希望を選び、自分自身の光となる。
治療法のない原田病に打ち勝つために。
人生最高潮だった30歳の夏、突然、原田病を患った伊藤さん。思うように目が見えなくなり、文字どおり目の前が真っ暗になったといいます。確立した治療法のない病気と戦う中で見出した使命とは。お話をうかがいました。
伊藤 悠佑
いとう ゆうすけ|IT会社営業・任意団体 beat VKH代表
愛知県春日井市生まれ。上智大学卒業後、外資系広告代理店の勤務を経て、オーストラリアのグループ会社へ転職。次のチャレンジに向けて帰国した30歳の夏、突然、自己免疫疾患であるフォークトー小柳ー原田病 (VKH)を発症。現在、自身が立ち上げたbeat VKHの活動を通し、原田病の認知拡大・治療法の確立を目指している。
生きる世界が広がった、海外での高校生活
愛知県春日井市に生まれました。7歳上の兄がいて、自由気ままな末っ子でした。2歳から日本語と英語で劇をする教室に通っていました。大きな舞台に立つと、スポットライトがとても気持ちよくて。ステージに立つことが大好きになり、小学校ではみんなの前で漫才を披露していました。自分のパフォーマンスで、人が笑顔になることがうれしかったです。
想像力の豊かな子どもで、ビデオゲームの続きのストーリーをよく空想していました。地球儀をながめ、海の向こうの国を妄想することも好きでした。RPGでいえば、日本にいる自分はまだステージ1。これからいろいろな世界を見に行って、たくさん冒険しようとワクワクしていましたね。
中学のとき、短期留学でオーストラリアとアメリカに行きました。現地の学校にはリセスという長めの休みがあり、そこでは生徒たちがギターを弾いたり、スポーツをしたり、りんごをかじりながら芝生に寝転んだり、思いおもいの時間を過ごしていたんです。自由で開放的な空気に「これだ!」としっくりきました。海外の学校の方が肌に合っていると確信し、奨学金で行けるカナダの高校に転入しました。
15歳にして親元を離れて飛びこんだ留学生活。見るもの全てが新鮮で、好きだったゲームも一切やらなくなるほど、毎日が冒険に満ちていました。現地の子は自立心が高く、自分の運転する車で好きなところへ行き、アルバイトで稼いだお金で遊んでいました。週末になるとアメリカ映画に出てくるような派手なパーティーをしていたのも刺激的でしたね。
バンド活動に精を出し、音楽を通じていろいろな人と出会いました。ちょっと不良でパーティー好きな子たちとヒップホップを楽しんだり、敬虔なクリスチャンの子たちと教会で演奏したり、ジャズ好きの大人っぽい子たちとセッションしたり...。新しいタイプの人とつながることで、自分の生きる世界が広がっていきました。
住んでいた町は治安がいいとは言えず、麻薬中毒の人、人種差別的な言葉のタトゥーを上半身いっぱいに刻む人を見かけることもありました。貧困や差別など、自分がこれまで直面することのなかった社会問題を身近に感じましたね。常識もバックグラウンドも全く異なる人たちとの共存。おのずと、自分はどうありたいのかを考え、行動をする力が身につきました。
卒業後は、帰国して東京の大学に進学。子どもの頃からやっていた演劇を、日本語で本格的にやりたいと思ったのです。芸能事務所に入り、オーディションを受けていました。しかし、大学のダンスサークルを通してブレイクダンスに出会うと、そっちにのめり込んでいきました。朝から晩まで練習に明け暮れていましたね。単純に踊るよりも、ストーリー創りが好きで、ダンスのショーを作るときも脚本から書いていました。ダンス熱は加速し、サークルの先輩が結成したエンタメパフォーマンス集団に入って、テレビなどのメディアにも出ました。
「人生の素人」だと気づいたオーストラリア生活
就活では、広告の仕事に興味を持ちました。表現を通して受け手にメッセージを伝えるという点で、ダンスと似ていると思ったんです。いつか海外で働きたいと思っていたので、外資系の広告代理店に就職。華やかな世界の裏、キツイ仕事もたくさんありましたが、その分成長が実感でき、これからの冒険に使える経験を溜めていくようでうれしかったですね。
