家出・バイク事故・難聴、そして音楽。
人の縁(ゆかり)に導かれた私の人生。

群馬県高崎市にて、LIVE BARの2代目としてお店の運営に携わりながら、麻雀プロとしても活躍する西嶋さん。「人の縁(ゆかり)に本当に感謝している」と話す背景には、数々の経験の意味を見いだせるような出会いがありました。

西嶋 ゆかり

にしじま ゆかり|LIVE BAR運営、麻雀プロ
群馬県高崎市のLIVE BAR 『みんなのうた』を運営する傍ら、日本プロ麻雀連盟所属の麻雀プロとしても活躍している。

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15歳の家出


小さい頃から家にあるピアノを弾くことが好きでした。もともと、母が幼い頃、ピアノを習うのが夢だったものの、貧しくて言えなかったということもあり、大人になってから買ったピアノが家にあったんですよね。

少し習ったこともあったのですが、言われた通りに弾くことができず、自由に弾いている方が好きでしたね。ピアノを弾いているときは全く苦を感じず、将来はピアニストになりたいなと思っていました。ただ、そのための教育を受けていないことは理解していたので、恥ずかしくて誰にも言ってはいませんでした。

また、通っていた中学校では成績がよく、高校は地元群馬の国立高専に入ることになりました。ところが実際に入学してみると、勉強に全然ついていけなかったんです。私にとって初めての挫折でした。

そんな状況で夏休みを迎えると、どうしたらいいかわからなくなり、段々学校に行きたくなくなってしまったんですよね。ちょうど、バンドを初めたこともあり、逃げるようにその楽しさにのめり込んでいきました。そんな調子だったので、親からは音楽に対して、反対されていましたね。

それでも音楽がしたかった私は、高校を辞めて家出をすることに決めたんです。本当に当ても無く家を出て、他の人にも迷惑をかけないため、知人の家にも泊めてもらうことなく、15歳にして路上生活を始めました。

それから、まずは人に迷惑をかけないために自立しなくてはと思い、クラブシンガーの仕事を見つけてから、保証人無しで賃貸の契約ができる20歳まで、これでなんとか生きていこうと考えたんです。

ところが、あるすごく寒い日に、仕事で乗った新幹線で倒れてしまい、終点の新潟の病院に入院することになり、そこで親に場所がばれてしまったんです。もちろん、そのまま実家に戻ることになり、家出生活は終わりを迎えました。

生きていることが奇跡の大怪我


実家に戻ってからはフリーター生活が始まりました。応援していただいていた方への後ろめたさから音楽も辞めてしまい、何も考えず、バイトに通う日々でしたね。

そんなある時、バイトの帰りに原付に乗っていて、トラックと衝突する事故を起こしてしまったんです。

気づけば病院で、息が苦しく身体が動かず痛い、まるで寝苦しい時の夢のような感覚でした。お医者さんからは「生きていることが奇跡だ」と言われるような、脚を中心とした全治一年半の大怪我で、このままでは歩けないかもしれないという不安でいっぱいでした。

また、大怪我を負ったことでどこか性格も卑屈になってしまい、比較的軽めの怪我をした他の患者の方や、きれいにお化粧をして小走りに走る看護師さんのことも嫌いでした。リハビリもできず、ただ手術を待つだけの辛い日々でしたね。

それでも、治る見込みが見えてきてからは、少しずつ考え方も変わっていきました。それまでとは打って変わって、他の患者の方や看護師さんとも仲良くなり、入院生活が楽しくなったんです。

同時に、もし普通の生活に戻ることが奇跡的であるのなら、なにかその意味があるようなことをしたい、と考えるようになっていったんです。「あの経験があったから・・・をしている」という意味が欲しかったんですよね。

そんな風に考えてたどり着いたのは、看護師になることでした。

自分自身全く向いているとは思いませんでしたが、同じような人たちの気持ちは分かるし、人のために生きてみたいという感覚があったんです。退院後、大検をとり看護の専門学校に通うことに決めました。

23歳から始めた弾き語り


看護学校に入ってからは、勉強に追いつくのが大変でした。事故の後遺症で2回入院し、留年も2回することになりました。

また、友人と話をしていてたまたま言われた「またいつかピアノ聴かせてね」という言葉を受けて、後ろめたくて向き合っていなかった音楽を、もう一度始めようと思ったんです。

