高島平の高齢者を日本で一番カッコよく!
私が再度、主体的に起業した理由。
東京都板橋区の高島平に住み、「高島平の高齢者を、日本で一番カッコよくしたい」という思いから、地域活性化や、タブレットを用いた高齢者や障害者の生きがい作りのサービスを展開している高島さん。一度事業に失敗し、1億円の負債を抱えた経験を持ちながらも、今回の起業を決心するにはどのような背景があったのでしょうか。お話を伺いました。
高島 芳美
たかしま よしみ|地域活性のためのコミュニケーター
高島平を社会問題解決のこれからのモデルになるよう、
高齢者・社会弱者問題や、地域活性化活動に取り組む合同会社ユア・ランドの代表。
合同会社 ユア・ランド
撮影場所 和みサロン ゆずり葉
様々な体験が企画の発想の原点
私は、北海道の旭川市近郊の農業の町で生まれました。
農家の長男として生まれたので、父からは跡を継ぐように言われました。
しかし、当時の北海道の米は美味しくなく、
また、全て農協の利権構造下にあるような農業には魅力がなく、
中学生の時には造船技師になるのが夢に。
小さい時から船の絵を描くのが好きだったんです。
そのために地元の進学校に入学したのですが、
中学では成績上位でも、造船では必須の数学が、2年で3年までの授業終わらせるスピード授業。
受験のために、3年からそちらの勉強に充てるんです。
造船には肝心の数学についていけず、
初めて勉強でコンプレックスを味わいました。
しかも、スポーツクラブにも入っていたので、学業と両立させることが出来ず、
造船技師の夢は高校2年であえなく挫折しました。
結局、絵を描くのが好きだったので、何となく世界が近いデザインの道を選んだんです。
でも、北海度にはデザインの勉強の環境が整っておらず、東京の学校へ行くことにしました。
旭川は四方を山に囲まれた盆地です。
テレビで見る東京への憧れ(文化環境)、山の向こう側を見てみたいという、
地理環境がそうさせたのだと思います。
しかし、父に農家を継がないのは認められたものの、
地元の国立大学に入り、安定した仕事に就くのが条件。
そのためには何浪してもいいとまで言われました。
当然、デザインの道など許してくれません。
そこで、入学金だけは出してもらい、新聞配達で3年制のデザイン専門学校へ。
2年の学校だと時間が短く、4年の美術大学だとバイトを続けるのがキツイと思ったんです。
そして、そこで第2の劣等感を感じるようになりました。
そこは、結構、先鋭的なゼミがあったり、マニアックなデザイン専門学校でもあって、
同級生には大学を卒業したり、社会人生活を経験して入ってきた年上の学生がゴロゴロ。
授業が終わり、みんなでお茶する時間には、私は夕刊を配達する関係でそこに加われなかったんです。
同級生と時間を共有できないのは距離ができて辛いものでした。
只でさえ、歳が違う人もいるのですから。
そして、その、ストレス発散になったのが、お洒落をすることでした。
新聞配達のお陰で、ある程度お金があったので、スーツやジャケット、ネクタイから靴まで、お洒落には凝りました。
そして、漠然と“カッコいいモノ”を作りたいという思いで、 あるデザイン事務所に就職したんです。
アメリカ人に負けない生き方をしたい
そのデザイン事務所は、徒弟制度や修行といった風潮が残っているような
古い体質のデザイン事務所で、8年間勤めました。
ちょうど、その体質に対して自分の中で少し違和感を感じていた頃、
得意先の人が独立して1年が経ち、
そこに来ないかと声がかかって、転職することにしたんです。
転職した広告企画会社は、直クライアントがメインで、
その分仕事には厳しく、最初の1年間は辞めることばかり考えていましたね。
特にある上司が企画に対して厳しく、
デザインの発想に完全に自信をなくしたんです。
でも、結局はその上司から企画をする上で、とても大事なことを教えて頂きました。
特に給料の意味を。
ある時、「給料はその人のこれまでの人生に対して払われているんだよ」と言われたんです。
つまり、いろいろな人生体験をしていないと、
本質的な問題を解決したり、共感できる企画はできないということに気付かされたんです。
それ以降、貯金することより、体験することが“投資”だと思い、
子供達も含め色々な場所に足を運ぶようになる等、行動が変わりました。
すると、ちょうどその上司から、ハワイ旅行のポスター・パンフレット制作の仕事がきたんです。
それまで、ハワイに行ったことはありません。
そして、パンフレットが出来あがってから、
そのツアーで妻や友達と一緒に、ハワイに行ったところ、
同じホテルになった、アメリカ人高齢者の30人前後のツアーグループを見てビックリ!