プロフェッショナルとして海外で勝負してみたい。そう言い続け迎えた社会人5年目、「メルボルンのグループ会社でマネージャー職が空いたぞ」と上司に声をかけられました。すぐに面接を受け、猛アピール。晴れて転職が決まり、渡豪することになったのです。
希望と不安を抱えて出社した初日。参加したクライアントとの会議では、冷や汗が止まりませんでした。聞き慣れないオーストラリア英語のスラング、入る隙を与えないマシンガントークで議論を進める同僚たち、独特の空気感…。会議を仕切る代理店のマネージャーという立場なのに、全く議論についていけないまま会議がおわってしまったのです。
これではまずいと感じ、戦略を立てました。それ以降の会議はすべて録音し、何度も聞いて流れや間の取り方、ジョークまで研究。次の会議はどんな展開になるか細かくシミュレーションし、様々な状況に対応できるよう準備をしました。自分が発言しやすい空気をつくるため、会議の初めには「今週の俺の残念話」を披露して笑いをとるようにしたり、「オーストラリア文化を知らない外国人キャラ」となり、いじりやすいような流れを作ったりもしました(笑)
誰ひとり自分を知らない地でゼロからのスタート。心が折れそうになるときもありましたが、「不可能なことも、挑戦して慣れることで可能にしていこう」と自分に言い聞かせていました。今は背伸びしている状態だったとしても、中身が伴ってくるまで、まずはこのマネージャーという役職を演じ続けることが大切だと信じていたんです。半年ほど努力を重ねると、徐々にチームやクライアントから信頼を得て、自分の居場所ができました。
ある金曜日の夕方、クライアントに電話をかけると「もう4時だし、今日は遅いから来週でいいよ。そんなことより週末楽しんでね」と言われ、はっとしました。オーストラリア人にとって、仕事はあくまでも人生の一部。毎晩、家族と夕食を食べ、休暇を取るときは何週間も休んでリフレッシュする、そんな豊かなライフスタイルを送っていたのです。生活は仕事が中心で、隙間時間にコンビニご飯をかきこんでいた私は、仕事以外の部分がヘタクソな「人生の素人」だったなと思いました。
それからは、仕事外の時間の充実化をはかりました。スパイスからひいたカレーを作ったり、アウトドアを楽しんだり、体を鍛えたり、恋をしたり...。仕事もプライベートも全力投球すると、人生に彩りが増しましたね。
人生最高潮の30歳、突然の原田病発症
2年のオーストラリア勤務を経て退職し、今度はテクノロジーの分野で挑戦したいと思い、帰国しました。全力で臨んだ転職活動では、希望したすべての会社からオファーをもらいました。30歳、いくつか夢を叶えてきましたが、やりたいことは増えていくばかりです。自分次第でこれからの可能性は無限に広がっていくんだと、希望に満ちていました。
新しい会社での勤務開始があと3日にせまっていた夏の朝、家を出ると目に違和感がありました。コンタクトをつけまちがえたのかな、と近くの看板を見ると、文字の直線がギザギザして見えたのです。急いで近所の眼科に駆け込みました。診察を待つ間、視界はどんどん悪化。見ている景色には墨汁を垂らしたような黒いシミが広がり、ぐにゃんと歪んでいきました。
眼科医の見解は、自然に治るという中心性網膜症。念のため、次の日に大学病院に行くように言われました。あきらかな目の異常を感じていたので、今すぐに検査をしたいと頼んだものの、空きはないと拒まれてしまいました。帰り道、道ゆく人の顔を見ると、みんなの顔がぐにゃぐにゃと黒く歪んだバケモノのように見えました。恐怖を覚え、逃げるように家に帰りました。
