諦めなかったからこそ実現した海外で働く夢。
次のミッションはみんなの挑戦を支援すること。
データ解析を軸にしたデジタルコンサルティングファームを経営する楠山さん。外資系企業に勤める父に憧れ芽生えた、アメリカでビジネスをするという夢。度重なる挫折を乗り越えて挑戦を続けた楠山さんが、その道の先で掴んだものとは。お話を伺いました。
楠山 健一郎
くすやま けんいちろう|株式会社プリンシプル 代表取締役社長
データ解析を軸にデジタルコンサルティング事業を行っている。個人を大切にし、多くの人が仕事を通じて自分の夢を実現できる、世界をリードするコンサルティングファームを目指している。
アメリカへの憧れ
埼玉県所沢市で生まれ育ちました。父が外資系石油会社の日本法人で社長をやっていたので、小さい頃はよく会社に連れていってもらいました。外国人に囲まれながら英語で仕事をする父の姿を見て、「仕事は日本人の間だけでやるものではない。違う言語を話す人たちとやるものだ」と、漠然と思っていました。
ある日、父から会社での出来事を聞きました。その日は出勤時間帯の電車が止まってしまい、60分かけて歩いて出勤した社員がいたそうです。そのとき、会社はハプニングがあっても出社したことを褒めるのではなく、「非効率なことをするな。だったら家で仕事しろ」と怒ったそうです。それを聞いて、日本で褒められることが、世界で褒められるわけではない。日本の当たり前は世界の当たり前ではないということを学びました。
家ではそうした海外のことに興味を持つ一方、学校などで友達と一緒にいる時は、目立つことが好きで常にリーダーでした。ドッジボールや野球をやる時は、戦略を立ててみんなを引っ張っていました。特に他の人が考えつかないような奇策を考えることが好きで、相手がこうくるだろうという予想の裏をかき、「そうじゃないやり方もあるんじゃないか」と常に考えていました。
中学は、中高一貫校に進学しました。次第に早く日本を出たいという気持ちが強くなっていきました。英語で仕事をする父への憧れから、英語が喋れるのは当たり前で、将来は英語を武器にビジネスをしたいと考えていました。だったら早くから英語を身に付けた方が良いと思い、高校1年生の冬にアメリカの高校を受験しました。
合格し、通っていた日本の高校は中退しました。しかし、入学する学校の職員が現地の空港まで迎えに来てくれるというところまで話が進んだ後に、入学できなくなってしまったんです。カリフォルニアの留学制度が変更になったことで高くなった費用を、父の会社の業績が悪化したことで払えなくなったからでした。
アメリカへの憧れはありましたが、そこまで落ち込まなかったです。「だったら日本で頑張ろう」と前向きに考え、再び日本の高校に入学しました。大学は、将来は英語を使ってビジネスをしたいという思いが一貫してあったので、英語に強い学校を選んで進学しました。
やっぱり目指すべきは海外
大学では英語を中心に勉強しました。しかし、徐々に勉強が好きではないことに気がつきました。受験勉強は志望校に合格するためのゲームみたいな側面があって面白かったですが、勉強自体が好きな訳ではなかったんですよね。それに、アカデミックな知識を詰め込んでも、実体験には敵わないという思いもありました。
大学卒業後は、海外進出している日本の大手電機メーカーに就職しました。海外事業部門に配属され、シンガポール担当として三国間貿易の管理を行いました。しかし、実際に働いてみると、海外出張は時々あったものの、基本的には日本のオフィスにいながらパソコンで仕事をする毎日でした。本当は、現地に駐在しながら現地の人を相手に仕事をしたかったんです。
それなりに成果を出していたある時、アメリカの大手企業と自社の社長との会議に出席させてもらえることになりました。世界で活躍するトップ企業同士の対談ということで、激しいビジネス交渉が行われることを期待していました。しかし、自社が淡々とプレゼンをするだけで会議は終わり、拍子抜けしました。
上司を見ていても、毎日午前中は新聞を読んで過ごす人もいて、正直「日本のトップ企業はこんなものか」と失望しました。同時に、このままじゃいけないという危機感が強くなっていき、あと2~3年働けば海外勤務できるキャリアは見えていたのですが、転職を決意しました。
その後、これから海外に進出するというインターネット広告のベンチャー企業に転職しました。しかし、入社した途端にタイミング悪くネットバブルが弾け、海外進出の話はなくなってしまいました。それでも、大企業に勤めていたときとは違い、自分でビジネスを作っていく感覚はすごく楽しかったです。
入社して1年経ち、楽しさが一巡した頃、やっぱり自分が目指すところは海外だと思うようになりました。外資系企業に転職するため、毎朝新聞をチェックし、日本に進出してくる企業がいれば、自ら連絡を取り名刺を配ったりしていました。すると、イギリスの大手通信社から電話がかかってきたんです。
