最終的な目標は「善い人」です。
ネガティブだった僕が歩んだ「運がいい」人生。

ベンチャーキャピタルにて、投資先企業の支援に携わる大柴さん。関わる人を幸せにすることで、最終的には「善い人」を目指すと話す背景には、どのような考えがあるのでしょうか?

大柴 貴紀

おおしば たかのり|スタートアップ支援
East Ventures KKにてフェローとして投資先企業の支援に携わる。

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自分のお葬式のために、「善い人」でいなければ


小さい頃から、わりと優等生タイプの子どもでした。
中学校では成績が常にトップ5位以内で、全国でも強豪のソフトボール部にも所属していました。

高校受験の時期を迎えると、偏差値的には一番行きたい都立校に届いていたのですが、
妹が一個下で、連続してお金がかかることもあり、
「万が一不合格で私立に行くことになったら悪いな」という思いから志望校を下げて受験することに決めました。

かなり心配性だったんですよね。

そんな経緯で高校に入学したので、トップを狙えると思っていました。
ところが、入学して最初の実力テストで、まさかの下から10番くらいをとってしまったんです。
世の中甘くないな、と思いましたね。

また、中学3年の頃から母の体調が悪く、入学した4月1日に入院をすることになりました。
そして、高校1年の8月、母が亡くなってしまったんです。

夏休みに関わらずたくさんの人がお葬式に来ました。
特別社交的な人ではなかったのですが、多くの人が訪れたんですよね。

それを見ていて、漠然と「自分のお葬式にもたくさん人が来てほしいな」と感じました。
結婚式等、他のセレモニーは損得勘定で来る人も多いと思うのですが、
お葬式は、純粋に故人のことを想う人が多いように感じたんですよね。

将来、自分のお葬式でも、自分を想って来てくれる人がたくさんいてほしいなと感じました。
だから、そのために「善い人」でいなければ、と考えるようになったんです。

「なんて自分は不幸なんだ」


母の死以来、なんだか気が抜けてしまいました。

全て楽な方向に逃げるようになってしまったんです。
リベラルな校風も重なり、自由をはき違え、堕落していきました。
毎日遅刻したり、食生活が乱れて偏食が続いたことで太ったり、という日々でした。

卒業後のことも全く考えていませんでしたね。
昔から絵を描くことが好きだったこともあり、芸術学部を受験してみたり、
心理学に関心があり、心理学部を考えたりもしました。
結局、一年浪人して私大の文学部に入学することに決めたんです。

大学に入学してからは、すんなりと友達もでき、わいわい過ごすようになりました。
ところが、入学して少し経った7月、父親が経営していた会社が倒産してしまったんです。

輸出産業だったので、バブルがはじけた煽りを受けた形だったのですが、
話を聞いたときは「まじかよ!」という感覚でした。

それからは学費を自分で払うため、長期休暇を利用して、
毎日警備員のアルバイトをしていました。
よりによって2月に芝浦ふ頭の警備のバイトだったので、とにかく寒いんですよね。

お金は稼げたんですが、もともと入学した大学に納得感があった訳でもなかったので、
そのお金を全額大学に納入するのが馬鹿らしく感じるようになったんです。
それをキッカケに、「何のために大学に行くんだろう」という気持ちが大きくなり、
結局学費を払わず、大学2年の途中、21歳で除籍になりました。

なにかぷつんと切れてしまった気がします。

「なんて自分は不幸なんだ」

とひがんで、自らが置かれた状況を恨んでいました。

そのまま、うだうだとカラオケ屋さんの夜勤をして、フリーターとして過ごすようになりましたね。

運だけで生きているんだ


そんな生活を2年も続けると、周りも大学を卒業するようになり、
歳ばっかりとっていることに対し、「そろそろなんとかしないとな」という気持ちを抱くようになりました。

そんな焦りを感じていた頃、友達の1人がデータ入力のアルバイトを紹介してくれたんです。
繁忙期の期間限定の仕事ではあったものの、自分にとっては初めての「昼職」で、
なんだか大きな一歩に感じました。ちょうど24歳の誕生日のことでした。

