酸いも甘いも人生を味わい尽くす。
向き合うことで見えた、私の生き方。

ウエディングプランナーとして、現在は歴史ある建物で行う結婚式のプロデュースに力を注がれている宮腰さん。 「この仕事を始めて時が経ちましたが、今でも日々考え、探求していくのが楽しくて仕方ないんです」と語り、とても輝いて仕事をされています。 しかし実はそんな現在とは裏腹に、コンプレックスを持ち、様々な困難に直面してきた過去があったそうです。 それでも「続けてきたからこそ、今がある」と話すその背景とは、いったいどのようなものだったのか、お話を伺いました。

宮腰 真里

みやこし まり|ウエディングプランナー 兼 結婚式場のプロデュース業
結婚式で「誕生・再生・感動」のミッションを掲げ、ホテル、専門式場、レストランなどのウエディングプロデュースを行い、
更に本物・歴史のある建物での結婚式のプロデュース業に力を注ぐ。

株式会社 Daiyu

「コンプレックス」が、私を強くした。


小さいころから、勉強も運動も何でもできる4歳年上の姉に、ずっとコンプレックスを持っていました。

そんな姉がミニバスでプレーしていたことをきっかけに、
小学校2年生のときに私もバスケを始めたんです。

自分が始めたころは、ちょうど姉が最年長学年のスター選手だったので、
それに負けじと練習にのめりこんでいきましたね。

そして姉が中学でバスケを辞めると知ってからは、

「これだけは唯一、姉に勝てるものにしよう!」

と心に決め、バスケを極めることにしたんです。

朝4時に起きて朝練に向かい、学校が終わった夕方4時から夜10時まで練習するという生活を毎日繰り返し、本当にバスケ漬けの日々を過ごしていましたね。
すると徐々に実力をつけ、インターハイ出場を果たし注目され、
高校3年生のときに大手電気会社の実業団チームからスカウトされました。

しかし、スカウトされて嬉しい反面、小学校からバスケばかりをやってきて練習も辛かったので、
高校を卒業したら辞めたいという気持ちもあったんです。
でも幼いころから、経営者をしていた父親に、

「社会に出て自分に何ができるかを考えなさい。
そして自分で判断して決めたことは後悔しないようにしなさい。」

と教えられていたんですね。

その教えの影響もあり、卒業後もバスケを続け、実業団に入ることを決めました。

「絶対に流行る!」ウエディングプランナーとの出会い


入団後は、今まで通りチームの主力選手としてプレーをしていました。
ところが1年程経ったある日、突然バスケ部の廃部を告知されたんです。

またそれに伴い、業務内容も変わり、仕事にやりがいが見いだせなくなってしまいましたが、
親の教育の影響もあり、社会人になったからには最低でも3年は仕事を続けるべきだ、という考えが自分の中にあったので、そのまま2年間仕事を続けたんです。

そして入社して3年たった22歳のときに、ついに会社を辞めました。
ちょうどそのころ姉がカリフォルニアに留学していて、
仕事を辞めて自由の身になったこともあり、特に大きな目的もなくとりあえず自分も姉のところに行ってみることにしたんです。

そして現地の学校に通って過ごしていたある日、
たまたま現地の人がガーデンウエディングをしているところに遭遇したんです。
すると、そこでプランナーの女性が無線インカムを使って会場を取り仕切りながら、
手際よく働いている姿に目を奪われました。

そもそも日本ではホテル以外で挙式をする選択肢が少なかったので、ガーデンで行っていることが新鮮で、
また女性主体の「ウエディングプランナー」という職業も馴染みがなかったので、

「これは数年後、日本で間違いなく流行るぞ!」

と直感的に感じずにはいられませんでしたね。

それからは日本に帰国して、採用情報雑誌に載っているウエディング会社の面接を片っ端から受け続け、
その中でも一番社長の考えに共感した会社に入社を決めたんです。

プロの「仕事」を追求した先に訪れた限界


入社してからは社長秘書の仕事をすることになりました。
実は、補欠での採用だったので、社長に「まだお客さんの前には出せない」と言われていたんです。

しかしそんな状況にも関わらず、

「私は28歳で独立します!」

と宣言し、そのためのノウハウを教えて欲しいとも社長に伝えていました。
そんな経緯もあり、この社長直下の配属になったんです。

そして入社して半年経った頃、ついにウエディングの2次会のプランニングを任せてもらいました。
しかし、たまたまお客さんが2次会の招待状の印刷をしなければと困っているのを聞いて、
安易に代わりに印刷すると引き受けてしまったんです。
すると、プリンターが原因で印刷された招待状の色がまばらになってしまったにも関わらず、
それを気づかずにそのままお客さんに渡してしまいました。
当然それを見たお客さんはお怒りで、担当を変えてくれと言われてしまったんです。