次の日、大学病院へ行くと、即入院と言われました。「原田病という全身の免疫疾患です。目だけでなく、脳の髄膜や耳、皮膚や髪など全身に症状が出て、難聴になることがあります。治療の副作用で大腿骨がダメージを受けて人工関節が必要になったり、腎臓が傷害されて透析が必要になることもあります」。全く予測していなかった難しくて恐ろしい言葉たちが、耳を突き刺していきました。まるで、死の宣告を受ける映画のシーンのようでした。
私が発症したのは「フォークトー小柳ー原田病(VKH)」という、自分の免疫が暴走して自分自身を攻撃してしまう病気でした。主に視力に支障をきたし、炎症が長引くと網膜の中心に変性を起こして視力が回復しないことがあるといいます。わかっていないことも多いため、再発を確実に抑える確立した治療法はなく、ステロイドの全身投与が主な治療になるといいます。
私の体にも、人が1年かけて生成する量と同等のステロイドが数日間のうちに入れられました。副作用で熱が出て、手足からだらんと力が抜け、体が動かなくなりました。そして急に動悸が激しくなり、冷や汗が出て呼吸が苦しくなりました。このままでは心臓が止まってしまうんじゃないか? 頭が真っ白になって耐えられなくなり、自分で点滴のスイッチを切ってしまいました。
視界はあいかわらずおかしく、目を開けると天井がドンと迫ってくるようでした。毎日、悪夢を見ているような感覚です。夢の中では普通に見えているので、朝、目覚めるたび、壊れた世界に絶望し、こみ上げてくる吐き気に苦しみました。どんどん破壊されていく自分の体。ベッドの中で朦朧としながら「こんな辛い思いは、自分のほかに誰もする必要ない」。そう思いました。
治療は順調に進み、2週間後、退院できることになりました。視界は入院時よりは回復したものの、見える世界は魚眼レンズを通してみているように、未だ壊れていました。
「ここからまだ、よくなりますよね?」退院時、藁にもすがる思いで医者に聞くと、返答はあっさりしたものでした。「まあ、ここが目安になりますね。日常生活ができればいいと思いますけど」。
聞きたいのは、そんな言葉ではありませんでした。病院の外でひとしきり泣き、決意を固めました。「ここで諦めたくない。誰がなんと言おうと、絶対に目を元に戻す」。
できることを一つひとつやって、回復を目指す
退院後、愛知の実家で療養しました。SNSを開くと飛び込んでくる普通に生活する友人の姿に、本気で嫉妬していました。すっかり弱ってしまった自分と比べて、落ち込んでしまったんですね。でも、焦っちゃダメだなと思い直して、人生をレベル1からやり直す気持ちで生活しました。「今日は携帯の画面を見ても気持ち悪くならなかった」「今日は近くのスーパーまでいけた」など、小さな一歩を重ねていきました。
ある夜、金曜ロードショーでたまたま放送していた映画を見ました。火星に取り残された宇宙飛行士が、地球にいる家族の元へ帰るためにたった1人で奮闘する物語です。食料も水も残り少ない絶体絶命の中、主人公は希望を持ち続け、問題を1つずつ解決して家に帰ろうとしていました。思わず、その姿に自分を重ねました。「絶望と希望の2択なら、希望を選ぶ。不可能だと言われても、自分にできることを探し、それを着実にこなして、問題を解決していく」。この考え方で間違っていないのだと、背中を押された気持ちになりましたね。
その後、原田病や網膜疾患に関する世界中の論文を読みあさりました。そして様々な病院に足を運びながら、鍼灸や漢方など東洋医学を含むあらゆる治療法を試したのです。パソコンが見られるようになってからは、アメリカの自己免疫疾患専門のヘルスコーチ資格を取得し、徹底的な生活改善もしました。
なにが功を奏したのかはわかりませんが、目は日常生活が送れるまでに回復してくれました。もちろん、再発のリスクは隣りあわせですが、ひとまずそこまで回復してくれたことに心から安堵しました。
2020年1月、病気が発症して半年後のタイミングで任意団体を立ち上げました。入院中、目は元にもどるのだろうか? と何度も寝返りを打ちながら、なかなか明けない夜を待っていました。そのとき、私が1番聞きたかったのは「大丈夫だよ」という言葉です。稀な病気とはいえ、年間800人が発症を経験する原田病。研究を促進して治療法を確立することで、根拠のある「大丈夫だよ」が聞ける世界にしたいと思ったのです。
