美術品のある日常を当たり前に。
作品を通して考える楽しさ、豊かさを伝えたい。
美術商として、日本人作家の現代美術を中心に、さまざまな作品を販売している池内さん。祖父の代から続く美術商の家に生まれ、幼い頃から数多くの美術品に触れてきました。美術品はただ見て楽しむだけのものではない、と語る真意とは。お話を伺いました。
池内 務
いけうち つとむ|株式会社レントゲンヴェルケ代表取締役
株式会社レントゲンヴェルケ代表取締役。祖父の代から続く古美術商の家で生まれる。1991年、現代美術を扱う『レントゲン藝術研究所』のオープンを皮切りに、村上隆、佐藤好彦、満田晴穂など、数々の作家を輩出した。
美術ってこれでいいんだ
祖父の代から続く美術商の家に生まれました。茶道具専門の古美術商だった父に、子どもの頃からよく茶会などに連れて行かれていました。裕福な人々が持つ、質の良いものを見るチャンスがたくさんありましたね。小学校の終わり頃には自然と、父と同じように美術商になるものだと思っていました。
ただ、古美術品の良さはよくわかりませんでした。父に「これどう思う?」と買ってきた茶碗を見せられても、ただの土の塊にしか思えなかったんです。
中学生になって、父に「美術がわからない」と話すと、美術館に行くことを勧められました。そこで、たまたま開催していたポップアートの大御所と言われていた芸術家の展覧会に行ったんです。
作品を見て、これまで自分が美術だと思っていた茶道具などとは全然違うことに衝撃を受けました。歯ブラシや筆など身近な道具を使って表現している作品もあり、「美術ってこれでいいんだ」と認識が大きく変わりました。美術は、見る人によってどういう風にでも理解できるものなんだと感じ、そこから頻繁に美術館に通うようになりました。
中学校のとき、とにかく目立ちたくて、仲間と女子ばかりの演劇部に入りました。男子がきたと大歓迎され、目論見通り目立つことができましたね。ただ、やっているうちにそれだけでなく、自分が発信したことに人が反応するのが快感になりました。自分を表現することの面白さを知ったんです。演劇にのめり込んでいきました。
高校に入ってからは、学校をさぼって美術館に通い、夕方に戻って演劇部で練習する日々でした。成績は散々なもので、父に呆れられていましたね。しかし大学付属の高校だったので、受験することなく大学に進学できました。
時間が美術品の価値になる
19歳のとき、父と一緒にスイスのバーゼルで行われた世界最大級のアートフェアに行きました。父の友人の画廊が、もう出ないから記念に、と呼んでくれたんです。
会場を見て、「こんなものがこの世にあるのか」と腰を抜かしました。200件以上のギャラリーがずらっと並び、ピカソの絵など、日本では美術館でやっと見られるような作品を販売していたんです。特に、今まで見たことのないエッジの効いた現代美術に感動して、いつか自分もギャラリーを持って、ここに出たいと強く思いました。
ただ、すぐに美術商になろうとは思っていませんでした。好きな演劇を続けたかったんですよね。大学で演劇を専攻し、卒業後は自分の劇団を立ち上げました。特に好きなのは演出で、自分で書いた台本通りに人が動いて、音や光や衣装がプラスされて世界観が作られていくのが面白かったです。舞台上の全てが見られて創造主のような気持ちでしたし、舞台を作ることで自分を表現できている感覚がありました。
劇団をはじめて2年後に、父から「いい加減にしろ」とキレられ、ある美術商社に送り込まれました。本当に美術商になる気があるのかとしびれを切らしたんでしょうね。 演劇は楽しかったですが、いつかは美術商になろうと思っていたので抵抗はしませんでした。
美術商社では、美術品の価値を学びました。ある先輩が買い付けた彫刻が、業者間オークションで100倍の値段で売れたことがあったんです。先輩は作品がいつ、誰に作られたものか見分けられず安値をつけたのですが、実はそれなりの時代のそれなりの作家に作られたものだとわかり価値が跳ね上がりました。
美術品を評価するには、歴史的、科学的な観点や、その作品が作られた背景などの知識が必要になることを学びました。一つの美術品にさまざまな観点から見た価値が含まれていることに感動しましたね。
しかし、時代はバブルで、みんな興味があるのはお金でした。先輩に「いい美術品っていうのは売れるもんや」と言われて、なんでもお金に変わっていくんだなとがっかりしてしまって。半年間で退社しました。
また演劇をやっていたら、今度は父から事業を株式会社化するから戻ってこいと言われました。それに対して僕は「帰ってもいいけど好きな現代美術をやらせてくれ」と頼んだんです。景気がよかったこともあり、希望が通ってギャラリーを作ってもらえることになりました。
アーティストから考える楽しさを学ぶ
作ったのは、190坪のビルを1棟を使った現代美術の巨大なギャラリーでした。展覧会はもちろん、演劇や映画の上映会、パフォーマンスなど、いろいろな企画をしましたね。
そこまで大きなギャラリーは他になかったので、編集者や美術評論家など、さまざまな人との交流が広がりました。現代美術を学ぶ学生とも出会い、新鋭の日本の現代芸術の担い手たちが集まるようになっていきました。
