プロレスはお客さんとの勝負でもある。
笑顔を生み出すエンターテイメントを目指して。
プロレス団体「DDT」を立ち上げ、代表取締役社長を務めている高木さん。プロレスについて知ったきっかけはテレビで試合を見たことでした。一人のプロレスファンから、団体を旗揚げするまでに至った経緯とは。お話を伺いました。
高木三四郎
たかぎ さんしろう|DDTプロレスリング代表取締役社長兼レスラー
株式会社DDTプロレスリング代表取締役社長。1995年にプロレスラーとしてデビュー。1997年にDDTを旗揚げ。2006年、正式に社長に就任。現在は経営者兼レスラーとして活動している。
プロレスにどっぷりはまった大学生活
大阪府豊中市で生まれました。小さい頃から活発で、よく外で遊んでいましたが、外遊びだけでなく、家の中でテレビを観たり、ラジオを聴いたりもしていました。特に、テレビは父がテレビ番組の制作を行っていたこともあってよく観ていましたね。好きだった番組はゴールデンタイムに放送していたプロレス番組で、観た翌日は学校でプロレスごっこをして遊んでいました。学校でも流行っていましたね。そうやって遊んでいるうちに、なんとなくプロレスラーに憧れるようになりました。
中学に入って、部活で格闘技をやりたいと思っていましたが、柔道部さえもありませんでした。しかたなく、バスケ部に入ったのですが、練習が辛いのと、格闘技がやりたいのとで、続きませんでしたね。高校では格闘技に携わるため柔道部に入部しました。入ってみると、部員のみんなもプロレスが好きで、柔道の練習はそこそこにプロレスの練習ばかりしていましたね。僕の得意技はバックドロップで、黒帯の昇格試験もそれで合格しました。
部活に没頭していたので、勉強は全くやっていませんでしたね。成績は、学年で後ろから数えたほうが早いくらいでした。進路について、考え始めたのは高校3年の春です。進路希望調査のアンケートが配られて、そこで大学進学に丸をつけたんです。理由は、みんなが行くからという軽い気持ちでした。そしたら、先生に呼び出されて、その成績で大学に行けるわけないやろうと、ボロクソに言われたんです。それで頭にきて、絶対現役で受かってやろうと決意しました。そこから全く遊ばずに約1年間勉強の日々でしたね。その甲斐あって、東京の大学2校に合格しました。2つのうち、プロレスラーに会えるかもしれないという理由で、プロレス団体が近くにある大学に入学することにしました。
入学後、早速、新しいプロレス団体の旗揚げ公演が5月にあるとのことだったので、プロレス好きの同級生と一緒に観に行くことに。徹夜で並んでチケットを取りました。その話を聞いた知り合いが、つてで毎試合チケットを取ってくれるように。それで頻繁に通うようになって、プロレスにどっぷりはまりましたね。会場に通ううちに、レスラーに憧れる気持ちがどんどん強くなって、自分もレスラーになるつもりで試合を観るように。いつの間にかリング上で戦っている選手たちにライバル心を燃やすようになっていました。
強みは人を集めること
プロレスに夢中になりながらも、サークル活動にも力を入れていました。活動内容はテレビ番組に出演するエキストラを集めて派遣するというもの。テレビ局から出演料を払ってもらえたので、アルバイトをしている感覚でした。テレビ局から要求された人数を集めるため、どうすればいいかずっと考えていましたね。
基本的な人を集める方法は、街でのナンパでした。特に、平日午後1時頃、新宿のアルタ前に行って、お昼の生放送番組を観覧し終わった人達を狙って、片っ端から声を掛けていました。一度番組を観覧したくらいテレビ好きなら、他の番組の観覧にも興味があるだろうと思ったのです。そこで出会った人たちと連絡先を交換して、どんどん人脈を広げていきました。
しかし、テレビ局がバブル崩壊の煽りを受けて出演料を出せなくなったので、エキストラの派遣はやめることに。そこで培った人脈を活かして、クラブやディスコでイベントを開くことをはじめました。集客には苦労せず、最終的にイベントは、全国14カ所で同時開催し、毎回2000人以上が集まるほどに。東京のイベントを掲載している人気雑誌で特集されるようになりました。それで、人を集めることが自分の強みなんだと思うようになりました。