それまでは、単なるサービスとプロの違いがわかっていなかったんですよね。
何でもやってあげればいいというものではなく、お金をもらってプロとして仕事をする意味が、このとき初めてわかりました。

その後は、この経験から自分の意識が変わったこともあり、徐々に周りからも仕事を任せてもらえるようになっていきました。
先輩がいないために自分がメインで仕事をしなければいけない会場に配属になったり、
プランニングだけではなく新しいウエディングのプロデュースをやらせてもらったり、
とにかく必死に仕事をしていました。
その結果、25歳で気づけば会社の持つ式場全体の統括を任されていました。

しかし、そんな風に最前線で活躍し、多忙な日々を繰り返していたある時、
ついに体と精神に限界が訪れました。
自律神経失調症の症状が出始め、それでも仕事を続けていたのですが、
お客さんにまで、「大丈夫?」と聞かれてしまったんです。

このとき、一気に自分の中で何かが崩れ落ちました。
今まで、お客さんに喜んでもらい、期待に応えるために頑張ってきたのに、
むしろ心配させてしまったことで、もうダメだと思ったんですよ。

そしてこの次の日から、会社に行けなくなってしまいました。

結婚・出産を通して見えてきた、新たな生き方


それからは6ヵ月くらい、うつ状態で家から出られない生活が続いていました。
徐々に回復していきましたが、もう仕事に復帰したいとも思えず、
そのタイミングで結婚し、主婦になることにしました。

しかし、2ヵ月くらいでその生活には飽きてしまったんです。
その後、半年くらい経って妊娠した頃、知り合いの結婚式場のオーナーさんに、ウエディングのコンサルタントを頼まれました。
そして、それを機に徐々に仕事に復帰するようになり、
出産後も子どもが1歳半になるまで、講師やコンサルタントの仕事を自分のペースで続けました。

今までは、「28歳で絶対独立するんだ!」と期間を決め、
常に「まだ足りない、まだ足りない・・・」と自分を追い込み続けてきたんです。

しかし、結婚・出産を経験し、自分のペースで仕事をしていく中で、
誰かの期待に応えるために無理をするような今までのあり方が、徐々に変わっていきました。

期限を決めずにのんびり頑張ってみたり、
自分を偽らずにありのままの自分で目の前のことを大切にしようとしたりと、
そんな「素」の自分の生き方になりましたね。

自分を信じて、続けてきたからこそ今がある。


そして28歳のとき、父親が持っていた会社を引き継ぎウエディング事業部を設立し、
本格的にウエディングプランナーとして独立することにしました。

独立後、最初はプランナーとしての仕事をメインにしていました。
しかし、昭和初期に建てられた一軒家である「虎幻庭」のオーナーと出会い、
普段は別のことに利用されている場所を結婚式場として提案していく、プロデュースの仕事も再開することにしました。

オーナーの、お客さんに純粋に喜んで欲しいという気持ちや、通過儀礼としての結婚をもっと大切にしていきたいという思いに共感し、
この人となら一緒にやりたいと強く思ったんですよ。

実際にウエディングをやってみると、歴史ある本物の場所を結婚式場としてプロデュースすることに大きな意義を感じましたね。
そこには本物だからこその儚さがあり、これこそ日本人にとって必要な結婚式だと確信しました。
また、自分自身もこの場所の魅力をどうしたら引き出せるのかなど、日々探究していくことが純粋に楽しいと感じていますね。

これまでに様々な困難がありましたが、「考える前にやる」という姿勢で、その都度乗り越え、
自分を信じて行動し続けてきたからこそ、今があると思うんです。

これからも目の前のことに懸命に取り組んでいき、多くのお客さんを幸せに導いていきたいと思います。
それが結果的に、人の心を繋いだり、関わった人たちが何かを見直すきっかけになったりすればいいですね。

ただ今後については、どんどんポジティブな方に変わっていくということ以外、何も決まっていません。
何か野望があったり、この分野でなければいけないとか特別なこだわりがあるわけではないんです。
ただただ、関わる人々を幸せにしたい、この思いに尽きますね。
数年後何をしていて、会社がどうなっているのか、自分自身もとても楽しみです。

2014.08.23

宮腰 真里

みやこし まり|ウエディングプランナー 兼 結婚式場のプロデュース業
結婚式で「誕生・再生・感動」のミッションを掲げ、ホテル、専門式場、レストランなどのウエディングプロデュースを行い、
更に本物・歴史のある建物での結婚式のプロデュース業に力を注ぐ。

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