運営するワイルドマジックでプロデューサーとしても働いています。ワイルドマジックは、土地の有効活用や町おこし事業を行っていて、ある地域で「サイクルパークを作りたい」という話があり、そのコンサルティングをしています。
ただ、単純にサイクルパークを作るだけでなく、自転車で社会貢献できるのではないかと考え、色々と模索しています。例えば、自然災害時に、緊急物資を運ぶ手段として自転車を使ったり、そのための道路の整備などです。自転車は、車では入れないような場所も通れるし、担いで運ぶこともできて優秀なんです。
そこから派生して、バーベキュー場自体も災害時の人が集まる場所にしようということだったり、災害が起きた時に備えて「災害体質」を啓蒙しようということだったりと、どんどん話が広がっています。すると、また色々な人に繋がっていき・・・その繰り返しが起きるんです。
なので、今後は何をしていくのか、自分でも分からないですね。ただ、どこにチャンスがあるか分からないので、目の前にあることは、一旦は掘り下げることが大切だと考えています。
その中でも、個人的には自転車に関わる仕事は続けたいと考えていて、競輪選手のセカンドキャリア支援もしたいですね。サイクルパークや災害支援の仕組みの中でも、競輪選手がこれまでの経験を活かせる仕事を作れると考えています。
引退後に、まさかこんな生活が待っているとは思ってもいませんでしたが、結局、仕事は誰とやるかが大切なんだと思います。これまでも、人生にきっかけをくれたのは、人でしたから。
自分でもこれから何をしていくか、まだまだ分かりません。ただ、競輪を引退した選手の第二の人生として、ご縁を大切にしながら、色々なことに挑戦していけたらと思います。
2015.10.22
後藤 圭司
ごとう けいじ|ボディメンテナンス
豊洲の「MIFA Football Park」内にある「ボディメンテナンス整骨院」の代表を務める。また、ワイルドマジックのプロデューサーも務める。
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