異国の地・日本でブランドチーフデザイナーに。
「異文化」のルーツを活かした服作り。

【KOH.style提供】ファッションブランド「KOH.style」のチーフデザイナーとして、服で「おもしろい」を表現する高さん。中国出身の高さんがブランド立ち上げに至るまでには、言語や文化の違いによる試練がありました。高さんがKOH.styleに込めた思い、目指す先とは。お話を伺いました。

高 惠子

こう けいこ|KOH.styleチーフデザイナー
中国遼寧省生まれ。小学生時代、日本への留学経験のある叔母から日本の良さを聞き、日本留学を決意する。父が洋装店を経営していたことから服に関心を持ち、ファッション・デザインを学ぶため文化服装学院に留学。卒業後、企業向けにアパレルの企画、デザインを手掛ける株式会社ザ・マークに就職。2020年、社長の後押しを受けてオリジナルブランド「KOH.style」を立ち上げ、「人と違う自分らしさを見つける」服のデザインを手掛ける。

「日本へ留学する」が目標だった


中国北部にある遼寧省で、朝鮮民族の家族の一人っ子として生まれました。朝鮮民族は、戦争を機に韓国からロシアを経て中国に渡った人たちを先祖とする民族で、韓国文化と中国文化がミックスされた家庭でしたね。

一人っ子だったので、両親にお嬢様のように大事に育てられました。父はアパレルショップを経営しており、学校帰りに店に立ち寄り、店内の様子を見ているのが好きでしたね。絵を描くのも好きで、いろいろな種類の絵を習わせてもらっていました。

小学生時代のある日、日本に留学していた叔母から、日本の良さについて熱く語られました。「将来、ケイコも日本に行ってほしい。国を出て外を見てほしい」。詳しい内容まですべて理解できたわけではありませんでしたが、とにかくいい国なんだなと思い、私も日本に留学したいと思うようになりましたね。

また、「ケイコ」という響きの名が日本にもあることも知りました。叔母の意向で名前の漢字も、日本でも使える「惠子」という字に変えたんです。名前を変えるのは、中国ではそれほど珍しいことではありませんでした。

中学に入り、日本語を学び始めました。中国にいる56の民族のうち、私たち朝鮮民族とモンゴル民族は、文法や発音が似ている日本語を第二外国語として勉強するんです。

日本留学への想いがあり、大学でも日本語を専攻しました。ただ、勉強にはあまり熱心ではありませんでしたね。日本に留学すれば、また新しい人生が始まると思っていたんです。どうせ新しい人生計画を作ることになるのだからと、「日本に行く」以外、将来のこともあまり深く考えていませんでした。

ただ、留学するからには日本に行って何を勉強するのか、あらためて考えなければなりません。家族会議を開いて話し合う中で、両親から「惠子は絵が好きだよね」「お父さんの店で店員さんやお客様が服を選ぶ様子を熱心に見ていたよね」と言われました。それで子ども時代から好きだったことをあらためて思い出し、「日本に行ったらファッションの勉強をしよう」と思ったんです。

初アルバイトで文化の違いに直面


念願の日本への留学。飛行機に乗ったのも人生初めてのことでした。日本に着き、飛行機から降りた瞬間、「この国、人いるの?」と驚きましたね。ものすごく静かなんです。お客さんも、空港で働いている人たちも、マナーがすごくいいんだなと思いました。それに、建物の中も居心地が良いように整えられていて。中国は石の床がほとんどでしたが、日本は空港ですらホテルのようなカーペット敷き。「靴の裏は汚いのに、大丈夫なのかな?」と心配になるほどでした。

外国人留学生は、日本に来たらまず1年間、日本語学校に通わなければなりません。私は大学で日本語を専攻していたため、半年間で済みました。その後、ファッションを学ぶため服飾専門学校のスタイリスト科に入りました。