イベントをやりながら、みんなが楽しんでいる姿をVIPルームから眺めることが楽しかったですね。僕自身はイベント中は特に何にもしていなかったのですが、会場を見渡しながらそういう場を作れたことに喜びを感じていました。
プロレスラーへの憧れはありましたが、プロレス団体に入りたいとは思いませんでした。イベントの企画・運営で生計を立てられていたこともあって、それを全て捨てて、ゼロから実績を積むのはきついなと思ったんです。
大学4年生の時、テレビの仕事で知り合った人から、「知人が新しいプロレス団体を立ち上げたんだけど、人がいなくて大変だから、手伝ってほしい」と、頼まれました。誘われたのは屋台村プロレスと言って、飲み屋街の屋台が並んだ場所にリングを置いてプロレスをする団体で、有名な選手はいませんでした。
手伝っているうちに、ここだったら自分でもプロレスラーとして活動できそうだと思い、出てみたいと思うようになりました。そこで、イベントを続けながらレスラーとして出場することに。好きなこともできて、お金も稼げるので、僕にとっては夢のような環境でした。大学を留年しながら2年間はそんな生活を続け、卒業後も引き続きイベントの開催とレスラーとしての試合を兼任する生活を送っていました。
プロレスラーとして認められたい
屋台村のプロレスラーとして試合に出るようになって、週末になると昼はサークルのイベントに行き、夜は7時から試合出場という生活を過ごしていました。
最初は楽しかったんですが、だんだん不満を抱くようになりました。というのも、出演料が減っていき、しまいには賄いが出演料代わりになったからです。小さな団体ではありましたが、一応プロとして出演していたにもかかわらずお金がもらえなくなるのはきついなと思いました。さらに、自分たちの名前がプロレスの選手名鑑に載らないことや、試合の情報がプロレス雑誌に小さくしか掲載されないことにも納得いきませんでした。プロレスラーとして認められていないように感じ、他の団体に移籍することにしました。
最初に移籍した団体は、様々なキャラクターに扮したレスラーがマスクをつけて戦う団体でした。その団体とはパフォーマンスの方針が合わず、やめることにしました。次に移籍した団体は、所属選手がよくテレビに出て、お客さんもどんどん増えていき、ブレイクする兆しがありました。ここにいたらプロレスラーとして名前が知られて、認められるかもしれないと期待をしていました。しかし、その団体がある日突然解散することになったんです。この時のゴタゴタした解散騒動によって、プロレス業界に嫌気がさし離れようかという気持ちが湧いてきました。
その後プロレスラー以外の活動も行いましたが、あまりうまくいきませんでした。そんな時、解散した団体の選手たちが僕のところにやってきて、「どうしてもプロレスを諦められないから、団体を旗揚げしましょう」と言ってきたんです。僕は、「勘弁してくれよ」と答えました。プロレスは儲からないし、僕らが旗揚げをしたところで誰も相手にしてくれないと思ったからです。でも、彼らから「諦められません」と言われ、その根気に負けました。自分の心の底に、やっぱりプロレスラーとして認められて成功したいという気持ちがあったんです。それで新しいプロレス団体「DDT」を立ち上げることにしました。
エンターテインメントに振り切る
立ち上げ当初は、他の団体と同じように選手同士が実力をぶつけ合うスタイルで戦っていました。しかし、後からできたインディーズの団体が人気のある団体と同じことをやっても魅力がなく、お客さんはどんどん減っていく一方で、すぐに赤字になりました。頼まれて始めた団体ですが、こんなにマイナスが出るならやめたほうがいいのではないかと悩みました。
どうすれば人気が出るだろうと考えていた時、アメリカのプロレス団体が、ただリングで戦うだけでなく、試合にエンターテイメントの要素を取り入れていることを知ったんです。たとえば、会場内のスクリーンにバックステージの様子を映し、選手同士がバックステージでいざこざを起こし、その決着をつけるためリングに上がっていく、といったストーリーをお客さんに見せる工夫をしていました。そうやって、ただの試合に意味を持たせる演出をしていたんです。
