ラーメンクリエイターが世界中に笑顔を届ける!
高校生の頃から創り続けた「明日の一杯」。
「ラーメンは人を幸せにするツール」と語り、東京都内に5店舗のラーメン屋を経営する庄野さん。年間500杯以上のラーメンを食べ、店内に「ラボ」と呼ばれる研究室を作り、麺を噛んだら材料のイメージや改善点が頭に浮かぶというほど研究に勤しみ、日々創作ラーメンの開発をしています。その半生を伺いました。
庄野 智治
しょうの ともはる|ラーメンクリエイター
東京都内に5店舗のラーメン屋を経営する株式会社麺庄の代表取締役を務める。
ラーメンクリエイターとして創作ラーメンの開発に勤しむ。
「明日の一杯を創る」-株式会社 麺庄
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コロッケ屋で「げんこつ」をもらう
私は神奈川県川崎市で生まれました。
小さな頃から料理が好きで、友だちの家に行き冷蔵庫の中にあるドレッシングなどを混ぜてオリジナルソースを作ったり、
『クッキングパパ』や『美味しんぼ』等の漫画を見てレシピを真似たりしていました。
夜中に兄をたたき起こして、一緒にうどんを練ったりもしましたね(笑)
なんとなく自分でオリジナルの料理を創作するのが好きだったんです。
作るだけでなく食べるのも好きで、小学生の頃からよく兄に連れられてラーメンを食べに行っていました。
ある時、近所にラーメン専門店ができたので食べに行くと、そのお店で出されるラーメンの味に衝撃を受けました。
それまで食べに行っていた中華料理屋のラーメンとは別格の味だったんですよね。
そうやってラーメンが好きになっていくと、自分でも作ってみたいと思うようになっていきました。
そして、高校3年生の頃、行きつけだったコロッケ屋さんに頼んで、スープを煮込むための「げんこつ」を譲ってもらい、
インターネットのレシピを見てスープから作ってみました。
最初は札幌みそラーメン店「すみれ」の味の再現を目指して自宅で友だちを呼んでラーメンをふるまうことにしました。
すると、できたラーメンはめちゃくちゃ美味しくて、友だちからも大好評でした。
この時、将来はラーメン屋になることを決めたんです。
お客さんと作り手の距離
高校卒業後、大学は経営学部に進学することにしました。
ただ、2年程経つと大学の授業で学べる知識はだいぶついてきたと思ったし、
早く開業するために資金を貯めなければと考え、大学を中退して塗装屋で働きはじめました。
一方、家ではよくラーメンを作っているものの、どこかのお店で修行するといったことはありませんでした。
正直、ラーメンの作り方はお店によって全然違ったし、
どこかのお店に染まり型にはまってしまうのは避けようと思ったんです。
また、私は自分のお店を荻窪にある「春木屋」ような店にしたいと考えていました。
春木屋はカウンターの目の前で調理の光景を見ることができて、そのお客さんとの作り手の距離の近さが好きだったんです。
しかも、ある時カウンターではなく奥のテーブル席で食べたら、あまり美味しいと感じられなかったことがあり、
目の前で調理しているところを見る「空間」が創りだす美味しさというのをより実感したんですよね。
また、味としてはこってり系が好きだったので、ちょうど流行し始めていた豚骨魚介にしようと思っていました。
そして、お金がたまり良い物件が見つかった25歳の時に、市ヶ谷に「麺や 庄の」というお店を構えることにしました。
行列の中、最悪のラーメン
ラーメン専門店なんて珍しかったし、内装も自分たちで手がけて施工期間も長く注目されていたので、
初日は開店前に50人以上の行列ができ、一日中お客さんは絶えることはありませんでした。
しかし、ラーメンの味はめちゃくちゃ不味かったんです。
序盤は自分では満足する味でした。
ただ、大きな鍋に作ったスープは、温度管理をしないとどんどん劣化していき、途中からは自分でも不味いと思うものに変わってしまったんです。
それまでラーメン屋で働いたこともなかったので、そんなこと知らなかったんですよね。
さらに悪いことに、空調設備は前のテナントが入っていたままで、
ラーメンの湯気が考慮できていなかったので、店中が熱気に包まれ食べる環境としても最悪でした。