はじめは、叔母の家に滞在させてもらいながら、両親に生活費を出してもらって暮らすつもりでした。しかし、実際に生活が始まると、叔母から「アルバイトをして、生活費を支払いなさい」と言われてショックを受けました。中国では親族に頼ることは当たり前なのに、なんで生活費を稼いで払わないといけないのかわからなかったんです。学費と同じようにパパに出してもらっちゃダメなの?とも思いましたね。

叔母は、「日本の学生はアルバイトをして必要なお金を稼いでいるのだから、あなたも日本で暮らすならそれに合わせないとダメ。これまでのようなお嬢様感覚では、日本では生きていけない」と言いました。親が払ってくれている学費がどれくらいの金額なのかも教えてくれたんです。

実はこの専門学校は、北京と上海にある、大きなファッション学校の学生ばかり。そのほとんどが、かなりのお金持ちの家の出身です。そんな学校なので、学費はかなり高額でした。私が留学できたのは、日本人の夫と日本で暮らしている叔母が、何のパイプもない私が留学できるよう学校に話しに行ってくれたからだったのです。

これまで自分のことをお嬢様だと思ってきましたが、それは狭い世界での話だったのだと気がつきました。さすがに両親に学費以上のお金を出してほしいとは言えず、叔母の紹介を受けてコンビニのアルバイトを始めたんです。

バイトでは、中学時代から勉強してきたはずの日本語が一切出てこなくなってしまって、かなり苦労しました。さらに、「ありがとうございました」「すみません」と言って頭を下げなければならないマナーが、本当につらかったです。中国でも「謝謝」とは言いますが、日本人のように頭を下げる文化はありません。日本では基本のマナーだと知り、「このレベルのことができないなら、日本で生きていけないのではないか」と悩みました。でも、生活費を稼ぐためにはやらなければならないと自分に言い聞かせ、徐々に慣れていったんです。

留学生活に慣れてくるにつれ、電車に乗って出かけたりデパートに買いものに行ったりするようになりました。どこに行っても、日本人のマナーに驚かされてばかりでしたね。中国では電車の中でも携帯電話で話す人が多いのに、日本は本当に静かです。デパートに行けば、こちらが恐縮してしまうほど、店員さんが丁寧に見送ってくれます。食事のマナーの良さにも驚きました。特に女性は食べ方が本当にきれいで、良い教育を受けているんだなと思いましたね。叔母が話していた日本の良さが、あらためてよくわかりました。

買いたいものが増えれば、必要なお金も増えます。さらに、学校で学ぶために必要な材料の費用も、自分でまかなわなければなりません。

そこで、コンビニバイトに慣れてきたところで、高級焼肉店と別の飲食店のバイトを掛け持ちしました。朝7時から午後までコンビニ、午後から夕方まで焼肉店、夕方から閉店まで飲食店で働くというバイト漬けの週末を送っていました。

高級焼肉店では、本当はホールで働きたかったのに、任せられたのはキッチン。ホールは日本人、キッチンは中国人という分け方に差別を感じましたね。コンビニバイトとは全然違う、体力を使う仕事内容にも驚きました。高校生の後輩にいじめられ、「お嬢様だった私が、何で皿洗いなんてしているんだろう」と悲しくなり、毎日泣いていましたね。

それでも、いつの間にか、親から与えてもらうのを待つだけのお嬢様感覚から、欲しいものは働いて買おうと思えるようになっていて。そんな自分のことを、人として一人前になったと思えるようになりました。

社長の言葉が山を越える力に


3年間しっかりファッションについて学んだあと、日本で就職活動しました。留学生活で日本が大好きになり、帰国せず日本に永住したいと思うようになったんです。

留学生が日本でファッションの仕事をしようと思ったら、大体スタートは販売職です。でも、販売職だとビザが下りないことがあり、結局母国に帰らなければならなくなった留学生仲間も多くいました。

そこで、日本で暮らし続けるために、なるべく企画やデザインなど、販売以外のファッション関係の仕事を探しました。努力の甲斐あって、企業からオーダーを受けて服の企画・デザイン、製造をしている会社から内定を得られたんです。その会社で初めての、中国人新卒社員でした。

