病気は「弱み」ではない。
腎臓病歴25年の私がたどり着いた書く仕事。
中学1年生のときに慢性腎臓病を発症し、25年間の闘病生活を経て、夫の腎臓を一つ分けてもらう「夫婦間腎臓移植」を受けたもろずみさん。現在はその経験を活かし、医療コラムニストとして活動しています。病を抱えながらも、自分らしく前向きに生きる方法をどのように見つけたのか、お話を伺いました。
もろずみ はるか
もろずみ はるか|フリーライター、医療コラムニスト
1980年、福岡県生まれ。中学1年生のときに慢性腎臓病を発症。2018年3月、38歳のときに夫の腎臓を移植する手術を受けた。広告制作会社を経て2010年、30歳で独立。フリーライター、医療コラムニストとして、夫婦間腎臓移植の経験を発信している。執筆記事は、「夫の腎臓をもらった私」(ウートピ)、「夫と腎臓とわたし~夫婦間腎移植を選んだ二人の物語」(yomiDr./読売新聞)など。
病気でも明るく過ごす
福岡県古賀市に3人兄妹の末っ子として生まれました。古賀市は食品工場などが集積した福岡のベッドタウンです。近所には、第二次ベビーブーム世代など、たくさんの子どもが暮らし、地域ぐるみでのびのび育ててもらいました。丈夫で背の高い木を見つけては、友人らと競いあって木登りをした日々。自然と足腰が鍛えられ、小学生になるとマラソン大会で学年1位になるほど体力にも自信がありました。
細かいことを気にしないおおらかな性格で、10歳で父の転勤で広島に拠点を移すこととなった時も、転校初日に「親友を紹介するね」と友人を自宅に招き入れ、母を驚かせたことがありました。友人に恵まれた順風満帆な毎日を過ごしました。
しかし、中学一年の春、その後のアイデンティティ形成に関わるできごとが起こりました。学校の健康診断で潜血尿と蛋白尿の陽性反応が出てしまい、地元の診療所で「慢性腎臓病」と診断されたのです。医師からは、「治療は数十年に及ぶことも少なくない。完治が難しい病気」「腎臓を悪くするといつかは人工透析」「妊娠出産は難しくなるかも」と、なんだか怖い説明をされました。それでもピンとこなかったのは、痛み痒みなどの自覚症状がなかったからです。風邪と同じで、そのうち治るよね、とのんびり構えていました。
ところが、薬を飲んでも、潜血尿と蛋白尿は改善されませんでした。しばらくすると体の変化も感じるように。スポーツ大会の5分間走で、これまでなら負けるはずがなかった男子生徒に楽々と追い抜かされ大ショック。腎臓病の影響で疲れやすくなると、得意なスポーツで結果を出せなくなりました。また、「妊娠出産は難しくなる」という言葉は、自己肯定感を下げていきました。
そんな中、友人はいつの時もあたたかかったですね。病を個性として受け止め、腎臓病を「ジン」と呼び、私がファストフード店でみんなと同じようにフレンチフライを注文すると、「あんたジンなんじゃけ、調子に乗りんさんな」と叱ってくれました。 友人らとバカやってると、病の自分をすっかり手放すことができました。
夢破れ、失意の中再就職
そんな私の夢は音楽で食べていくことでした。3歳上の姉の影響で、幼い頃からブラックミュージックが大好きで、アメリカで放送された音楽番組の再放送を録画してはテープが擦り切れるほど視聴し、小・中・高と、風呂場で洋楽を熱唱するのが日課でした。
高校生になると、「私って才能あるのでは」と自分の力を試したくなり、ボーカル募集のオーディションに挑戦。応募総数約4000人の中から15人の枠に残り、最終オーディションに駒を進めました。
田舎者が花の都・大東京で腕試しすることとなり、プロデューサーらしき男性から「期待してます」と背中をポンと押された私は、本当に夢が叶うんじゃないかと武者震い。が、いざステージに立つと、武者震いは緊張の震えに変わり、声がうわずり、音程が狂ってしまい…。数週間後、広島の自宅に不合格通知が届きました。
失意の中、地元の大学に進学しましたが、夢はそう簡単に諦められるものではありませんでした。大学2年生になると、歌い手ではなく、作り手になろうと方向転換し、姉と音楽制作をスタートさせました。と、いっても、姉は17歳から渡米し、音楽エンジニアの学校に通っていましたので、実質活動できたのは、私が渡米できる大学の夏休みと冬休みの年間90日程度でした。
渡米中は、姉の学校に潜り込み、姉が作った音源に合わせて、私がメロディと歌詞をつけて歌ってレコーディング。我々の音楽に興味を持ってくれたアメリカ人の在学生たちが、ギターの即興演奏で楽曲に華を添えてくれるなど、とにかく楽しかったです。気づけばオリジナル楽曲が20曲ほど生まれ、当時、日本で人気を博したヒップホップグループから楽曲提供の打診をされるなど、手応えもありました。
しかし、様々な事情が重なり契約には至らず、自作したアルバムを地元で手売りするのが精一杯。音楽で稼いだのは、1500円のアルバム×100枚で15万円でした。となると、学業優先で大学はきっちり卒業するのが筋です。卒業論文はブラックミュージックをテーマに執筆し、卒業制作はハリウッド映画の挿入歌や日本の童謡を歌ってなんとか卒業しました。
