「幸せそうだな」と感じられる最期を見せたい。
多くの挫折を経験した僕が選択した起業の道。

【共同創業の選択特集】第三弾は、介護の現場で誰もが楽しめる音楽の空間を生み出す、株式会社リリムジカの管さんです。小さな頃から経営者の父を見て起業を考えるものの、自信を持てずに、インターンシップなどに参加する日々を過ごします。そんな時、起業を決断するきっかけとなった出会いとは?お話を伺いました。

管 偉辰

かん いたつ|心に響く音楽を介護の現場に届ける
株式会社リリムジカ創業者であり、代表取締役共同代表を務める。

自信を持ちきれない子ども時代を送る


私は東京の中野区で生まれました。両親は台湾人で、父親は会社を経営していました。小さい頃は父の事業が順調だったので、どちらかと言えば裕福な暮らしをしていました。剣道の道場に通い、塾にも行き、中学受験をして中高一貫の私立校に進学しました。

ところが、中学生になると父の事業が傾いていきました。人の目を気にするタイプだったので、外では目立つことをしたり、明るく過ごしていたものの、自分の生活はどうなってしまうのかと、常に不安な気持ちを抱えていたんです。

高校生になると、父はショッピングセンターのフードコートで、飲食店を経営していました。夏祭りの時には外で屋台を出していて、そんな時は、私も手伝いに行きました。ある時、祭りが終わり、父に頼まれ余った焼きそばを他のテナントに持っていくと、「そんなものいらねえよ」と言われてしまうことがありました。惨めでした。

昔から父の姿を見ていたので、「経営者になりたい」という気持ちもありました。しかし、失敗への不安から、そうは言い切れない自分がいましたね。

かと言って、他にやりたいこともなく、自信もありませんでした。中学、高校で所属していた剣道部では、経験者だったこともあり活躍していたのですが、アルバイトでは全く仕事ができず、怒られてばかりだったんです。この時、剣道と仕事の能力は違うと気づき、仕事はできない人間なんだと認識したんです。

高校は進学校で、周りは東京大学を目指す人も多くいました。しかし、もし自分が東大生になれたとしても、「東大生なのに仕事ができないのかよ」と言われるのが嫌で、あまり名前が知られていない、一橋大学一本に絞って勉強していました。変なプライドがあったんですよね。

ただ、自由な生き方に憧れもあり、一生懸命勉強するものの、もし合格できなければ世界を放浪しようと決めていました。

結果としては無事大学に進学することになりました。もちろん嬉しかったのですが、心のどこかでは「また殻をやぶれなかった」と寂しい気持ちもありましたね。

人として力をつけたいと思いインターンシップに参加する


大学入学後は、チームスポーツに取り組んでみたいと思い、アメフト部に入りました。しかし、戦略やフォーメーションが瞬時に変わっていく難しさに挫折してしまい、2ヶ月ほどで剣道部に入り直しました。部活に入れば毎日稽古があるので、考える時間も少なくなり、次第に「海外放浪への憧れ」みたいなものは薄れていきました。

剣道に熱中していると、2年次の大会で、社会人1年目の先輩が応援に来てくれることがありました。その時、先輩は「仕事がつまらない」と話していました。

社会人1年目なんて誰でもそう思っている時期だったのかもしれません。しかし、その先輩を慕っていた私は、素直に「仕事はつまらないのか」と、将来に不安を覚えてしまったんです。また、その先輩が大企業勤めだったので、自分も大きな会社で働くのは違うのかもしれないと考えるようになりました。

また、同じ時期に、剣道への限界も感じていました。部内にどうしても勝てない同期が2人いたんです。そのため、別の道だとしても、「もっと人としての力をつけたい」と思い、長期のインターンシップに参加することを決めました。剣道では勝てないからと、心のどこかには逃げ出したような気持ちもあったのかもしれません。

そして、3年になった時から、インターンを斡旋するNPO法人を通じて、ネットショップを運営する企業で長期のインターンを始めました。ところが、やはり仕事はできなかったので、毎日大変でしたね。議事録を書くのに何日もかかったり、商品の写真を撮っても真っ暗だったり、キャッチコピーも考えられなかったりと、本当に苦労しました。

ただ、インターンをしているので「目線が上がっている」という自負もあって、学校のゼミの中では「周りとは違う」と、自信を持つこともありました。しかし、インターン先に行くと、やはり仕事ができなくて落ち込む、そんな日々を過ごしていました。

才能のある人と出会い、起業を決意する


就職活動の時期になると、インターン先も就職活動を行うことを推奨してくれました。しかし、就職活動をするからと言って仕事の量が減るわけではないので、私はそんな時間を作れませんでした。

受かるかもしれないと思って応募した2社にも、あえなく撃沈。そんなこともあり、就職活動は止めてしまったんです。続けるべきだったのかもしれませんが、忙しかったこともあり、冷静な判断はできませんでした。

そしてインターンは4年生の夏で終了となりました。結果としては、担当店舗の月商を100万円から300万円まで伸ばすことができました。ただ、最後の引き継ぎでは自分が仕事から早く開放されたくて、後輩に押し付けるような終わらせ方をしてしまいました。

そして、これからの人生、どうしようかと思っていましたね。就職も決まっていないし、かと言って「起業する」と言い切れるわけではない。やりたいことも分からない。しかし、卒業までの期限は決まっている。とにかく、何かしらの組織に属していたいとは思っていました。

その後、テレビCMの制作会社でアルバイトをする機会がありました。そこで敏腕プロデューサーの人に食事に連れて行ってもらうと、「才能のある奴と仕事をするといいぞ」と言われたんです。自信もなく、やりたいことも分からない自分にとっては、素直に心に入ってきて、非常に納得感のある言葉でした。