それから、自分1人でやるには何が良いか考え、ピアノで弾き語りをしてみることにしたんです。15歳から弾いていなかったピアノを、23歳にしてもう一度始めました。

初めての弾き語りは、全く新しいことを始めたような感覚で、どんな風に演奏すればいいのか参考にするため、色々なお店を回ることにしたんです。

そんな中、現役のプロの方がやっているお店に入ってみたことがあり、女性一人で行くような人もいないため、すごく驚かれ、「なんかやってみて?」と言われたんです。

正直いきなり演奏することになるとは思っていなかったのですが、試されているのかな、と思い弾いてみると、オーナーに気に入ってもらえたんです。帰り際には、今度は●●してきてよ、と宿題を出してもらい、勝手に師匠だと思うようになっていきました。

その後、学生生活を終え、実際に看護師になると、仕事はすごく楽しかったですね。0歳から100歳までいる病棟だったのですが、患者さんとのやり取りの中で、受け入れてもらえたと感じられた時は本当に嬉しかったです。

職場の雰囲気も良く、週末は音楽や昔から好きだった麻雀をして過ごし、充実した日々でした。麻雀に関しては、知り合いに誘われて受けたプロテストにも合格し、麻雀プロにもなりました。

そころが、そんな生活をしていたある時、急に音が聞こえなくなりました。病院の帰りの車で耳がおかしいと思い、診察を受けると、突発性難聴だったんです。それからすぐ入院となり、結局2週間入院することになりました。病院では、「これ以上良くなることはない」と言われたので、「もう歌は無理かもな」と、不安な気持ちでいっぱいでした。

「この店をやってみないか?」


その後、最初は両耳とも聞こえづらかったのですが、ある時から段々左耳だけ回復してきたんです。補聴器を使い始めてからは、音楽もできるくらいになったんですよね。それでも、入院で休んでいたこともあり、看護師の仕事は辞めることになってしまい、親から、無理をせず実家に帰ってこいと言われるのは、悲しくて仕方なかったですね。

そんな時に、「師匠」が新しいお店をタイで開くことになったという話を聞いたんです。そして、私が通っていた高崎のお店について、「この店をやってみないか?」と言われたんですよね。

正直、無理だと思いました。師匠が偉大すぎるし、耳も治っていない。自分にできるイメージが無かったんです。

それでも、「同じようにやらなくても良いから、なんか好きなことやりな!」と言ってもらえたんですよね。しばらく考えてみると、そのお店が無くなってしまうのも、師匠とのつながりが無くなってしまうのも嫌だったので、「やります!」と答えました。

それからは独学だったピアノをもう一度学び直し、LIVE BARの2代目として、店に立つことになったんです。

音楽を通じて、人の縁をつないでいく


現在はLIVE BARの2代目として、自ら弾きがたりをしたり、お客さんの伴奏をしたりすることでお店を運営しています。麻雀ではプロになって2年が経ち、様々な公式戦やオンライン麻雀にも参加しています。

自分が競技麻雀に真剣に取り組むことで、周りの麻雀に対する暗いイメージを変えていきたいという気持ちがあるんですよね。音楽がそうだったように、麻雀もいずれイメージがきっと変わると思うんです。

また、最近は、お店を利用して、地元のミュージシャンのイベント等を積極的に開催しています。中でも、オペラ歌手の方のイベントがあり、その中で伴奏を務める機会にも恵まれているんですよね。小さい頃の夢が叶ったような気持ちで、子どもの頃の自分に見せてあげたいなと思うことがあります。

そんなイベント等を通して、このお店では、音楽を通じて人と人の縁をつなぐことをしていきたいという気持ちがあるんですよね。

色々な経験をしてきた人生ですが、人の縁(ゆかり)に本当に感謝しているんです。「ゆかり」という名前を付けてくれた親にもすごく感謝しています。

だからこそ、今度はこのお店を通じて、人の縁をつなぐことができればと思います。最終的には3代目の発掘もできたらと思いますね。

2014.08.01

西嶋 ゆかり

にしじま ゆかり|LIVE BAR運営、麻雀プロ
群馬県高崎市のLIVE BAR 『みんなのうた』を運営する傍ら、日本プロ麻雀連盟所属の麻雀プロとしても活躍している。

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