企業広報と外食産業に、自らの経験の還元を。
誰よりも挑戦・失敗をして見えたもの。
ベンチャー企業を中心とした、広報担当者の養成機関や、外食産業のPR支援等を行う栗田さん。 「語弊を恐れずに言えば、人生はある程度思い通りになる」と語る背景には、 失敗を重ねながらも、挑戦を続け、チャンスを掴んで来た道のりがありました。 どんなモチベーションで挑戦を続け、これから先何を目指すのか、お話を伺いました。
栗田 朋一
くりた ともかず|広報担当者の養成機関運営・外食産業のPR支援
スターフェスティバル株式会社で限定正社員として働く傍ら、
広報担当者の養成機関「東京PRアカデミー」にて、マスコミ広報交流会、広報スキルアップ勉強会等を運営する。
また、株式会社外食広報会の代表、株式会社分析広報研究所のシニアパブリックリレーションズアナリストを務める。
大好きな文章を書く仕事に携わりたい
私は埼玉県浦和市(現・さいたま市)に生まれ、幼稚園の文集で、将来の夢を「野球選手とサッカー選手に両方なる」と書くほど、スポーツが好きな少年でした。
高校に入学してからも、ドラマ『スクールウォーズ』に憧れてラグビー部に入部し、そのまま、大学でも部活に没頭する生活を過ごしました。
また、スポーツの他にも、小さいころから文章を書くことが好きでした。元々、小学校の宿題だった作文や日記を提出する時に、頑張って書くと先生に褒めてもらえることが嬉しく、2・3行で終わらせる子も多い中、毎回ページいっぱいに文章を書いていましたね。
そんな背景もあり、高校生になってからは、雑誌に自分の文章を投稿してみたり、飲料メーカーの短歌・俳句のキャンペーンに応募してみたり、次第に成果を外に出す機会も増えていきました。中には金賞を受賞したり、賞品・賞金を貰えたりすることもあり、段々と味を占めていきました。
そこで、大学3年生の就職活動を迎えると、コピーライター等への憧れから、広告業界に関心を抱くようになりました。
そんな折、数多く求人案内のDMが届く中、会長が豊臣秀吉の格好をして写真に写っているはがきを目にしたんです。「面白い会社だな」と思い、詳細を見てみると、日光江戸村などのテーマパークを運営する、大新東株式会社という会社だということが分かり、選考を受けてみることにしました。すると、順調に進んでいき、早い段階で内定をいただくことができたんです。結局、並行で受けていた広告代理店でご縁がなかったこともあり、そのまま入社を決めました。
ところが、入社後に配属されたのは経理の部署でした。元々数字に弱いこともあり、業務にはとても苦労し、正直、仕事についても前向きになれない日々が続きました。
そんな生活を半年続けた頃、日光江戸村で時代劇を撮るために、脚本家のアシスタントを社内で探すという話を耳にしたんです。
その仕事は、まさに私の関心の分野だったこともあり、なんとか経理を脱してその業務を任せてもらおうと考えた結果、直近で控えていた新人研修で目立った成果を残そうと考えるようになりました。
ちょうど、入社後半年で行われる新人研修は、会長の鞄持ちを1日行い、その感想文を提出するというものだったのですが、直接会長の目に触れるということもあり、情熱を込めてA4で20枚もの感想文を書き、提出したんです。
「これをやったら絶対にアシスタントに選んでもらえるだろう」という、妙な確信がありましたね。
そして案の定、提出した次の日に会長の秘書の方から連絡があり、文才を買っていただき、脚本家のアシスタントに異動することに決まったんです。
28歳の退職、広報を極めたいという思い
それからは脚本家の方のアシスタント業務に加え、時には現場のADに機材車の運転に、とにかくなんでもやり、忙しい毎日が始まりました。また、運営施設のショーの脚本等を担当させてもらえるようになっていき、元々歴史が好きだったこともあり、非常にやりがいを感じるようになりました。
ところが、そんな業務を1年も続けると、体力的な厳しさもあり、普通の会社員に戻りたいと考えるようになりました。また、就職活動を通じて関心を持った広報の仕事に携わりたいという思いがあったんです。
そこで、どうしようか考えた結果、広報室の室長の方に脚本の書き方を相談しに通うようになり、なんと、一ヶ月後には、再び辞令が出て、広報室に配属してもらえることになりました。
それからは、とにかく楽しい日々を過ごしました。記者の方と話をするのも楽しかったですし、上司や先輩の指導の元、社内報の企画・発行を任せてもらえるようになり、裁量を持って働くことができました。会社や社員の魅力を自らの企画で伝えることができるのは、非常に楽しかったですね。また、社内のサッカー部と野球部を兼部し、週末はスポーツにも注力し、思わぬ形で夢を叶えることもできました。(笑)