そのパワフルさやファッションセンス、表情の豊かさに衝撃を受けたんです。
と言うのも、 ハワイへ行く少し前に歩いた巣鴨のとげぬき地蔵に見た日本の高齢者を思い出し、
特に男性に対して、 そのセンスの無さや表情の乏しさに、
この差はどこからくるのか、ずっと考えるようになったんです。
その後、40歳になった時に得意先の人から独立を勧められ、
自分でデザイン会社を立ち上げることになりました。
それまでの得意先の人が何人か応援してくれた支援してくれたこともあって、
序盤から割とすんなりと売上高を伸ばすことが出来ました。
しかし、最初から上手くいったことで、自分が大きなお金の裁量を握っていたこともあって、
少し傲慢な気持ちになってしまったんです。
一生懸命働いている人を小馬鹿にしている自分と、
それを客観視して「お金で変わるってこういうことなんだな」と思っている自分がいました。
そんな背景もあってか、結局創業から7年後に、
1億円の負債を抱えて自己破産しました。
全て自分の人を見る目の無さと、経営者としての力の無さです。
そして、倒産当時にお世話になっていたデザイン会社で、
社員も一緒に雇ってもらって、働くことになったんです。
男性高齢者の居場所のなさに疑問
その会社では、2006年まで働きましたが、
社長が辞めることになったタイミングで、私も一緒に退職しました。
新しい社長とは、そりがあいませんでしたし、
企画内容よりコストを優先するようになっていた、デザイン業界に嫌気がさしていたんです。
そこで、どうせ辞めたなら今までの垢を全部落とそうと思い、
思い切って1ヶ月家にこもってみようと思いました。
しかし、人と話さないことが想像以上に辛くて、1週間も続かなかったんです。
人間は人と関わり合いを持ってないと駄目だったんですね・・・。
そこで、久しぶりに自分の街を歩いてみたときに、
これまで仕事漬けだった自分は、 この街のことを何も知らないことに気がつきました。
昔の活気もなくなっていると感じましたし、特に図書館に行った際、
男性がぼーっと新聞を持っている姿を見て、彼らの「居場所のなさ」に疑問を感じました。
本を読んでいるのか、置いているのか分からないような光景を見て、
「あまりにも寂しいから、何かしなくちゃいけない・・・」
と思いましたね。
ちょうど、地元の大学で地域再生プロジェクトの話が出てきたので、
それに協力するようになりました。
しかし、このまま働かないのを続ける訳にはいかないので、
地元でお洒落な飲食店でも開こうかなという気持ちから、
居酒屋チェーン店でアルバイトを始めました。
そしてそんなアルバイト生活が8か月経ったころ、
妻に、「あとどれくらいこの生活に耐えられる?」と聞いてみたら、
妻の答えは「1カ月」でした。
私に残されたタイムリミットは1ヶ月だったわけです…。
しかし、ある人の相談で見積りを取る必要がでてきて、
昔、お世話になった社長に連絡したところ、直ぐに会いたいとのこと。
その日に会って、デザイン部門の強化で二日後には、
入社することになったんです。
妻からの猶予期間も残り二日でした。
高齢者の生活は高齢者がもっと生き方を考えるべきだ
その後、そこで1年ほど働き、別なデザイン会社立ち上げで、
部門長として声がかかり、そちらに転職しました。
たまたま、地元の有識者からオーストラリアのメルボルン近郊の高齢者施設見学の話を頂き、
一週間以上一緒に行くことになったんです。
メルボルンでは、近郊の病院や高齢者の施設を数カ所見ましたが、
その哲学の差から 日本とは全く違っていて、
「病院」のように感じない空間だったので、とても衝撃でした。
しかも、オーストラリアの高齢者は、
施設でのプログラムを自分たち自身で考えていたんですね。
ディサービスの施設の理念が、“自立性と自発性を促す”なんです。
その姿を見て、
「高齢者の生き方は高齢者自身が考えないと!」
と強く共感しました。
一方で、北海道生まれのせいもあって、街の汚さに悲しさを感じていたんですね。
地元のよく行く飲食店でゴミ拾いを提案したところ、
飲み仲間が 快諾してくれたので、知り合い4人で始めました。
その活動をしていく中で、一人の高齢者から声を掛けられ、
20分以上話し相手になったんです。
聞けば独り暮しの女性で、話し相手が欲しかったらしいのです。
ゴミ拾いの仲間も同じように声をかけられて、
地域に高齢者の居場所が足りないことに気付かされました。
そこで、「コミュニティを作ろう」と思って、会社をスタートさせる決心をしました。
前回の起業の際に失敗していましたし、
前回のように資金が集まっている訳ではなかったこともあり、
ゆっくり始動することを心がけました。
高島平を日本で一番カッコいい高齢者の街に
そして2012年に、高齢者が一番幸せな町を作るべく、会社を設立しました。
以前作った会社は、人に勧められて始めた会社です。
しかし、今度は社会の大きな課題を目の当りにして考えた会社。
この時は自分でもう一度「会社を作らなきゃ」と思っていましたね。
現在は、週1回のゴミ拾いやタブレットを使った高齢者や障がい者の生きがい作りサービスを提供しています。
ちなみに私は、カッコいいの定義を
「元気である」、「周りに対して気を配れる」、「お洒落である」、「死ぬまでにお金を使い切る」、
そして「人間としての尊厳を持っていること」だと思っていて、
それ以外にもオープンなコミュニティカフェの構想を練ったり、高齢者の健康増進と地域振興を目的に、
売電可能な人力発電サイクルによる地域通貨システム作りを考えています。
また、社会問題を地域の人同士を繋いで解決する、「ミツバチ」のような働き方をしたいという思いもあるので、
声をかけてもらったコミュニティには、これからも積極的に参加したいです。
そして、80歳になったら、新しく会社を起こしたいと思っています。
アメリカには、そういう人が多いと聞くので、負けたくないんです・・・。
2015.01.14
高島 芳美
たかしま よしみ|地域活性のためのコミュニケーター
高島平を社会問題解決のこれからのモデルになるよう、
高齢者・社会弱者問題や、地域活性化活動に取り組む合同会社ユア・ランドの代表。
合同会社 ユア・ランド
撮影場所 和みサロン ゆずり葉
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