働き始めたら、また日本語に苦しめられました。学校で学んだはずの生地名が出てこなくなってしまったり、新人だから率先して電話に出なければいけなかったり。特に電話は本当に嫌で、毎日「今日は電話がかかってきませんように」と祈っていました。

厳しくも優しい上司の元で、バイトとは違う仕事の厳しさも学びました。社会人になって初めて、商品やお客様に対して責任を負うということを知ったんです。

上司は仕事に厳しく、毎日終電ギリギリまで仕事をしていました。上司と一緒に、私も毎日夜遅くまで働いていましたね。褒めてくれるときはとても優しいのですが、叱るときは本当に怖くて、毎日家に帰っては「辞めたい」と泣いていました。

でも、私に発行されているビザは1年間です。仕事を辞めても、ビザの残り期間に次の仕事が見つかる保証はありません。仕事が見つからなければ、一旦中国に帰らなければならない。「そんなの嫌だ、私は日本に残りたい」という一心で、毎日「やるしかない」と踏ん張りました。

入社して2~3年は下積み期間が続くと思っていたのですが、2年目を迎えたとき、社長から「そろそろ高を企画や営業にデビューさせよう」と言われました。日本語もうまく喋れないのに、不安しかありません。でも、日本で働き続けたい私には逃げる道はないと思い、社長と一緒に営業に行くことに。

しかし、全く受注に繋げられませんでした。いい提案ができない、お客様に喜んでもらえる仕事ができない。「クビにされて、私の日本での人生も終わってしまうのかな」と不安でたまりませんでした。

そんな状態が3年も続き、もがき苦しんでいました。するとある日、社長から「今はつらいと思うけど、今の山を乗り越えれば、新しい景色が見えますよ」と声を掛けられたんです。その言葉に、社長は私のことを諦めていないんだと感動し、みるみる力が湧いてきました。


社長の言葉で私の中のスイッチが切り替わったのか、急に良い企画が出せるようになり、オーダーもいただけるようになったんです。初の中国人新卒社員として採用してくれ、何年間も芽が出ない私を諦めずに育ててくれた社長は、私の恩人。「日本のお父さん」のような存在で、社長のためにがんばりたいと思いました。

「KOH.style」、誕生


入社7年目、社長から「もう一歩違うステージに行った方がいいんじゃない?」と、ブランドを作ることを提案されました。社長への感謝もありましたし、おしゃれなブランドづくりに挑戦したいと感じ、真正面から意見を言い合える後輩のスタイリストたちと3人で、『KOH.style』というブランドを立ち上げることにしました。

最初は、中国や韓国からおしゃれな服を仕入れ、自社ブランドのECショップで販売するところからはじめました。後輩に勧められて始めたInstagramの投稿を見て、そんなやり方をしているブランドが多くあることを知ったんです。語学もできて現地を知っている自分なら、すぐにできると思いました。

ところが、1年目は全然売上が上がりませんでした。かわいい中国人留学生に声を掛けてモデルをお願いしていましたが、ポージングに慣れたプロではありません。撮影場所も事務所の一角で、工夫しようにも限界がありました。個人のお客様が喜んでくれる、買いたいと思える服を探して仕入れることも難しかったです。

何のノウハウも経験もないところからサイトデザインやお客様対応をしてきましたが、どこか中途半端さもありました。どう頑張ってみても、「ダサさ」から抜け出せなかった。自分たちが「ここで買いたい」と思えるサイトにできなかったんです。既製品を仕入れてブランドの世界観を構築するのは難しい。私たちのレベルではもう限界だなと思いました。

でも、ブランドづくり自体は諦めたくない。自信を持って出せるブランドを作りたいと、改めて考えました。その中で、これまでクライアント企業さまに満足いただけるデザインを考えてこられたのだから、自分のブランドもイチからデザインできるのでは?と思ったんです。社長に相談し、仕入れを辞めてオリジナル商品を作る許可をもらいました。1カ月くらい、3人揃って毎日終電まで働き詰めでした。移動中の電車内で仕事をすることもありましたね。

