大切な人への想いの伝え方。
私の原点である「声」にのせて。
ラジオ局から営業会社など様々な経験を経て独立し、現在個人向け感動サプライズ演出番組を一から1人で制作する東さん。個人向けに、普段言えない人への「想い」を「声」にして伝えたいと思うようになったその経緯とは?お話を伺いました。
東 大悟
ひがし だいご|オーダーメイド音声番組クリエイター
パーソナリティオーダーメイド番組クリエイターとして、
大切な人に普段中々想いを伝えることができない人のために、
自分の「声」をカタチにしてその相手に届ける。
アニバーサリーボイスHP
きっかけは現代文の音読
高校時代、放送部に入っていました。
もともと放送に興味があったわけではなく、
ある日現代文の授業で音読を指名されて読み上げたのですが、授業後に放送部の顧問でもある現代文の先生から
「東くん、声がいいね。」と言われ放送部をやってみないかと誘われたんです。
中学校の時には3年連続で弁論大会に優勝するなど話すことは昔から好きだったので、
特に違和感はなく、放送部に入ることにしたんです。
宮崎県生まれで、高校も地元の進学校に通っていたんですが、
宮崎県の高校の放送部は現役のNHKアナウンサーが指導をしてくれていたので全国でもレベルが高いんです。
宮崎の方言はアクセントやイントネーションの概念がなく、
例えば食べるアメと、降る雨の発音の違いがなかったりするんですね。
そういったイントネーションなどをはっきりさせるために、ここではアナウンサーの方が指導に入ってくれていたんです。
もちろん練習はハードでした。
夏期講習のようなものに行って、毎日厳しい指導を受けたりしていました。
そうして放送部を続け、3年の最後の全国大会でアナウンス部門で入賞することができたんですが、
その全国大会で知り合った人達がすごく面白い人が多かったんです。
研究発表部門に出ていた人達と仲良くなり、
彼らの、人に想いを伝えることに対する情熱を語る姿を見て、自分もこっちだな、と思ったんですよね。
彼らのように、人に想いを伝えるためにはどうすればいいのか、と熱く語れる人間になりたいと思うようになったんです。
まだ社会は知らないけれど、それこそが自分が理想とする大人だと思ったんです。
立ち上げから関わったからこそ
そう思って大学では放送とともに、想いを表現するために演劇部に入りました。
かなり演劇にはまっていて、将来演劇一本でやっていこうかとも思いましたが、
最終的には放送関係で就職することを選びました。
就職は地元に新しくできるラジオ局に決まり、立ち上げから関わることになりました。
もともと制作希望でしたが、会社が立ち上げの段階なのでそうも言っていられず、
できることはもう何でもやっていました。
最初はラジオCMの飛び込み営業をしていましたね。
この時はただ紙の企画書を持った提案ではなく、
既に放送に関わるノウハウを持っていたので、
模擬CMを作って「こういった感じのCMどうですか?」なんて実際のコンテンツを聞かせながら提案をしていましたね。
おかげで営業成績は良かったです。
また、2年目くらいに番組の統括をしていたディレクターの人が辞めてしまって、
番組を作れる人がいなくなりそうな時期があったんです。
僕はこの時に番組制作もしたため、録音機材の使い方や録音方法などの知識もつき、
ほとんど一人で番組制作ができるくらいになったんです。
そして、ラジオ番組上で中継の仕事もさせてもらえるようになり、
中継を続けていくうちに人気が出て、1年半後くらいから自分がパーソナリティの番組を持たせてもらえるようになったんです。
この時にラジオのリスナーから、サプライズで友達や恋人の誕生日にメッセージを読んで欲しいという声を頂くことがあり、実際にそれをやっていたんですが、
なんせ生放送なので相手の方が放送を聞くことができなかったということが多かったんです。
せっかく想いの込められたメッセージを読んでも、相手に伝わらないのがすごくもったいないなと思い、
ラジオという公共の場ではなく、もっとパーソナルな形で想いを届けられないかと感じましたね。
紆余曲折を経て得た経験
その後入社4年目の時に、ラジオ局が、ケーブルテレビ会社に統合されることになりました。
