「変わっている」は輝く個性になる。

コンサルタントとして多様性ある社会を目指す。

幼少期に周囲から「変わっている」と言われ悩んだ経験をもつ藤田さん。同じように苦しんでいる人に、「変わっていると言われる部分は、魅力的な個性なんだと伝えたい」と話します。そう思うようになった理由とは?お話を伺いました。

藤田 有貴子

ふじた ゆきこ|ITスタートアップ企業のアナリスト・コンサルタント
1973年生まれ。石川県金沢市出身。大学卒業後、マーケティングリサーチ会社に入社。その後、大学院に進学してマーケティングを学び、シンクタンクに就職。数回の転職をしながらマーケティングを専門に仕事する傍ら、中小企業診断士を取得。2020年より個人での壁打ち・コンサルティング活動も開始する。

「変わっている」と言われて


石川県金沢市で生まれました。両親と妹との4人家族です。幼少期は、自由気ままな性格でしたね。私立の幼稚園入試のときには、周りの子が先生の目に入る場所で遊ぶ中、一人で滑り台近くのスペースの一角に潜り込んで遊んでいました。周りと興味を持つポイントがズレていたようです。そんな一風変わった行動が要因だったのか、入試も不合格になってしまいました。でも、そんな私を両親は、「大物になる」と言って個性を潰さないよう育ててくれましたね。

入学した小学校は、転勤族が多い学校でした。学期ごとに転入生や転校生がいて、クラスメイトの入れ替わりが激しかったです。教室ではいろいろな地方の方言が飛び交っていました。それぞれ生い立ちが異なるため、一人ひとり違った価値観を持っていることが当たり前の環境。多様性を許容する雰囲気で、居心地が良かったです。

3年生のとき、親が近くの地域に転勤したため転校。転校先の学校は、親子3代続くような、地元に根ざした家庭で育った子どもたちばかりでした。私はみんなと生まれ育った環境が違うため、友達から「変わっている子」とレッテルを貼られるようになりました。両親が標準語だったので標準語で話していると、「どうして方言じゃないの?」と言われて。変わっていると言われることも、みんなと同じでなければならない空気感も、苦痛で仕方ありませんでした。自分はそれぞれの違いを尊重し合える環境の方が、伸び伸び過ごせるんだと感じました。

中学校は地域から離れた学校へ通おうと受験を考えます。母が担任の先生に中学受験を打診してくれました。すると、一人だけ受験するのが気に入らなかったのか、その日以降先生から嫌がらせをされるようになりました。みんなの前で受験をすることを公表され、いかに自分がクラスから浮いているかを話されました。他の子と比べられ嫌味を言われたり、両親のことも悪く言われたり。悔しかったですね。絶対に合格してやる、とより一層受験勉強に励みました。

そうして無事に合格し、国立の中学校へ進学します。友達に恵まれ、みんなの輪の中に入って楽しい学校生活を送れました。別々の地域から進学してきた子ばかりだったので、それぞれに個性があり、「みんなと違う」「変わっている」と言われることも無くなりましたね。高校は、日本でもトップクラスの大学への進学を目指す高校へ。関東の大学への進学を決め、上京しました。

違和感に目を背けない


大学進学後、暮らしの拠点は神奈川県にある祖母の家となりました。祖母は、中小企業の経営者。社員やお客様への気遣いや配慮、困難を突破するためのパワフルな行動力、祖母の立ち振る舞いを間近で見ることで、たくさんのことを学びました。かっこいいと憧れ、尊敬していましたね。祖母が大好きでした。

就活の時期に差し掛かりましたが、業種や業界から就職先を選ぶ風潮に違和感を感じました。自分のキャラクターや内面とマッチしている会社に行きたい気持ちが強かったです。就職活動に乗り気になれず、能動的に動かなかったものの、とりあえずどこかへ就職しないといけない意識はありました。

そんな折、新聞にマーケティングリサーチ会社の求人が載っているのを見つけます。マーケティングを学ぶゼミに所属していたため、先輩の助言でゼミの先生に推薦状を書いてもらえることに。ご縁があって、その会社への就職が決まりました。