目指したのは、私が自信を持って「おしゃれ」だと言えて、自分でも着たくなる服。なるべくファッション市場で被らないこと、私が好きだと思えるデザインでありながら、最新のトレンドも意識することを大切にデザインしました。

さらに、日本ではおしゃれなブランドの服の多くが細身の人向けであることに課題感を持ち、体型を選ばず着こなせる形にもこだわりました。だからといって、ふくよかな人向けブランドにしてしまうとお客様の気持ちは上がらないでしょうし、体型でお客様を限定するブランドを作りたいわけでもありません。どんな方でもファッションを楽しんでもらえるブランドにしたいと思ったんです。

服を何着も買うのが難しかったり、おしゃれでいたいけれど組み合わせが難しいといった方にも喜んでもらえるよう、1枚でおしゃれに着られるデザインや、着回しのバリエーションを追求しました。おもしろい表現をしたくて、布と革など異素材のドッキングや、2着きているように見えるのに、実は1着で完結している服など、様々なアイデアを取り入れました。

私が担当するのはデザインで、ネットショップの運営などは一緒にブランドを始めた2人が頑張ってくれました。右も左もわからない状態から勉強して、ゼロから作り上げてくれた2人は、本当にすごいバイタリティの持ち主です。そんな2人のおかげで、私たちが欲しいと思える服を作ることができました。

ただ、いいものを作るだけでは売れず、お客様に知ってもらわなければなりません。オリジナル商品でいこうと決めてから3カ月が経った頃、悩んでいると、PR会社の方からインターネットショッピングモールにも出店するようアドバイスを受けました。そこで、出店を決断。それから毎月まとまった売上が上がり始め、少しずつ成長が見られるようになりました。KOH.styleをもっと知ってもらえるよう、YouTuberやアンバサダーを探す活動にも力を入れています。

世界で愛されるブランドを目指して


現在は、KOH.styleを成長させるため、服の企画・デザインを続けています。日本で暮らし始めて12年目の2020年に帰化し、今年の春には子どもも生まれる予定です。

10年以上日本に住んでいても、日本と中国の文化の違いに驚くことがあります。接客の素晴らしさには今でも感動しますし、いつでも髪や化粧を整えて仕事に来るスタイリスト2人にも驚いています。日本人女性はいつも身なりをきちんと整えている人が多いですね。世界を見ると、それは当たり前のことではないんですよ。

日本人が作ったブランドと韓国・中国人が作ったブランドでは、ブランドに込める思いにも、服のデザインにも違いがあり、それぞれ特徴が表れます。そんな中で私は、まだ短いながらも日本文化を知っていて、韓国文化と中国文化のバックボーンを持っている。だからこそ思いつく発想があり、形にできるデザインがあると思っています。社長が私を採用し、ずっと見守ってきてくれたのも、異文化をミックスできる可能性に期待してくれたからじゃないかと思っているんです。

これからは、KOH.styleの服をデザインすることで、文化のミックスを表したいですね。それぞれの国の良さを融合させ、日本人だけではなく、中国人や韓国人にも好きになってもらえるブランドにしたいです。ゆくゆくはアジア圏からも飛び出して、グローバルで愛されるブランドを目指していきたいです。

2021.02.19

インタビュー・ライティング | 卯岡 若菜

高 惠子

こう けいこ|KOH.styleチーフデザイナー
中国遼寧省生まれ。小学生時代、日本への留学経験のある叔母から日本の良さを聞き、日本留学を決意する。父が洋装店を経営していたことから服に関心を持ち、ファッション・デザインを学ぶため文化服装学院に留学。卒業後、企業向けにアパレルの企画、デザインを手掛ける株式会社ザ・マークに就職。2020年、社長の後押しを受けてオリジナルブランド「KOH.style」を立ち上げ、「人と違う自分らしさを見つける」服のデザインを手掛ける。

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