「俺は選ばれたんだ」と勘違いをして、面接時には気合いを入れて、メディア戦略について全力で書いた50ページのプレゼンテーション資料を持っていきました。ヘッドハンターは多くの候補者に声をかけているので、実際はその時点で選ばれていたわけではなく、あくまで候補者の一人でしかなかったんです。しかし、採用担当者がプレゼンを見てくれた結果、当初予定されていたポジションよりも上のポジションで採用してもらえることが決まりました。
再び破れたアメリカに行く夢
入社してからは、メディア部門を担当しました。それまでは、配信するニュースを他社のメディアに買ってもらうという収益モデルしかなかったのですが、インターネット広告会社で働いていた経験を生かし、広告で収入を得るという新たなビジネスモデルを確立していきました。サイトの月間プレビュー数は100万から5000万に増え、広告で年間5億円を売り上げることができました。その成果が評価され、日本のメディア部門のトップを務めることもできました。
マネージャー職になり、海外で行われたマネージャー研修に参加しました。講師から「マネージャーになったお前は、プレイヤーのお前とは違う。これからは自分のWINじゃなくて、チームのWINじゃなきゃいけない」と言われ、ハッとしました。小さい頃から自分が目立てば良いという考えでしたが、初めて人を活かすにはどうすればいいかを考えるようになったんです。
考え方が変わってからは、マネージャーである自分にしかできない仕事にフォーカスすることができ、チームがよりうまくいくようになりました。
ある時、上司から「ニューヨークでポジションが空いた。チャレンジしてみたらどうか」と言われ、応募しました。最終面接まで順調に進んだところで、「お前は英語もネイティブじゃないし、現地人に比べたら不利だ」と言われて落とされてしまいました。最終選考までトントン拍子で進んでいたので採用されるものだと思っていましたし、メディア部門のトップまで務め、自分の中で次のポジションはニューヨーク進出だという考えになっていたので、一気に目標がなくなり先が見えなくなってしまいました。
今後のキャリアをどうしようかと悩んでいたとき、Eコマース事業を行っている知り合いの社長から「一緒に海外を目指そう」と誘われ、転職しました。海外で活躍したいという想いは依然と持ち続けていたので、また一から海外を目指すことにしました。
しかし、次第に会社側と意見が対立するようになりました。ある日、社長に「もうやめたる」と言い放ったのですが、次のキャリアプランはありませんでした。家庭もあり、次の就職先も見つかっていなかったので、4日後に社長に土下座をして謝りました。
思うように仕事ができず、アメリカで仕事をする夢も叶っていない。それでもその会社で働かざるを得ない自分の状況に悔しさでいっぱいでした。
起業への道
このまま人の下で働いていてもアメリカにはいけない、自分で事業を立ち上げようと考え、海外展開できるビジネスプランを企画書にすることにしました。人生が思うようにいかない悔しさをエネルギーに全力で書き上げました。それを、以前仕事でお世話になったことがあり、度々相談にも乗ってもらっていた大手ビジネス出版社の社長に見てもらいました。
社長は「ぜひうちでやってくれ」と言ってくれました。しかし、もう人の下では働きたくない、起業したいという思いがあったので打ち明けたところ、「じゃあ別会社を立ち上げてやろう。出資する」と言ってくれて、株式会社プリンシプルを立ち上げました。それなりにキャリアを積んできて、家庭も持っている38歳で、起業という選択をしました。失敗すれば失う物が多い怖さもありましたが、それでもアメリカでビジネスをしたいという夢を叶えるために一歩を踏み出しました。
最初の仕事は、その出版社の発行しているビジネス誌のオンライン事業の立ち上げでした。紙媒体で発行しているビジネス誌を、インターネット上で有料配信する事業です。メディア業界やインターネット業界で働いてきた経験を活かし、新規事業の立ち上げを請け負いました。
その社長は、紙媒体でやってきた会社にイノベーションを起こすには、インターネットという全く違う分野で活躍してきた人を投入した方が良いという考えのもと、別会社として新規事業の立ち上げを任せてくれました。しかし起業から3カ月後、その社長が退任してしまったんです。すると、これまで紙媒体を牽引してきた本社の既存メンバーから反発の声が上がるようになりました。
オンライン誌は紙媒体に比べて単価が安いため売上げ比率が低いこと、さらに本社の人間ではなく外部の人間が担当していることに対する批判の声でした。3年契約で始めた事業でしたが、わずか3カ月で崖っぷちに立たされてしまいました。それまで頼りにしていた社長もいなくなり、潰れると思いました。もう本当にダメだと思いましたね。