入社後は、先輩や上司のアシスタントを担当。報告書をまとめたり、リサーチ集計をしたりと忙しかったです。祖母の家から会社まで、約2時間半をかけ通勤していたため、帰宅は毎日深夜になっていました。

疲れやストレスがピークに達したのか、ある日の電話対応中に突然、耳が聞こえなくなったんです。突発性難聴でした。上司に相談すると、通勤時間が長いことから「一人暮らしをしたほうがいい」と勧められました。私の体調を気遣ってのことだと理解しつつも、祖母との暮らしは自分にとって大切な時間だったため、それは違うんじゃないかと感じました。とはいえ他の選択肢を見つけられず、1年半ほどで退職します。

新卒で入社した会社をすぐに辞めてしまったため、転職先はなかなか見つからないだろうと感じていました。それなら大学時代から学んできたマーケティングについて、より知識を深めようと大学院への進学を選びました。祖母との時間も大切にしたい、でも興味のあるマーケティングにも携わりたい。そんな自分の気持ちに正直に選択することが大切だと思ったんです。

母の死と自分の変化を受け入れて


大学院を卒業後は、学んだことを生かして働こうと知人の紹介でシンクタンクに就職しました。国土交通省の観光分野の交流サイトの立ち上げや運営を担当。NPO法人の設立や行政のIT活用の事例調査などにも携わりました。仕事は忙しくハードでしたが、一緒に働く人の意識が高く、仕事内容にも楽しさを感じていたので、やりがいがありましたね。「今の自分、キラキラしてるな」という感覚もあり、バリバリ働いていました。

しかしそんな折、母の病気が発覚します。移植が必要といわれ、大きなショックを受けました。半年くらい看病が必要でしたが、上司からは、私のペースが狂わないよう、普段通りリモートで働いたほうがいいと助言を受けます。母の手術は成功したのですが、結果として退職をすることになりました。とてもいい職場でしたが、自分の視野が狭まり、周囲に相談できないなど至らない面があっての決断でした。

5年後、回復していた母が倒れ、1カ月ほど意識が戻らないまま亡くなります。ショックで朝ベッドから起き上がれないほどの悲しみが襲いかかりました。ちょうど転職したばかりで、未経験の仕事がなかなか習得できず、処理スピードが遅く、ミスも多く、上司に怒られて、周囲ともなじめませんでした。上司や先輩からは相談しろと言われましたが、何がわからないのかが切り出せなくてできません。自分の中では精一杯やっているのにどうして成果が出ないんだろう。そんなもどかしさに追い詰められていきました。

何よりそのことに一番驚いたのは、自分自身でした。これまでイキイキ働いていたのに、まさか働く中でパフォーマンスが落ちてしまうなんて。想像もしていませんでした。母の死や自分の変化から、人はいつどうなるかわからないと痛感しましたね。だからこそ、元気に過ごせている一瞬一瞬を全力で生きる必要があるんだと、大切なことを学びました。

多様な価値観や選択があっていいんだ


その職場は2年ほど勤めた後、ネット系人材会社に転職しました。ここでの担当業務は、マーケティングや事業計画の作成、社内の課題へのコンサルティングなどでした。

社内の様々な部署の人と関わる機会があり、改めて、いろいろな価値観を持った人がいるんだと感じましたね。特に印象的だったのが、働く社員のモチベーションや熱量が、人によってバラバラだということです。互いを刺激し合い、意識高く働くことが当たり前な社風もあれば、モチベーションが低いメンバーもいる職場もあります。メンバーをどう巻き込むか?という視点を常に持って働くようになりました。次第に、働く人の可能性を引き出しパフォーマンスを最大限に発揮できるようにする仕事もあるのかもしれない、と感じ、興味が芽生えていきました。

その後、家庭の事情で名古屋に転居し、ゲーム制作やシステム開発を行う会社に転職。その傍ら、中小企業診断士の資格を取得しました。企業と、そこで働く人たちの支援がしたいという想いと、自分の仕事を、形にしていこうと思ったんです。