そんな時、起業を目指す人が集まる勉強会で、一人の女性と出会いました。彼女は音大で「音楽療法」を学んだものの、音楽療法士としての働き口の少なさに課題感を覚え、社会に音楽療法を広めるためのビジネスを考えている人でした。

勉強会で積極的に先生に質問する様子や、信じた道を追求していく姿勢に、素直に感銘を受けました。彼女は自分にはない才能を持っている。一緒に起業したら、「きっと社会が変わる」という予感がありました。そこで、すぐに声をかけ、起業準備をするようになったんです。

そして、大学を卒業した4月に、2人で会社を立ち上げることに決めました。ただ、音楽療法自体への興味はそこまでありませんでしたね。まるで、就職先を選ぶように「とりあえず」起業したんです。

社会から必要とされている事業なのか葛藤する


しかし、会社を立ち上げてみたものの、お客さんは障がい児・障がい者の日中一時支援を行うNPO1団体だけ。このままでは、事業としては厳しいことを実感しました。しかし、何をしていいか分からなかったんです。そもそも、音楽療法が、誰にどんな価値を生み出しているのか、個人的には理解もできていませんでした。

ただ、辞めたところで何の結果も出していないので転職すらできない状況。そのため、とにかく形にするまではやりきろうと思っていました。

そして、先輩経営者から、ユーザーインタビューをしたら事業が軌道に乗ったと聞きました。「これだ!」と思い、福祉施設や介護施設の人にヒアリングをしてみることにしたんです。

実際に話を聞いていくと、それまでの教科書的な知識ではなく、現場の実態が少しずつ掴めてきました。また、私の祖父も晩年は介護施設に入居していたので、父に当時の話を聞きました。すると、祖父は認知症が進むと日本語を忘れて台湾語しか話せなくなってしまい、施設内で周りと馴染めなくなったそうです。そして、書道の時に「四面楚歌」と書いていたと聞き、衝撃を受けました。

この話を聞いた時、それまで何となくでしか感じられなかった介護の問題が、自分事になりました。そして、高齢者が最期までいきいきと暮らせる社会にしたいと感じたんです

ただ、自分の気持ちが入ったからと言って、仕事が増えるわけではありません。営業をしてみても、話しを聞いてもらえることは多くはありませんでした。少しずつ利用してくれる施設は増えていきましたが、それでも「本当に社会に求められているのか」と不安は常にありました。

そして、自分たちの力で広げていくには頭打ちを感じるようになり、2012年に社会起業家を支援するプログラムに応募してみることにしました。実は、会社を立ち上げた当初にも応募したことがあり、その時は、「支援するにはアーリーステージすぎる」と言われて採択されませんでした。

今回プログラムに選ばれなかったら、社会に求められていないと割り切り、会社を辞めようと考えていました。しかし、そんな覚悟を持っていたからか、支援対象として選出してもらうことができたんです。

初めて社会から必要されていると、認めてもらえたような気がしました。この時から自分の中でのビジョンが明確になり、もう辞めようとは思わなくなりました。

死ぬことに対して、希望を持てる社会を


とは言え、劇的にサービスが拡大していったわけではなく、少しずつ利用施設は拡大していきました。そして今では70施設ほどに対してプログラムを提供しています。

私は、この事業を通じて、人が最期まで「自分らしく1人の人間として生きられる社会」にしたいと考えています。介護施設にいる高齢者の方、特に認知症の方は、できないことも多いので、次第に、何をするにも「すまないね」と言わなければならなくなっていきます。すると、自分自身を「何もできない人間だ」と思い込んでしまい、精神的に弱っていく人も多いんです。

それは、介護現場の人が悪いわけではなく、人員配置的にもどうしようもない部分があります。しかし、人が亡くなる直前をどんな風に過ごしていたかは、ものすごく重要なんです。本人にとってはもちろんですし、その周りの家族にとっては、亡くなる方を見て自分の最期を意識します。その時に、「最期ってこんなものなのか」と、残念な気持ちになってほしくないんです。

そこで、どんな状態にある人でも、周りの人が「この人幸せそうだなぁ」と思える瞬間を生み出す。一回でもそのシーンを見られたら、死に対する捉え方、向き合い方が変わると思うんです。私自身、祖父の話を聞いてネガティブに捉えていた死に対して、ポジティブに感じられる瞬間を目にすることで変わりました。

そして、音楽は、人が輝く瞬間をつくるのに適したツールだと思っています。歌うだけでなく、寝たきりの人でも聴く楽しみがあるし、その曲を知っているだけでも楽しむことができますから。私たちは、高齢者の方だけに向けて「音楽療法」を提供しているのではなく「場作り」をしているので、スタッフを「音楽療法士」ではなく、「ミュージックファシリテーター」と呼んでいます。

私自身は音楽をやっていたわけでもありませんし、プログラムを担当しているわけではないので、「音楽の力」は半信半疑でした。しかし、実際にプログラムに参加している人の表情が変わる瞬間や、誰にも聞こえないようで自分の気持ちをつぶやいている瞬間を見た時に、「こういうことなんだ」と確信できるようになりました。

これからも、音楽を用いて、人が自分らしい最期を迎えられる空間を生み出していきます。そして、その姿を若者が見て、「老いや死が、ただネガティブなだけのものではない」という価値観を広げていきたいです。

共同創業者、柴田さんのanother life.はこちら

2015.05.29

管 偉辰

かん いたつ|心に響く音楽を介護の現場に届ける
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