これを機にその会社を辞めることにしたんです。
というのもちょうどこの頃、これまでのコンテンツありきの営業ではなく、
一から営業におけるビジネスのノウハウを学びたいと思っていたんです。
そのため、東京の印刷会社に営業として入ることにしました。
ただここは想像以上に厳しく、数字を追い続ける毎日で大変でした。
周りの先輩達は営業目標の数字を達成すれば、どんなに疲れていてもリセットしてまた仕事ができる人達だったんですが、
僕は目標数字を達成しても全然嬉しくなかったですし、精神的にきつく、
営業は向いていないということが分かりました。
そんな環境に体がついていかず、ある時体を壊してしまい、それを機に辞めることにしたんです。
ここでは営業におけるビジネスのノウハウだけでなく、
自分の体が一番大切だということを学ぶことができましたね。
その後、少しだけ東京のラジオ局で働いた後、体験型のギフトを提供する会社で働きました。
「もの」ではなく体験である「こと」を売るのが面白いと思ったんです。
面接では、ちょうどその頃考えていた、ラジオを絡めたプレゼントのアイディアを話すと社長に興味を持ってもらうことができ、
また社長がラジオ好きだったことも後押しして、そこの企画室で働くことになりました。
そこでは、企画書を2000ページ以上書き、数年間働いた後退職し、
妻が会社の都合で大阪に行くことになったので、大阪で働くことにしたんです。
大阪では視覚障害者専用のラジオ局で働きました。
毎朝、目が見えない人向けに朝刊を読む事業をやっていて、私はそこで2年半ディレクターをやりました。
ここはラジオといっても電波を使わないデータ放送で、インターネットを通じて番組を配信できたんです。
そのため、大掛かりな機材が必要無く、電波を飛ばす放送局がなくても放送できるんです。
録音機材などの必要最低限の機材があれば、あとはコンテンツをCD等に記録しておけばいいんです。
今までは電波放送で大変だったけれど、これはすごく手軽だなと思いましたね。
こうして様々な仕事を通じて得た知識・技術をもとに独立しようと決意し、今の会社を立ち上げたんです。
想いを「声」にして届ける
今は、「アニバーサリーボイス」という、個人が特定の誰かに想いを送るための音声番組を製作しています。
普段は中々家族や恋人などに対して気持ちを伝えられない人のために、
その想いを込めたメッセージを私が代わりに読み、伝えたい人の要望を組んだ構成を一から考えた番組を製作し、
相手への気持ちを120%増幅させて伝えるお手伝いをしています。
ラジオの番組制作から放送まで全ての経験があるプロの私が第三者として伝えるからこそ、
受ける側も素直に言葉を受け取れ、伝える側も第三者に預けるから素直になれる、そんなサービスです。
色々な仕事をしましたが、結局全ての仕事が今のサービスに繋がっているんです。
ラジオ局で番組作りの様々な知識を覚えたこと、
営業を経験して改めて制作が好きだと学んだこと、
視覚障害者向けのデータ放送で手軽に一人で全ての制作ができるということ。
また、体験型ギフトの会社で働き、
感謝の気持ちを伝えるために「もの」を贈る日本の文化を身近に感じることができたので、今のアイディアに繋がりました。
「もの」を贈り感謝を表現する文化に、さらに「想い」を言葉にして、
「声」で届ける習慣がプラスされたらもっと幸せだと思ったんですよね。
だからこそ、気持ちを伝えたい相手にはちゃんと「声」にして「想い」を届けたいな、と思ったんです。
相手に「想い」を届けるひとつの手段として今のかたちをとっていますが、
どんな手段であれ、大事な人にちゃんと「想い」を届ける、
そんなことをあたりまえにする風土を日本にも築いていけたらと思っています。
そのきっかけのひとつに、アニバーサリーボイスが入っていれば良いなと思っています。
2014.09.07
東 大悟
ひがし だいご|オーダーメイド音声番組クリエイター
パーソナリティオーダーメイド番組クリエイターとして、
大切な人に普段中々想いを伝えることができない人のために、
自分の「声」をカタチにしてその相手に届ける。
アニバーサリーボイスHP
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