資格取得がきっかけで、手がける仕事の幅も広がりました。資格を活かした新規事業の立ち上げに必要な補助金の申請や、事業の運営なども任せられるように。大学で非常勤講師をする機会もいただきました。職員会議へ参加したり、学生と触れ合ったり、本業とは異なる環境での仕事は刺激的でしたね。会社員生活だけでは、触れられない世界だったので、気づきや発見を得ることが楽しかったです。

環境を変えつつ、いろいろな業界の方と仕事をすることで、自分の考えも柔軟になっていきました。こうじゃなきゃダメ、と決めつけずに、いろいろな価値観や選択があっていいと考えられるようになっていったんです。こんな考え方があるんだ。こんな選択があるんだ。そんな気づきを得るたび、学生時代に人から「変わっている」と言われた部分も、自分のひとつの個性なのではないか?と思うようになっていきました。

「変わっている」というレッテルも、場所や出会う人が変われば「個性」や「魅力」になる、と捉えられるようになったんです。自分の人生の可能性や選択肢を広げる考え方が得られ、価値観が人それぞれ違うのは素晴らしいことなんだ、という想いが強くなっていきました。

可能性は広がっている


その後、東京に戻り人材コンサルティング会社に転職します。中小企業診断士の資格を活かし企業の課題のヒアリング・コンサルティングに従事しました。これまでの経験から得た気づきを活かし、クライアントへは一つの正解を提示せず、選択肢を広げる提案もできるようになりました。企業や働く人が抱える根本的な課題を解決に導くコンサルティングができることに、やりがいを感じましたね。

また個人としても、法人・個人問わず働く人をサポートするコンサルティングをしていきたいと考えるようになりました。正直、個人でやろうと思ったときは「やりたいことを仕事にするには起業すべきでは?」という考えが頭をよぎりました。

そんなとき、転職先の上司の働き方を知って衝撃を受けたんです。上司は、会社員をしながら経営者としての顔も持つ人でした。「そんな働き方ができるんだ...」と、目から鱗でしたね。

そのとき、自分が勝手に思い込んでいるだけで、本当はできることがたくさんあるんじゃないか?と改めて感じたんです。私自身も、会社員をしながら個人の活動に足を踏み出すことを決意しました。

「変わっている」個性は宝


現在は、ITスタートアップ企業で企画調査業務、アナリストを担当しています。今後、会社として企業コンサルティング領域に力を入れていくため、そちらも担いつつ個人としてのコンサルティング活動も行っていく予定です。

さまざまな価値観を持つ人たちと働く中で、選択肢はたくさんあると学んできました。会社員と個人の活動を両立しながら、自分の可能性を広げて、目指すコンサルティングを実現できるんじゃないかと思えています。

今後は、「変わっている」と言われ悩んだことや、考え方をプラスに転換できた経験を活かして、昔の自分と同じように苦しんでいる人へ「変わっていると言われる部分はあなたの魅力になるんだよ」というメッセージを伝えていきたいですね。「この人、変わっているな」と感じたとしても、「癖が強い人」「関わりづらい人」と決めつける必要はないですし、決めつけられる必要もない。個性はその人の「宝」です。

一人ひとり違っていて良い。それぞれの個性が輝く多様性ある社会を創りたいと思っています。そんな世界を目指して、個人・法人問わず、その人らしさを引き出し可能性を広げ、導けるコンサルタントであり続けたいです。

2020.08.20

インタビュー・ライディング | 貝津 美里

藤田 有貴子

ふじた ゆきこ|ITスタートアップ企業のアナリスト・コンサルタント
1973年生まれ。石川県金沢市出身。大学卒業後、マーケティングリサーチ会社に入社。その後、大学院に進学してマーケティングを学び、シンクタンクに就職。数回の転職をしながらマーケティングを専門に仕事する傍ら、中小企業診断士を取得。2020年より個人での壁打ち・コンサルティング活動も開始する。

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