卒業後、就職の道を選んだのは、音楽の活動資金を貯めるためでした。そのため就職先は、できるだけ規模が大きくてお給料の良い企業を選び、活動資金の500万円が貯まったタイミングで渡米しようと決めていました。期限を3年に定めたのは、石の上にも3年働き、社会人としての基礎を身につけたかったからです。
一方で、私が新米社会人として奮闘する3年の間も、姉は着々とスキルアップしていきました。同業のアメリカ人男性と結婚し、二人は仕事のパートナーになり、2003年、夫婦で有名な音楽賞を受賞しました。計画通り自己研鑽の500万円を貯め、スーツケース一つでアメリカに渡った時には、私は姉のお荷物でしかありませんでした。
身を引こう。そう決断したのは、渡米した半年後でした。長年の夢を手放すのが悲しくて、半年もかかってしまったのです。職なし、能なし、さらに目標まで失い、あるのは、腎臓病を患った体だけ・・・。気づけば、27歳になっていました。
失意の中、書く仕事に目覚め
絶望のまま帰国し、新天地として選んだのは、東京でした。誰も私のことを知らない土地で一からやり直そうと思ったのです。働かせてもらえるなら、どんな仕事でもありがたかったです。「来週からきていいよ」と言ってくれた広告制作会社でプランナーとしての一歩を踏み出すことになりました。
直属の上司は、映画のキャッチコピーなどで実績のあるコピーライターでした。偉ぶったところがなく、未経験の私にも友人のように接してくれる人でした。「きみ、書けそうだな。書いてみたら」と言って、コピーライターの仕事をふってくださったときは、飛び上がるほどうれしかったです。以来、金魚の糞のように上司についてまわり、技術を真似て学ぶ日々を送りました。
上司は、長年、フリーのコピーライターとして活躍した人でもありました。フルタイムで企業で働きながら、休憩時間は会社の倉庫にこもって小説を書き、有名な文学賞を受賞するなど、働き方は自由でパワフルでした。筆一本で家族を支える姿も、たくましく映りました。
28歳で結婚し、翌年、子どもを授かりました。最初こそ、仕事と子育てを両立できるかなと不安でしたが、妊娠出産を諦めかけていた私にとって、新しい命が宿ったことは奇跡のようなでき事でした。しかし、妊娠6カ月で、妊娠中毒症を発症。腎臓病の影響で赤ちゃんが育ちにくく、そんな状態で無理やり出産すれば、母子ともに危険にさらされるほど、事態は深刻でした。
腎機能は著しく落ちていき、仕事が続けられる状態ではなくなりました。お世話になった会社を去り、また、出産を断念せざるを得ませんでした。妊娠の影響で腎臓は急激に悪化し、ネフローゼ症候群という新たな診断名がつきました。息子を失ったショックからまともに笑えなくなり、このまま生きて良いことあるのかなと、そんなことばかり考えるようになりました。
書くことが、生きる活力に
失意のどん底の中、今後も腎臓病によって妊娠・出産が難しいなら、人生の時間を仕事に捧げたいと思い、ライター養成学校を受講し、30歳でフリーライターとして独立しました。
書く仕事は、私の人生を少しずつ骨太にしてくれました。取材すればするほど、心が強くなっていったのです。ある大手通販会社の社長さんからは、「目の前のことをひとつひとつ一生懸命に取り組めば、必ずあなたの仕事に感動してくれる人が現れる。今を大切にしなさい」という金言をいただきました。病のステージが上がっていき、数年先の未来を案じがちな私にとって、「今」に集中するという考え方は、心を軽くしてくれました。
仕事はコンスタントにいただけるようになったものの、腎機能は失われていく一方でした。「東京オリンピックまでもたないでしょう」と医師に宣告されたのは36歳の夏。手を差し伸べてくれたのは、夫でした。「僕の腎臓をあげる」と名乗り出てくれたのです。
末期腎不全になると、その治療法は2択に絞られます。人工透析か、腎移植か。唯一の根本的治療法といわれているのは腎移植です。病気で働きを失った腎臓を提供された健康な腎臓と取り替える治療法で、腎機能が正常値に戻り、予後も優れる、とされています。
しかし、健康な人の体にメスを入れるなど、許されるのだろうか。そうまでして元気になる意味があるのだろうか。葛藤は続きました。それでも腎移植に踏み切れたのは、ドナーになってくれる人が、最愛の人だったからです。「夫婦で命を共有して、一緒におじいちゃん、おばあちゃんになろう」。夫はそう言い、私は「生きよう」と決断しました。
夫婦で大きな決断をした頃、さらなる転機が訪れました。ある有名なメディアの編集長さんと食事する機会があり、そこで専門分野を尋ねられた私は、答えることができませんでした。ライターのキャリアが浅く、お声がけいただければ、どんなお仕事にも引き受けるスタンスで活動してきたため、これぞという専門分野がなかったのです。すると編集長さんから「何でも書けるということは何も書けないと言ってることと同じですよ」と言われました。顔から火が出るほど恥ずかしかった。私はこれまで何をしてきたんだろう…と思いましたね。
