飲みの場は仕事でもあり、遊びでもある。
好きな人と居心地の良い場所で、楽しく生きる。
顧客の課題をクリエイティブで解決するプロモーション会社の社長を務める高山さん。不動産、広告代理店の営業を15年以上続け、前線で活躍し続けています。20歳のときから毎晩飲み歩いているという高山さんが、飲みの場から得てきたものとは。お話を伺いました。
高山 洋平
たかやま ようへい|株式会社おくりバント社長
株式会社おくりバントの社長。プロデューサー職として実務にも関わっている。不動産、広告代理店の営業を経て、子どものときから好きだったクリエイティブ業界の前線で活躍中。「営業のプロ」「プロの飲み師」の肩書を持ち、営業に必要なコミュニケーションと知見は全て飲み屋で学んできたと自負する。
飲み屋で培ったコミュニケーション力
東京都足立区で生まれ、小中と地元の学校へ通いました。小学3年生のとき初めてテレビで映画を見てから、映画が好きになりました。「ロッキー」や「トップガン」、「ベストキッド」などを夢中で見ていましたね。映画の影響で自然と音楽も好きになり、映画と音楽の世界にのめり込んでいきました。ファミコンもバンバンやってました。
父に外食に連れて行ってもらうのも好きでしたね。食品会社に勤めていた父は、食へのこだわりが異常に強く、相当な食品マニアだったと思います。世間に知られていない飲食店をよく知っていて、町中華から誰もが知る名店までいろいろな店に連れて行ってくれました。
時には、スナックに一緒に行くこともありました。子どもながらに大人の世界に関わっていることが面白かったです。父と店の人が話している姿や、常連客同士のやり取りを見て、社会の礼儀のようなものを学びました。
高校に入ると、ラグビー部に入部し、毎日部活仲間と一緒に練習したり遊んだり。まだ働きたくなかったので大学に行こうと考え、一浪の末、なんとか群馬県太田市の大学へ進学しました。
大学の周辺は有名な企業がいくつもある工業地帯です。需要があるおかげで飲み屋街が発展していました。成人して飲酒ができるようになってからは、毎日飲み歩いていました。バーや酒場ってかっこいい映画のシーンによく出てくるでしょう。そんな場所で自分が飲めることが楽しくて仕方なかったんです。
よく行っていた飲み屋で、映画好きのマスターと仲良くなり、アルバイトを始めました。マスターは話がすごく面白くて、映画だけじゃなくジャズやハードボイルド小説の良さなんかも教えてくれました。
飲む範囲は徐々に大学の外にも広がっていき、いろいろな店を巡っていましたね。飲みに行くと、店ごとに違うコミュニケーションが生まれるんですよ。それが面白くて、店主や知らない人と話しやすい、カウンターがあるお店を選んで飲みに行くようになりましたね。
営業マンの素質が開花
大学卒業後は、不動産会社の営業職に就きました。飲み屋でそのまま働くという道もありましたが、一度サラリーマンを経験してみたかったんですよね。「飲み屋はいつか必ず自分でやるだろうから、今じゃなくても良いかな」と思っていました。
正直、サラリーマンならどこでも良かったんです。営業がしたかったわけではないですが、経理のように細かい仕事は自分には絶対できないことがわかっていたので消去法で決めました。電話でアポを取って投資用マンションを販売するガチガチの営業会社で、営業は1本でも多く電話をかけられるよう、受話器をガムテープでぐるぐる巻きにして腕に止め、電話をかけるのが基本でした。
営業は全く未経験でしたが、最初から割と上手くいったんですよね。特に大きなつまずきもなく売れたんです。すんなりと営業ができたのは、ずっと飲み歩いて培ったコミュニケーション力のおかげだと思いました。
コミュニケーションで大事なのは、相手に一緒にいて楽しいと思ってもらうことです。一緒にいて楽しいのは、自分の知らない知識を与えてくれる人か、好きなものを同じレベルで話せる人。自分は二十歳からほぼ毎晩飲みに行く生活を送る中で、アーティストやビジネスマン、文化人などいろいろなジャンルのプロの人に出会い、多ジャンルの知識を身につけることができました。そのおかげでいつの間にか話題の引き出しが多くなり、いろいろな人と楽しく話せるようになっていたのだと思います。
さらに、職場の先輩と飲みに行く機会にも勉強していました。営業がうまい人は、やっぱり皆飲みの場でのコミュニケーションも上手なんですよね。営業がうまい先輩と遊びながらコミュニケーションのセンスを学ぶうちに、自分のコミュニケーション力も更に上がりました。