その結果、お客さんはラーメンを残したまま席を立っていき、次の日からはお客さんがかなり減ってしまったんです。
それからは、お客さんが少ない中でも、毎日スープの改良を重ねていきました。
そんな中でもあるお客さんは毎日お店に足を運んでくれて、
味というよりも毎日の変化や店自体を応援してくれていて、非常に嬉しかったですね。
そして、3ヶ月ほどして少しずつ安定してお客さんも来てくれるようになった頃に、創作ラーメンを考えることにしました。
美味しいラーメンでも、2回目に食べて感動させるのはとても難しいと感じたんです。
そこで、創作ラーメンなんてやっている他の店は聞いたことなかったので、今までに食べたことのないような驚きのラーメンを提供しようと考えたのです。
そうやって生まれた創作ラーメン第一号は、寒ブリを使った塩ラーメンでした。
これは非常に評判がよく、「普通のよりもこっちがいい」と常連さんに言われるほどでしたね(笑)
辛い状況で溢れる笑顔
それからは創作ラーメンも創り続け、そのネタ探しやラーメンの味を研究するため毎日色々なものを食べ歩いていました。
ただ、お客さんから評判が良くても、店舗を増やすことは考えていませんでした。
私にとっては自分が作ったラーメンを目の前のお客さんに提供して、喜んでもらうことに意味があったのです。
そんな時、東日本大震災が起きました。
被災地の痛ましい現状を見て「自分にも何かできないのか?」と考えた時、私にできることはラーメンを作ることだったんです。
そこで、何名かのラーメン店主に声をかけ、協力してくれる企業から材料なども手配してもらい、
震災後10日ほどしか経っていない石巻市役所の目の前で、ラーメンの炊き出しを行いました。
すると、被災地の方々が本当に喜んでくれたんです。
辛い状況の中にある人から溢れる笑顔を見た時、ラーメンの持つエネルギーを肌で実感したんです。
そして、人を幸せにする力のあるラーメンをもっと多くの人に届けたいと思うようになり、
自分が店主としての店だけでなく、店舗を拡大していくことを決意したんです。
そこで、創作らーめんの中でも人気のあった、鳥だしを使ったつけ麺をメインにした2店舗目を新宿に構えることにしました。
幸せを紡ぐ明日の一杯
そして今では東京都内に5店舗のラーメン屋を経営しています。
それぞれコンセプトや味は違うものの、同じ塩を使うことで統一感を出すようにしています。
私個人は、時々各店舗に立つ以外は創作ラーメンの開発に力を入れています。
後楽園の店舗ではラーメン研究室「ラボ」を店内に作っているので、そこでメインの研究をしています。
もちろん食べる歩きも続けていて、気になるラーメン屋やそれ以外の料理もたくさん食べています。
そうやって食べ歩きをしていくうちに食材のことが気になり始めたので、
最近では生産地に行き、直接生産者の話を聞いたりもするようになりました。
すると、各地域の人は作ったものが中々売れず、経済的に厳しい状態が多いことが分かってきました。
そこで、今後は各地域の特産品を創作ラーメンに昇華して、ラーメンから地域の活性化にもつなげていきたいと考えています。
また、2015年の1月にはサンフランシスコにも店を構える予定です。
昔からアメリカには出店したいと思っていたのがやっと実現します。
海外にラーメン屋さんは日本の質をそのまま表現できているお店は少ないので、本物の味を届けていけたらと思います。
そして、ラーメンを日本食の大黒柱にしたいですね。
海外の人が調べる日本食キーワードで「寿司」「枝豆」に継ぐのが「ラーメン」なので、寿司を超えられたらよいですね。
私はラーメンはお金儲けの道具ではなく、色々な人を幸せにするツールだと考えています。
そのため、今後も美味しい一杯を追求し、さらに付加価値をつけて多くの人を幸せにしていける、
そんな「明日の一杯」を創り続けていきたいですね。
2014.12.07
庄野 智治
しょうの ともはる|ラーメンクリエイター
東京都内に5店舗のラーメン屋を経営する株式会社麺庄の代表取締役を務める。
ラーメンクリエイターとして創作ラーメンの開発に勤しむ。
「明日の一杯を創る」-株式会社 麺庄
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