その後カラオケ屋の後輩からwebデザインの仕事を紹介してもらいました。
もともと個人の趣味でHPを作り日記などを書いていたこともあり、
すごく簡単なhtmlのコーディングやPhotoshop等を使うことができたんですよね。
仕事になるのかという不安はありましたが、働いてみることに決めました。

しかし、2年ほど働いた頃、事業の状況が思わしくなかったこともあり退職し、
たまたま声をかけてもらい、データ入力のアルバイトに復帰することに決めました。
気付けばもう27歳になっていたこともあり、「正社員にならなくては」という焦りは大きかったです。
「東京でなくても良いから、正社員にしてくれ」と直談判するもかわされてしまい、
どうしたものかと悩みましたね。

そんな折、再びカラオケ時代の後輩から、デザイナーが足りないから来いと誘ってもらったんです。
正直、インターネットは趣味という感覚で、働くのは嫌だなという気持ちもあったのですが、
あと2ヶ月で28歳だということもあり、最終的には入社する覚悟を決めました。

正直、自分はずっと運が悪いと思っていたのですが、
苦しい時にいつも友人から声をかけてもらいなんとかなってきたこともあり、
逆に、運だけで生きているんだと思うようになったんですよね。

そう考えることで、すごくネガティブだった考え方が少しだけ変わっていったんです。

スタートアップでの10年間


紹介された会社は、練馬の小さなオフィスで4人が和気あいあいと働いており、
まさにスタートアップという感じでした。

一緒に働き始めた後も事業は順調に推移していたこともあり、
会社としても速度を上げようということで、資金調達を行い、上場を目指すことになったんです。

自分自信、最初こそデザイナーとして入ったものの、
必要だけど人が足りていない仕事はなんでもやっていたので、
かなり役職をかえながら働き、取締役という立場にも就きました。
何が本職かわからないような状況で、全部55点という感じでしたね。(笑)

その後、一度はリーマンショックや市場の変化で業績が苦しい時期もありましたが、
ビジネスモデルの変更を行い、数値的には持ち直しました。
その間、役員変更や世代交代などの組織編成も同時に行い、
僕も途中で取締役から退いて、1人のメンバーとして会社の変化を見てきました。

そんなタイミングでちょうど丸10年働いたこともあり、
40歳になる前に、もう一度、何か挑戦をしてみたいという気持ちが出てきたんですよね。

スペシャリスト志向がなかったこともあり、
自分のできることをもっと広げていきたいという感覚があったんです。
幸い、退職時にいくつか声をかけていただいたのですが、
一番何をやるか分からず、ワクワクを感じたベンチャーキャピタルで働くことを決めました。

代表を務める松山太河さんと働けることも大きなチャンスに感じられました。
業界でもすごく有名なのにあまり姿を見せないため、昨年夏にお会いする前は、

「実在するのかな?」

と疑っていましたが。(笑)

「穏健派」として周りを幸せに


現在はベンチャーキャピタルで、投資先の価値を上げるための手伝いを主に行っています。
久しぶりに創業期のスタートアップに携わることで懐かしさも感じますし、
若者の優秀さには驚かされます。

自分自身はこれまでと変わらず、役割を決めきらず協力できることをしているような感覚です。
監査役として入ったり、現場でデザイン案を作ったり、という働き方ですね。

将来について考える時、世界を平和にしたいという気持ちはやまやまなのですが、
自分は未熟だから少し無理があるんですよね。

でも、少なくとも、関わった人には幸せになってほしいんです。
これまでは10年間一つの会社にいたこともあり、関わる人は限られていたので、
これからは直接関わる人を増やしていきたいという気持ちがあります。

また、個人的に起業家に対して、「攻め」のアドバイスは弱いと思うんです。
事業戦略とか、そういう分野を売りにしている人って他にもいるし、その人たちよりも能力は劣ると思うんですよね。
だから、自分は愚痴を聞いてあげたり、悩みの相談にのってあげたり、
「穏健派」として貢献したいなと思っています。

「足りない部分はどこだろう?」という連続のキャリアだったからこそ、貢献できることもあると思うんです。
戦うことがあんまり好きではないんでしょうね。
ブログも一度も炎上したことがありません。(笑)

そうやって、自分ができる形で周りを幸せにすることで、
「善い人」を目指していこうと思います。

2014.07.09

大柴 貴紀

おおしば たかのり|スタートアップ支援
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