希望を選び、自分自身の光となる
現在は、IT企業で営業としてマーケティング戦略の仕事をしながら、立ち上げた任意団体、beat VKHの代表として活動をしています。団体の使命は、2つあります。1つ目は原田病の認知拡大。原田病は早期発見が鍵となり、発見が遅れることが重症化や慢性化、ときに失明につながります。認知をあげることで、重症化して苦しむ人を減らしたいのです。
2つ目は、治療法の確立に向けた研究の促進です。現在の医療では、原田病の根本的な治療法、悪化した視力への治療法はありません。気持ちの悪い見え方というものは、患者本人しかわからないので、医師もその苦しみを完全に理解することができず、患者と医師の間にも苦しさの認識にギャップがあります。他者と苦しみを共有できないゆえに孤独を感じる患者も多く、精神的に病んでしまう人もいます。研究のスピードを加速させて治療法を確立することで、原田病を発症しても心身ともに健康で生きられるようにしたいんです。
今、最も興味があるのは再生医療です。再生医療には、原田病によって壊された網膜そのものを治せる可能性があります。この分野について理解を深めるため、私自身、アメリカの大学のプログラムで勉強しています。学べば学ぶほどまだまだ未発達のフィールドであることを実感し、時間を早めて未来の医療技術を手に入れられたらな、なんて願ってしまいます。願うだけでは始まらないので、今後はbeat VKHとして、再生医療の加速を支援するプロジェクトを行っていきます。今より何倍ものスピードで研究が進むよう支援し、今は治らないと言われている病気を治せるようにしたいのです。
正直、今でも目が覚めた時、病気の前とは違う景色にひどく落ちこむことがあります。これが一生続いたらどうしようと不安になる夜も幾度となくやっています。でも、そんなときに支えとなるのは、病気が教えてくれた 「Focus on Hope and Be Your Own Light(希望を選んで信じ続け、そして自分自身の光となる)」というマインドセットです。
目の前が真っ暗になったときは、まず落ち着いて、希望を探す。そして、その希望を信じ、自分で現実的な方法を見つけていくことで、自分自身が光となって真っ暗な道を照らし、進んでいく。できない理由なんて腐るほどあるし、現実は甘くないですが、私は治らない理由ではなく、治る理由を考えたいと思っています。原田病に打ち勝つための最大の武器、希望。それをどんなときも離さず、「確立された治療法のない病気を制す」という不可能を可能に変えるため、活動していきます。
2020.07.06
伊藤 悠佑
いとう ゆうすけ|IT会社営業・任意団体 beat VKH代表
愛知県春日井市生まれ。上智大学卒業後、外資系広告代理店の勤務を経て、オーストラリアのグループ会社へ転職。次のチャレンジに向けて帰国した30歳の夏、突然、自己免疫疾患であるフォークトー小柳ー原田病 (VKH)を発症。現在、自身が立ち上げたbeat VKHの活動を通し、原田病の認知拡大・治療法の確立を目指している。
編集部おすすめ記事2019.10.11
編集部の伊藤です。秋は悩みの多い季節と言われます。例えば、ファッション。先週真夏日があったと思ったら、今週は台風到来と秋は天気が激しく変わるので、何を着るか悩みますよね。でも、そこで無難なファッションを選ぶと気分が上がらない。ファッションが心理状態に与える影響の大きさは様々な研究が示していますが、実はanother life.にもその実例があるんです。今回は、ファッションをきっかけに自分に自信がついた3名のストーリーをご紹介します。ぜひご覧ください。
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