しかし、そんな風にある種恵まれすぎた環境で働き続けた結果、28歳を迎えた頃、なんだか仕事に刺激が足りなくなってきたんです。年齢的にも、何か始めるなら20代の方がいいという思いもありました。
そこで、ふと、これからは中国語を話すことができたら武器になると思い立ち、会社を退職し、中国に留学に行くことに決めました。自分の中に迷いはありませんでしたね。
その後、北京・天津の学校に通い、毎日非常にエネルギーを使う、刺激的な日々を過ごしました。買い物もタクシーも、毎日喧嘩をしていましたね。(笑)
そんな期間を2年過ごした後、日本に戻り就職先として考えたのはやはりPR業界でした。やはり、これまでの経験を活かし、広報を極めたいと思ったんです。
そこで、株式会社電通パブリックリレーションズに入社し、大阪支社で働き始めました。
その支社は人数が少なく、営業もメディアプロモーションも、全てを自分でやるような環境でした。以前より圧倒的に広い業務範囲に、「こういうことをやるのか!」と勉強になりましたね。
その後、大阪で2年働いてからは、異動で再び東京に戻ることになりました。
ベンチャーでも広報は負けない、挑戦を繰り返す日々
ところが、東京では営業に配属になったこともあり、法人のクライアント獲得に没頭し、PR業界にいながらもメディアの方と全く接点の無い仕事になってしまったんです。「広報を極めたい!」という思いで入社したが故に、次第にもどかしさを感じるようになっていきました。
また、代行会社であるからこその、広く浅くの支援という携わり方にも葛藤がありました。ある種助っ人のような関わり方ではなく、もっと主体者として深く広報に関わりたいと感じたんです。
そこで、4年ほど働いた後、エージェントから紹介を受けた、株式会社ぐるなびに転職を決めました。
再び企業広報に携わることになり、初めてのベンチャーということもあり、最初は慣れずに大変な面もたくさんありました。しかし、次第に、広報はデータを元に語られることが多く、それ自体は大事なものの、「現場で起こっている面白い情報」に、より大きな価値があるんじゃないかと感じるようになりました。
そこで、飲食業界の情報にとにかくアンテナを張るようになり、現場にも足を運び続け、気づけば、「外食のことなら栗田」「困った時の栗田頼み」と言っていただける程、業界の現場に詳しくなることができました。
そもそも、自社より大きな会社や、資産の多い会社も沢山ある中、「ベンチャー企業でも広報では負けない!」という気持ちがあったので、とにかく、今までに挑戦したことのない施策ばかり取り組んでいましたね。
しかし、もちろん全てがうまくいくこともなく、良かれと思ってしたことが裏目に出て、会長から3回もクビだと言われ、始末書を3回も書きました。それでも、大事なのはそこから学び、取り返していくことで、挑戦自体は止めませんでした。
その結果、2008年の「訳ありグルメ」、2009年には「トマト鍋」等、次々と世の中のトレンドやブームを仕掛け、会社でも要職を任せていただくようになりました。
ベンチャー広報の課題に自分の経験を役立てたい
そうして、ベンチャー広報として他社の方にも認知をされるようになると、次第に、他のベンチャー企業の広報の方から相談を受けるようになったんです。それも一度や二度ではなく、毎日のように他社の方とお会いする日々が続きました。「こんなに困っている人がいるのか」と驚きましたね。
というのも、既存に出回っている本やセミナーは全て大手企業を例にとったもので、ベンチャーや中小には役に立たないものばかりだったんです。そんな現状を知っていくうちに、次第に、自分が試行錯誤する中で得た経験を伝えることで、より多くの人の役に立ちたい、と考えるようになりました。やはり自分自身、ベンチャーでも大手に広報では負けない、というモチベーションでやってきたからこそ、同じような境遇の方を支援したいという思いがあったんですよね。
とはいえ、会社的に副業ができないこともあり、色々と考えた結果、広報担当者支援の場を設けるため、会社を退職して独立しようと考え、会長に辞意を伝えに伺いました。
しかし、その報告に対し、1年間、業務と並行して広報支援の活動を行っても良いという許可をいただくことができ、ぐるなびに勤めながら、広報担当者の養成機関、「東京PRアカデミー」を立ち上げることになりました。