けれど、編集長さんはこう続けました。「40年近く生きてきたのなら、必ず専門分野があるはずです。ただ気づいてないだけ。一緒に人生の棚おろしをしてみませんか」。編集長さんは意地悪を言いたいわけでは決してなく、私に気づきを与えようとしてくださっていたのです。私は、中学1年生から腎臓病患者であること、半年後に、夫の腎臓を一つ分けてもらう腎移植手術を受けることを告白しました。その時、 黙って私の話に耳を傾けていた編集長さんがこうおっしゃったのです。「あなたの専門分野はそれです」と。
実は、持病のことは移植前も移植後も、家族や親しい友人以外の人に話す予定はありませんでした。特にお仕事関係者には。病気を告白したら、仕事を任せてくれなくなると恐れていたからです。しかし、編集長さんの考えは真逆でした。病気はネガティブなものではない。25年間付き合ってきた持病であれば、もはやそれは専門分野であり、強みであると。これには本当に驚かされました。
夫の愛が私を無敵にしてくれた
半年後、38歳で夫婦間腎移植を受けました。目を覚ました私に、「おしっこがたくさん出てますね。これ全部、旦那さんの腎臓から出たおしっこです」と教えてくださったのはHCU(高度治療室)の看護師さんでした。それは、夫の腎臓が私の体の一部になった証でした。
奇跡は次々起こります。25年かけて悪化した腎機能は、移植後たった一日で正常値に回復し、「体の毒素が抜けた」のは、肌を見れば一目瞭然でした。移植前の黄色がかった肌は、生まれ変わったように白くなり、本来の血色を取り戻しました。全身のむくみがとれ、まるで人相が変わったようでした。そうした移植医療の成果を、胸の奥にしまいこんではならないと思いました。
腎臓病患者さんの99.5%は人工透析を選びます。わずか0.5%に当たる腎移植という治療法を自分の意思で選択したからには、実情を公の場で語ることが自分の使命だと思うようになりました。そうすることで、移植医療に可能性を見出し、治療の選択肢の一つとして検討する患者さんが一人でも増えたなら、私が生き永らえる意味があるのではないかと思ったのです。
退院の日が決まると、SNSを通じて腎臓移植がどんなものか、夫婦でどうやって病を乗り越えてきたのかを、自分の言葉で発信し始めました。すると、予想外にたくさんのいいねやシェア、コメントをいただくようになり、数日後には、ウェブメディアの連載が決まりました。オファーしてくださったのが、「働く女性のライフスタイルを紹介する」メディアだったことがとても意外でした。医療メディアではなかったからです。
担当編集者さんから「執筆するのは、病気の話かもしれないけれど、それはパートナーシップの話であり、女性のライフスタイルの話であり、生き方の話である」と言われ、背中を押してもらえた気がしました。その見立て通り、連載は病を持たない女性の目にもとまり、掲載先メディアの2018年記事ランキングで1、2、3位を独占しました。
しあわせな選択につながる情報発信を
現在は、「医療コラムニスト」として活動しています。「医療」と名乗る以上は、信頼していただける医療情報であることが重要です。原稿の監修は私の主治医であり、日本でトップクラスの腎移植実績を持つ東京女子医大病院の教授にご協力いただいています。
新聞、雑誌、テレビなどから取材していただく機会も増えました。多様な場で語らせていただけることに醍醐味を感じているのは、慢性腎臓病は、成人の8人に1人が発症する国民病とされているからです。
8人に1人ですから、患者さんの中には限界集落に暮らす人もいらっしゃるかもしれませんし、ニュースはSNSでしか読まないという若年層の方々もいらっしゃるかもしれません。必要な人に必要な情報を届けるために、ありとあらゆるメディアで語らせていただきたいと考えています。
令和の時代において、生き方も働きかたも、自由に選べるようになりました。私は「治療法」も自由に選べる時代になってほしいと願っています。少なくとも、腎移植手術において費用の心配はいりません。健康保険が適応となるほか、各種医療費助成制度が患者を守ってくれます。そうした情報も、あまり知られていないように思います。今後も正しい医療情報を発信し続けていきたいです。それがしあわせな選択につながると信じています。
2019.10.07
もろずみ はるか
もろずみ はるか|フリーライター、医療コラムニスト
1980年、福岡県生まれ。中学1年生のときに慢性腎臓病を発症。2018年3月、38歳のときに夫の腎臓を移植する手術を受けた。広告制作会社を経て2010年、30歳で独立。フリーライター、医療コラムニストとして、夫婦間腎臓移植の経験を発信している。執筆記事は、「夫の腎臓をもらった私」(ウートピ)、「夫と腎臓とわたし~夫婦間腎移植を選んだ二人の物語」(yomiDr./読売新聞)など。
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