それを知った時に「これだ」と思いましたね。DDTでも映像を使ってお客さんを楽しませようと思いました。そこで最初に行ったのは、他の団体の演出のパロディ映像の作成でした。他の団体で名物になっていた、プロレスラーと実況アナウンサーの揉め事を真似した映像を作って会場で流すと、これがウケたんです。
その後は、有名選手に容姿がそっくりな選手を試合に出したり、本屋やキャンプ場などプロレス会場以外の場所で試合をしたりと、他の団体ではやらないような企画を実行していきました。僕たちの演出でお客さんが笑顔になっている姿を見て、DDTのスタイルはこれでいいんだと確信しましたね。
エンタメ路線に振り切ってからは、お客さんを順調に集めることができました。会場のキャパシティがどんどん大きくなって、後楽園ホールから両国国技館、日本武道館、さいたまスーパーアリーナと、たくさんのお客さんに楽しんでいただけるようになりました。大きな会場でプロレスをすると、自分がプロレスラーとして認められた気持ちになって嬉しかったですね。そして、もっとたくさんの方にDDTを観てほしい、世間にプロレスを認知させたいとの思いから、映像コンテンツのネット配信などを手がける会社のグループに入ることにしました。
いかに満足して帰ってもらうか
現在は、株式会社DDTプロレスリングの社長として会社を経営しながら、現役選手としてDDTのリングに立っています。具体的には、朝はレスラーとして練習して、10時に会社に出勤。そこからは経営者として、夕方まで戦略を練ったり打ち合わせをしたり。夜は会食して、夜中に仕事が終わることもしばしばです。
社長業をしながらもレスラーとして現場に立っているのは、マネジメント観点からの理由が大きいです。プロレスラーは職人気質なところがあり、自分と同じ経歴を持っていたり、同じパフォーマンスができる人に対しては、その人の言うことを信頼してくれるんです。なので、リングに立ち続けることが経営をする上でも大事なのではないかと思っています。
仕事の中で一番モチベーションになっていることは、観に来てくれたお客様が喜んでいる姿を見ることですね。DDTを観に来てくれる方は、小さいお子さんから年配の方まで、男女問わず様々です。そんなお客さんに満足してもらうため、喜怒哀楽をコントロールして試合することを常に意識しています。
例えば、プロレスの試合では選手があえて相手の技を受けることがあります。それは、お客さんに「え、大丈夫なの?」と思わせるためです。そう思わせておいて、一気に逆襲に転じると、「あれだけやられてたのにすごい」ってなるんですよね。そうやって、お客さんの喜怒哀楽をコントロールして、よりハラハラさせたり、楽しませたりすることが、僕らに求められているスキルだと思っています。
ただ、本当にへばってる時とかきつい時は、避けることができません。何発か受けてやり返したら、お客さんも盛り上がるだろうなと思って技を受けていたら、結局やられちゃったこともあります。そういう時に、プロレスは対戦相手との戦いだけでなく、お客さんとの戦いでもあるなと思います。お客さんを盛り上げるためにも、選手は日々練習して頑張っています。
ゆくゆくは、プロレスがもっとたくさんの方に支持されて、文化として認められるようにしたいと思っています。そのために、地方で公演したり、女子プロレス団体も作ったりして、一人でも多くの方に興味を持ってもらえるような試合やイベントを開いています。個人的に最終的な夢として、皇居で行われる春の園遊会に呼ばれるようになればいいなと思っています。その時代を象徴する各界の功績者や有名人と並んで立つことができれば、それだけプロレスが文化として認められたことになると考えているからです。
2019.01.14
高木三四郎
たかぎ さんしろう|DDTプロレスリング代表取締役社長兼レスラー
株式会社DDTプロレスリング代表取締役社長。1995年にプロレスラーとしてデビュー。1997年にDDTを旗揚げ。2006年、正式に社長に就任。現在は経営者兼レスラーとして活動している。
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