そして、まず初めはマスコミと広報の交流会、広報担当者の勉強会から始めたのですが、いきなり数十人規模での参加者に来ていただき、改めて悩んでいる担当者の多さに気づかされました。その後、回を追うごとに規模は大きくなっていき、私個人の活動が朝日新聞に載ったり、念願だった著書の出版の機会にも恵まれ、どんどん活動の場が広がっていきました。
そして、1年並行で活動を続けた後、ぐるなびを退職し、東京PRアカデミーを法人として、ビジネス化しました。
広報と外食産業に、自分の経験を還元する
現在は大きく分けて4つの活動に取り組んでいます。まず、ぐるなび在職中に始めた「東京PRアカデミー」のクライアントは50社を超え、交流会や勉強会を定期的に実施しています。
また、今は東京だけで開催していますが、今後は名古屋・大阪にも活動を広げていく予定です。例えば、名古屋には全国区のベンチャー・中小企業が多数あるのに、未だにトヨタしかないようなイメージをもたれています。そんな状況を、広報担当者から変えていくことができればと思っています。
2つ目は、弁当宅配サービス「ごちクル」を運営するスターフェスティバル株式会社にて、週3日勤務の「限定正社員」という働き方をしています。この制度では、ベンチャーだからこそ、プロフェッショナルな人材を採用するための手段として、週のうち、60%だけ勤務してもらうというもので、実際に事業責任者もその勤務形態をとっています。
元々、東京PRアカデミーでご縁があって働き始めたのですが、この制度の存在は、実は私の独立をかなり後押ししてくれていました。
社会保障も福利厚生も対象となり、起業につきもののリスクが軽減されることで、家族の説得はもちろん、本業で思い切り攻めた判断をするためにも、非常に大きな支えとなりました。
また、制度の面以外にも、前職時代から現場を回る中で抱いた「外食産業を救いたい」という思いを実現する事業やビジョンに惹かれた点も大きいですね。
そして、そんな思いから自ら事業を立ち上げたのが、3点目の株式会社外食広報会の活動です。ここでは、ぐるなびの広報時代に培った飲食店とのネットワークを活かし、外食企業のコンサルティングやPR支援を行っています。
日本の外食は世界一なのに、国内の市場は右肩下がり、本当に頑張っている小さなお店や、志の高いシェフのお店がつぶれてしまうということを本当にたくさん見て来ました。
だからこそ、自分が携わることで少しでも業界を活性化できればと思っているんです。
これらに加えて、知人が代表を務める企業ブランディングのコンサル会社の手伝いを含め、計4つの仕事を並行で行っています。
環境は別々なものの、どれも「広報担当者の支援」と「外食産業の活性化」という二点を目的にしており、今後もその2点に注力していきたいですね。
これまで、自らやりたいことにチャレンジを続け、正直、失敗もたくさんありましたが、描いていた夢をある程度叶えて来た実感があります。しかも、チャンスは向こうから来てくれたんです。
もちろん、チャンスを掴めるような努力をしていなければいけないのですが、語弊を恐れずに言えば、人生はある程度思い通りになると思うんです。
失敗を重ねた自分だからこそ伝えられることがあると思うので、これからも挑戦を続けつつ、還元もしていければと思います。
2015.04.06
栗田 朋一
くりた ともかず|広報担当者の養成機関運営・外食産業のPR支援
スターフェスティバル株式会社で限定正社員として働く傍ら、
広報担当者の養成機関「東京PRアカデミー」にて、マスコミ広報交流会、広報スキルアップ勉強会等を運営する。
また、株式会社外食広報会の代表、株式会社分析広報研究所のシニアパブリックリレーションズアナリストを務める。
編集部おすすめ記事2019.10.11
編集部の伊藤です。秋は悩みの多い季節と言われます。例えば、ファッション。先週真夏日があったと思ったら、今週は台風到来と秋は天気が激しく変わるので、何を着るか悩みますよね。でも、そこで無難なファッションを選ぶと気分が上がらない。ファッションが心理状態に与える影響の大きさは様々な研究が示していますが、実はanother life.にもその実例があるんです。今回は、ファッションをきっかけに自分に自信がついた3名のストーリーをご紹介します。ぜひご覧ください。
寝たきりの17歳と社会を繋いだファッション。恩返しのためにパイオニアとして切り拓く道。
ファッションを通じて自信を取り戻してほしい!コンプレックスをチャームポイントに。
人生にBefore/Afterを!「短髪・体育会・ジャージが私服」だった私だからできること。