学生たちは、真剣に美術に向き合い、考えていました。真剣だからこそ考えがぶつかることもあり、今や世界クラスの作家と、日本を代表する画商が六本木の交差点で喧嘩を始めて、仲裁に入ったこともあります。喧嘩になるくらい作品に対して考えている彼らに、憧れを抱きました。考えることの豊かさや楽しさを、初めて知りましたね。
ギャラリーの運営も楽しかったです。通常の展示会はただ美術品を見せるだけですが、僕は美術品を引き立たせる演出をしました。まるで演劇の舞台を作っているようで、展示会を作り上げることで自分を表現できる感じがしたんです。
ギャラリーにはいろいろな人が出入りして、若い作家が自由に創作活動をして大成していきました。しかし徐々に、作品があまり売れず資金繰りが苦しくなり、空間に対する熱も冷めていったことから、5年で閉めました。
世界に日本の美術を見せたい
ギャラリーは閉めましたが、やりがいを感じていたので美術商をやめるつもりはありませんでした。そこで、再び父の支援を受けて、青山のマンションの1室に小さなギャラリーを作ったんです。それまで190坪だったのが、一気に4畳半に。「エネルギーを凝縮する」をコンセプトに、小さい作品を扱いました。
その傍ら、高校生のときからアートフェアに出たいという気持ちがあったので、海外との交流を増やしていきました。世界ではどうしても西洋美術が強く、日本美術の良さが伝わっていない状況でした。
これまで、浮世絵のように、西洋の美術家が作品の一部に日本のモチーフを取り入れることはあっても、美術品を作る上で重要な、考え方までは取り入れられていないと感じていたんですよね。日本らしい考え方を含めた日本美術の良さを伝えようと、日本の作家や作品を世界へ送り出すことに注力しました。
そういった活動を続けていたら、ご縁が繋がり、憧れだった海外のアートフェアに出られることになったんです。海外の人に見て欲しいと日本の作品をメインに展示しましたが、商談は全然まとまりませんでした。作品を売るのはなんて難しいんだろうと思いましたね。
しかし、翌日、現地の新聞の一面に、うちの画廊が掲載されたんです。日本の作品が多かったので珍しかったのかもしれません。日本の美術を世界に発信できたことがすごくうれしかったですね。
「クレバー」な美しさ
その後、バブルが崩壊して景気が悪化し、ギャラリーの経済状況がどん底に。父からも支援を打ち切られ、自分でなんとかするしかない状況になりました。ギャラリーを移転し、節約しながら美術館に作品を収めるなどして食いつなぎました。
苦しかったですが、これまでに知り合った人たちが、各方面から助けてくれました。大手のギャラリーが集まる六本木のビルに入れてもらえたり、個人で作っていた美術館やコレクションを譲ってもらえたり。そんな人たちのおかげで独り立ちできました。中国の美術品のマーケットが伸びて、お金が流れ込んできたのも大きかったですね。
ギャラリーを何度か移転しながら、作家や作品を選ぶ基準であるコンセプトを固めていきました。打ち出したのは、「hyper technik」(超絶技巧)、「solid shock」(固体衝撃)、「clever beauty」(怜悧美学)の3つです。
特に、「clever beauty」は、僕の感じている美術の良さをよく表していると思い、カナダのアートフェアでお客さんからいただいた言葉を使いました。
僕が好きなのは、ただ見ただけでは何を表現しているかわからないけれど、説明を聞いたり他の文脈から引っ張ってきたりすると、表現したかったものがなんだかわかる作品です。ただ文字で伝えればいいかもしれないことを、絵や彫刻や映像にして、巧妙に隠して伝える。そのわかりにくさ、ずる賢さみたいなものが、美しさの一つだと感じています。
そんなニュアンスを表すには、ずる賢いという意味も持つ「クレバー」という言葉が似合うと思ったんですよね。このコンセプトを掲げて、2008年には馬喰町に画廊「レントゲンヴェルケ」をオープンしました。
美術品を買う文化を根付かせたい
現在は、画廊の経営を主軸に、美術品の販売やプロモーション、海外のアートフェアでの展示や展覧会の企画などをしています。扱うのは、日本人作家の現代美術がメインですね。
今の目標は、日本に日常的に美術品を買う文化を根付かせることです。日本は、世界的に見て、GDPに対して美術品にかけるお金が少なすぎる状況にあります。要は、美術品を買う人が少ないんです。この状況をなんとかしたいと思っています。
僕は、美術品には時間や知性が詰まっていると思います。美術品を見ることで、いつどうやって作られたものなのか、何を表現しているのか、考える時間ができる。誰かから与えられ、結末が決められたことをするのではなく、そんな風に自由に思考する時間こそ豊かだと思うんです。美術品を身近に置くことで、そんな時間を持つ人をもっと増やしたいと考えています。
今後は、作品のコンセプトや歴史などを踏まえた上で、作品を買うことが当たり前になるようにコミットしていきたいです。それができたら、この国はもっと豊かになるのではないかと思うのです。
2019.05.23
池内 務
いけうち つとむ|株式会社レントゲンヴェルケ代表取締役
株式会社レントゲンヴェルケ代表取締役。祖父の代から続く古美術商の家で生まれる。1991年、現代美術を扱う『レントゲン藝術研究所』のオープンを皮切りに、村上隆、佐藤好彦、満田晴穂など、数々の作家を輩出した。
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