飲み屋のお客さんの中には学ぶところがある人がたくさんいましたし、反面教師になるような人もいました。営業として盗むところがたくさんあって面白かったです。
しかし、そんな風にコミュニケーション力は磨かれても、仕事は全く楽しく無かったですね。徹底的な成果主義で、売れなければ給料はものすごく少ないし、棒グラフで営業成績が管理されているような会社でした。
不動産営業の仕事をしながらも、子どものときからずっと変わらずに、映画や音楽、漫画やゲーム、CMなどが大好きで触れ続けていました。4年半仕事を続けたある日、不意に自分が好きな映画や広告に関わる仕事がやりたいと、強く思いました。「やっぱり俺は、こっちだな」と。不動産営業の経験しかない自分が入れる広告会社を探し、ゴリゴリの訪販営業を経験した社長が経営している広告代理店に入社できました。
上海で「プロの飲み師」になる
順調に営業職として成果をあげ、2年ほどたったとき、中国での営業成績を上げるため、支社のある上海へ一週間ほど派遣される機会があったんです。運も味方してくれて、期間内で黒字の売上目標を達成することができました。
そのとき行った黄河路美食街や南京路などの繁華街がすごく楽しくて、衝撃を受けました。安くて美味しい店がたくさんあり、歩いていて面白いんです。なにより、景気も活気もよくイケイケムードでした。また戻ってきたいと思い、日本へ帰ってから希望を出して、正式に駐在員として上海へ行くことになりました。
中国語は「ニーハオ、シェイシェイ」がやっと言えるくらいのレベルで全くできませんでしたが、行ってから現地で覚えました。仕事のあと家庭教師の先生に教えてもらい、そのあと現地の中国人しかいないような飲み屋にいって実際に中国語を使うんです。インプットをしてからアウトプットをするというサイクルができたことで、どんどん覚えることができたのだと思います。
飲み屋で話すのは、香港映画や台湾の音楽のことが多かったですね。映画や音楽が好きだったので、香港映画や台湾音楽についてなら下手な中国人より詳しいという自負がありました。そのとき、コミュニケーションは言葉が話せるかどうかに関わらず、知識の引き出しも大切だと実感しました。
言葉も徐々に話せるようになって、上海の店にもどんどん詳しくなりました。上海の街は自由で、ノリノリで楽しいんですよ。
「プロの飲み師」を自称して、いろいろなお客さんを接待しました。例えばお客さんが来たときには、好みに合わせて、オーセンティックなバーやジャズクラブ、評判のマッサージ屋、ローカルな小籠包のお店、カラオケやスナックなどに連れて行きます。どんな立場の、どんなジャンルが好きな人でも、エンターテインメントとして上海の夜を楽しませることができる自信がありましたね。
辛いことすら売るのが真の営業マン
上海は楽しかったですが、広告代理店の営業ではクリエイティブに関わることができても、あくまで販売するだけでした。働くうちに「好きな映画やCMを自分で作りたい、モノ作りをする側になりたい」という思いが強くなったんです。上海に4年半駐在した後、社長に思いを話すと、子会社持たせてもらえる事になりました。
自分が本当にやりたいことがわかるのは自分しかいないので、人に伝えるのは難しい。だったら自分でやるしかないと思い、自分の裁量一つである程度は決められる道を選びました。営業をする中で、なんとなくですが顧客の目処はつけていたんです。
つくったのは、お客様の課題に合わせて、動画や漫画、写真や記事など、さまざまなクリエイティブサービスを提供する会社。自分はクリエイターではないので手を動かすわけではありませんでしたが、とにかく「自分が作った」と言える立場でモノ作りに関われる会社にしたかったんです。
経営については何もわからないところからのスタートでした。ずっと営業しかしてこなかったので、会社全体のお金の動きも、部下の扱い方も管理の仕方もわかりません。開業初月に事業資金の30%をオフィスの改造費に使ってしまったぐらい、何もわからなかったんです。
とても順風満帆とは言えない状態でした。明日までにお金を工面しないと倒産しそうな危機に直面した事が何回もあり、商品が売れなくて苦しい地獄の期間が続きました。酒を飲んでいても、「辛い、どうしよう、どうしよう」「もうどうせできない」と腐っていってしまいました。
この状況を脱するために助けてほしいと言ったら、助けてくれる人はいるだろうとは思いました。でも、それではだめだと気がついたんです。助けてもらうだけでは状況は変わらない。助けてもらうのではなく、投資してもらわないといけないんだと。