救いになったのは、創業メンバーであるビジネスパートナーの存在でした。彼は、自分がこれまでに会ったことのないというくらい優秀な人です。でも、一緒に仕事をしてみると、お互いの強みや弱みが分かってきました。彼はデータ解析がずば抜けて得意で、自分はビジネスを作ることが得意でした。そこでお互いの良さを活かし、データ解析を使ったコンサルティング事業を始めました。はじめは小規模なセミナーを開催し、そこから徐々に顧客を獲得。少しずつその数が増えていき、会社が順調に回り始めました。
誰でも強みと弱みがあります。それぞれが強みを活かし力を発揮することで、チームとして最高のパフォーマンスを出せるということを実体験として感じた瞬間でした。彼と自分のように、それぞれ軸を持って自立した個人が集まりチームとなることで、初めて大きなことを成し遂げられるのだと思いました。
解析に力を入れていったところ、徐々に日本でのビジネスが安定していきました。そこで、ようやく念願のアメリカにオフィスを構えることに。後任に日本のことを任せて、単身アメリカに渡ってビジネスを展開することにしました。
しかし、喜びが続いたのもつかの間でした。アメリカでは自分ひとり。ビジネスパートナーもいません。ずっとチームの中で動いていたので、仲間がいないことがすごく辛かったです。さらには、日本本社での仕組み作りがきちんとできていなかったために、自分がアメリカにいった途端、日本の仕事が行き詰まってしまいました。
さすがにこのままでは良くないと思い、いったん日本に帰り、誰が抜けてもビジネスが回るような仕組み作りに注力しました。その結果、やっと自分がアメリカに居ても、日本でのビジネスが順調にいくようになりました。
ずっと憧れていた、アメリカでビジネスをすること。その夢が、ようやく叶いました。
挑戦する人を応援したい
現在は、株式会社プリンシプルの代表として、デジタルコンサルティング事業をメインに行っています。ウェブサイトの収益化やインターネットショップの売上げ増加など、クライアントの課題解決に対してデータ解析を軸にアプローチしています。海外ブランドの直販に乗り出そうとしている会社や、海外にブランドを売り出したいネットショップなどが主なクライアントです。
アメリカでは、ロサンゼルスで事業拡大を進めているところです。私は今一月を3分割して、それぞれ日本、ロサンゼルス、シリコンバレーで過ごしています。アメリカ事業のクライアントはまだ日本企業が多いので、今後は現地にあるアメリカの会社からも仕事を依頼されることを目指しています。マーケティング大国と言われるアメリカで成功すれば、自ずと日本一の会社になれると考えています。
私は小さい頃からずっとアメリカで働くことを夢見てきました。何度かチャンスがあったものの叶わず、やっと今その舞台に立たせてもらったという気持ちです。これまでの経験を通じて、夢を強く想い続けることの大切さを痛感しています。神様が可哀想だと思ってその人の夢を助けてあげたいと思うくらい強く想うことが、夢の実現には大事だと思っています。また、常に夢に近い環境に身を置き、夢を毎日意識し続けたからこそ、成し遂げられたのだと思います。
自分は、家庭も持ち、キャリアもあった30代後半に起業しました。失敗すれば失う物が多い中で、それでも自分の夢の実現に向けて挑戦する道を選びました。まずはアメリカでのビジネスを成功させることが目標ですが、それを遂げた後は起業したい人や海外ビジネスに挑戦したい人の支援が自分の次のミッションだと思っています。
2019.01.24
楠山 健一郎
くすやま けんいちろう|株式会社プリンシプル 代表取締役社長
データ解析を軸にデジタルコンサルティング事業を行っている。個人を大切にし、多くの人が仕事を通じて自分の夢を実現できる、世界をリードするコンサルティングファームを目指している。
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編集部の伊藤です。秋は悩みの多い季節と言われます。例えば、ファッション。先週真夏日があったと思ったら、今週は台風到来と秋は天気が激しく変わるので、何を着るか悩みますよね。でも、そこで無難なファッションを選ぶと気分が上がらない。ファッションが心理状態に与える影響の大きさは様々な研究が示していますが、実はanother life.にもその実例があるんです。今回は、ファッションをきっかけに自分に自信がついた3名のストーリーをご紹介します。ぜひご覧ください。
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