人の痛みを知り、見えた世界。
僕が障害者スポーツを通じて目指すこと。
障害者スポーツの陸上競技にて活躍し、マスターズ陸上にも出場する羽根さん。荒れた生活の日々に訪れた、「左腕の大怪我」の事故を経て、人生が劇的に変わったと話します。大きな人生の転換点の後に何を思い、これからどんなことをされるのか、お話を伺いました。
羽根裕之
はね ひろゆき|障害者スポーツ陸上選手
障害者スポーツの陸上競技・マスターズ陸上にて三段跳び・幅跳びの選手として活躍する。
陸上生活の、突然の始まり
小学校・中学校と、地元千葉県の公立に通い、野球部に所属していました。
中学3年になると、県で陸上の大会があり、陸上部が無い学校だったため、
野球部ながら大会にかり出されることになったんです。
そして、出場した800mという種目で、なんと千葉県で優勝してしまったんですよ。
まさか県で優勝するなんて思っても見なかったので、
「あらあら」という感じでした。(笑)
それまでは、高校でも野球を続けようと思っていたのですが、
大会の成績を見て、ある高校から推薦のオファーをもらったんですよね。
最初は陸上なんか頭に無かったのですが、
話を聞いてみて、
「じゃあやってみようかな」
と、スポーツ推薦で入学することを決めました。
実際に高校の陸上部に入ってみると、最初は練習のキツさに驚きました。
「こんなんでついていけるかな」という不安もあったものの、
結果がついてくると、楽しいなと思えるようになっていきましたね。
400mハードルで、県優勝を達成し、
リレーではインターハイにも出場を決め、自分に自信も持っていました。
荒れた生活と左腕の怪我
陸上経験も浅い中、結果が出たこともあり、高校3年生にもなると、完全に天狗になっていました。
世の中は自分のために回っているような感覚があり、
「俺くらいの選手なら、どんな大学でも行けるだろう」
と思っていたんです。
しかし、そううまくはことが進みませんでした。
行きたい大学から推薦のオファーが来なかったんですよね。
他の大学から話はもらっていたのですが、行く気になれずそれも断ってしまいました。
それでいて、自分で受験という選択もとらず、結局そのまま卒業することになってしまったんです。
大学にも行かず、就職もせずという身だったのですが、
なんとか実業団で陸上を続ける機会を見つけ、近隣の県の実業団で練習をしていました。
ところが、その実業団でも契約が思うように行かず、離れることになり、
そのまま、陸上自体を辞めることにしたんです。
「もういいや」
という気持ちでしたね。
色々ごたごたが続いたことで、面倒になってしまったんです。
それからは、千葉の実家に帰ったものの、仕事も無く、何も無い状況でした。
とにかくお金を稼がなければ、という思いから水商売と運送業を交互にやっていて、
お金だけを追いかける日々でしたね。
陸上から離れてからは、素行も荒れていました。
気に入らないことがあるとすぐ喧嘩をしていましたし、
協調性が無く、人に合わせて行動なんてできなかったですね。
そんな日々を過ごしていた37歳の時、運送会社の仕事中に、
事故で左腕を大けがしてしまったんです。
すぐに救急車で運ばれ、手術をしたものの、左腕が完全に不自由になってしまいました。
障害者スポーツとの出会い
事故の後は、自暴自棄になりました。
「自分がこの世の中で一番不幸だ」
と思い、とにかく荒れていました。
お医者さんに、腕を切断してしまってくれと頼んだことも何度もありましたし、
片腕ながら、気に入らない時は外で喧嘩をすることもありました。
ただ、ずっとそうもしていられないと思い、
まずは仕事を探そうと考えるようになったんです。
怪我をしてからは、普通の仕事は難しいため、どうしようかと考えたところ、
乙武洋匡さんを参考に、スポーツライターの仕事が出きるんじゃないかと思いました。
自分自身のスポーツの経験を活かして、何か仕事になるんじゃないかと思ったんですよね。
思い立ってから「スポーツライター 障害者」という内容で検索をしてみると、
意に反して、出てきたのは「障害者スポーツの陸上種目」のページにたどり着いたんです。
そして、なんとなくページを見ていくと、日本記録なども記載されていたのですが、
陸上をやっていた頃の感覚で見ると、たいしたこと無く感じたんですよね。
「これは自分でもいけるんじゃないか」
と思い、協会に連絡をとり、100m・200mの短距離部門に申し込むことに決めました。
ところが、実際に走ってみると、自分の思っているイメージとの乖離が大きく、
全く記録どころじゃ無かったんです。
こんなに走れないとは思っていなかったので、「うわー」と落胆しましたね。
それでも、少し先に北京のパラリンピックが控えていたため、
高校の恩師に相談し、どの種目なら可能性がありそうかを考えた結果、
三段跳びが一番可能性があるとわかり、種目を変えることに決めたんです。
劇的に変わった経験を、他の人のためにも
実際に種目を変えてみると、成果が全く違いました。
短距離では若い選手に太刀打ちできなかったのが、
三段跳びや幅跳びなどの跳躍系の種目だと、経験とタイミングを合わせる技術で、
自分の年齢でも戦えたんですよね。
その後の挑戦で、三段跳び・幅跳びで日本記録を樹立することができ、
海外遠征にも定期的に参加するようになりました。
久しぶりに陸上の楽しさを感じ、
「どこまでいっちゃうのかな」
とわくわくしましたね。
結局、北京では三段跳びが種目から無くなってしまったこともあり、
パラリンピック出場の夢は叶わなかったのですが、
マスターズ陸上では県の健常者の記録を20年ぶりに塗り替えることができました。
また、地元千葉に国体が来た時は、
障害者スポーツにお世話になったという気持ちからも、
恩返しをしたいという気持ちで、100mと幅跳びで金メダルを獲得し、
それから現在まで4連覇を続けています。
自分でも本当に驚くことに、それまでは人の役に立ちたいと思うことなど全くなかったんですが、
怪我をして、障害者スポーツに出会ってから、人間として劇的に変わったんですよね。
自分が障害者になることで、できることとできないことがはっきり分かるようになり、
「人の痛み」が分かるようになったんです。
人に合わせることもできるようになりましたし、本を読むようにもなりました。
まるで、別人みたいなんですよね。
現在は、平日にデータ入力の仕事する傍ら、
障害者の陸上競技に加え、健常者と一緒に参加するマスターズにて、選手の活動を行っています。
今後は、自分の経験を活かし、東南アジアで障害者にスポーツを教える活動を行いたいなと考えています。
自分自身、目標を持って劇的に変わったからこそ、新しい世界を他の人にも伝えたいという気持ちがあるんですよね。
人生において、意味の無いことなど1つもないと感じますし、
荒れていた時期があるからこそ、今があると思えるんです。
だからこそ、Quality Of Lifeの充実をテーマに、
障害者の立場が弱く、ひっそり暮らしている東南アジアにて、
目標を持つために、自分ができることをしたいと思っています。
問題の根深さを知ったら、自分に無力さを感じるかもしれませんが、
それでもやりたいと思っています。
骨を埋めてもいい、という覚悟でやってみようと思うんです。
2014.07.21
羽根裕之
はね ひろゆき|障害者スポーツ陸上選手
障害者スポーツの陸上競技・マスターズ陸上にて三段跳び・幅跳びの選手として活躍する。
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