そのためには、投資してもらえるように常に前向きでいることが重要だと思いました。本気でお金がない時「ヤバいんですよ、お金ないんですよ」とお客さんに泣きついても、そんな落ち目の会社には投資なんかしてくれるわけがありません。「絶好調ですよ。お金以外は!」と開き直ってネタにするくらいでないといけないんです。
営業マンは、辛いことすら売り物にして前向きに営業しないといけないんだと思いました。ずっと悩んで腐っていても意味はないんだから、開き直るしかないとようやく考えられるようになったんです。
辛いときに協力してくれた人達には、お金以外のことでとにかく誠心誠意恩返ししました。企画やクリエイティブを作ったり、いい店に飲みに連れて行ったり、そのとき自分にできる限りのとっておきのことをしたんです。
そうやってなんとか続けていくうちに、自分ができない仕事に口を出すから良くないことがわかってきました。自分ができないことは、できるようになるか、諦めるかどちらかしかないんです。
自分の場合はずっと営業マンでクリエイティブディガーだったので、クライアントへの営業や、クリエイティブの知識をその場で組み立ててアウトプットするセンスには自信がありました。そこは諦めないでやろうと思い、自分の役割を営業とプロデューサー業務に絞ることにしたんです。
その代わり、自分にはできない経営戦略、財務などは、アルバイトではありますがCEOを入れて任せることにしました。CEOに戦略を伝えてもらい、みんなで販売作戦を立て、自分が案件を獲ってくる。そして制作時は自分がプロデューサー、CCOがクリエイティブディレクターとして現場を取り仕切る。経理や法務は本社に泣き付き、優秀な人材を確保してもらい、今の経営のスタイルができあがりました。
お互い居心地が良い関係で仕事をする
現在は、株式会社おくりバントの社長をしています。クライアントの課題や要望をクリエイティブで解決するプロモーション会社で、「何でも屋」に近いですね。PRしたい内容に合わせて、動画、漫画、記事など様々な手法のなかで、何を使って表現するかから決めていきます。
社員は3名で、残りは業務委託のクリエイターやアーティストです。みんな友達で、お互いに認め合っている仲ですね。
これまで、大手外食チェーンのプロモーションや、個性派メジャーバンドのMVなどを制作してきました。うちで手がけるのは、堅いイメージのものを柔らかく表現するようなプロモーションがほとんどです。正統派の広告なんかは、うちの会社には誰も求めていませんね。
最近、仕事をするときに大事にしているのは、相性が合って、互いに好きだと思える人と付き合うことです。そのために、仕事をすることが決まったお客さんとは必ず飲みに行くようにしています。
お客さんがよく行く店に連れて行ってもらうんですよ。そうすると、どんな店を選ぶか、店員や周りの常連客がその人にどう対応するかで、その人の人となりがわかるんです。一緒に仕事をする上で重要な、その人は何が好きか、どういう会社をやっているのか、PRする商材をどの様に考えているかを見極めることもできます。
反対に、自分が会食をセッティングするときも、自分の人となりがわかるお店に連れて行くようにしています。言葉で伝えるよりも、飲み屋の友達に会ってもらったり、雰囲気を感じてもらう方が伝わりやすいと思うんです。
飲み屋を通して相手の懐に入ることで、相手の人となりや魅力、考えがわかり企画がしやすくなる。一方で、自分の懐に招き入れることで、自分がどういう人間か見て、面白がって信頼してもらえたらと思っています。
飲みの場は自分にとって、遊びでもあって、仕事でもあります。この独自スタンスを10年以上の長きにわたり理解し、支えてくれる妻には感謝していますね。自分にとって、仕事と遊びは分ける必要がない、どちらもとても重要なもの。これからも、自分の好きな飲みの場を通していろいろな人と出会い、お互いに好きと思える人と付き合いながら、楽しく生きていきたいですね。
2019.03.21
高山 洋平
たかやま ようへい|株式会社おくりバント社長
株式会社おくりバントの社長。プロデューサー職として実務にも関わっている。不動産、広告代理店の営業を経て、子どものときから好きだったクリエイティブ業界の前線で活躍中。「営業のプロ」「プロの飲み師」の肩書を持ち、営業に必要なコミュニケーションと知見は全て飲み屋で学んできたと自負する。
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