必要な方に最適な福祉車両を。
紆余曲折の果てに辿り着いた起業で社会貢献。

【トマト銀行提供】父と2人で中古車販売会社を創業し、さまざまな福祉車両の販売・メンテナンス事業を展開する田中さん。強さの秘訣は「これ!」と思い立ったら即行動に移す決断力と適応力でした。大手電気機器メーカーや広告代理店の営業、学校講師と、紆余曲折ある人生を歩まれた田中さんに、現在の事業にたどり着くまでを伺いました。

田中 英樹

たなか ひでき|株式会社オアシスジャパン代表取締役
株式会社オアシスジャパン代表取締役。岡山県津山市生まれ。大学卒業後、キヤノン販売株式会社に入社し新規開拓営業として勤務。その後、岡山県で学校講師や広告代理店の営業経験。27歳で父と株式会社オアシスジャパンを創業する。現在は、岡山県を中心に福祉車両の販売・メンテナンス事業を展開。悩みの異なるお客様に最適な福祉車両を届けている。

※この記事は、トマト銀行の提供でお送りしました。

スポーツに明け暮れた少年時代


自然に囲まれた岡山県津山市に生まれました。幼少期は、塀に落書きをして叱られたり、柿を勝手に取って怒られたり、いたずら好きのやんちゃなガキ大将でした。いたずらもたくさんしましたが、自分に素直な行動をする少年時代を過ごしました。

小学校5年生の時に、熱血先生に出会ったんです。いつもグランドで一緒に遊んでくれたり、自分が苦手だった水泳の個別練習で泳げるようになるまで猛特訓してくれたり、子供に向き合ってくれる素晴らしい先生でした。ちょうど流行っていた熱血先生のドラマの主人公に、先生の姿が重なりましたね。その先生が大好きで、教師という仕事に憧れるようになりました。

中学校に入学するタイミングで、岡山市内に引っ越しました。岡山市内の中学校は一学年10クラスあるマンモス校で人の多さに圧倒されましたが、すぐに新しい環境に馴染んでいきましたね。中学校は、バスケットボール部に入ります。弱小で試合に勝ったことのない部だったため、初心者でしたがキャプテンを任されることに。3年生でようやく初勝利をおさめることができたときは、部員だけでなく先輩たちも喜んでくれましたね。

中学3年生の夏休み、突然母が倒れました。ちょうどバスケの練習に行く時に「頭が痛い」と言っていて、帰宅したら病院に救急搬送されていました。脳の血管が切れたんです。医師からは死を覚悟するよう言われました。父だけが看病のために病院に残って、私と弟は自宅で待機しました。

自宅で待っている間は、気が気ではありません。テーブルの上にあった、母の作ったハムエッグが目に留まりました。私が「ハムエッグではなく、ハムとエッグを分けて欲しい」と何度伝えても、母はいつもハムエッグで出してくるんです。その日の朝もやっぱりハムエッグで、「いらん」と言って残してたんですね。「ああ、もう一生、母の手料理を食べられないかもしれない。素直に食べておけば良かった」と後悔の波が押し寄せました。じっと母の回復を待ちながら、テーブルのハムエッグを弟と2人で黙々と食べていました。ただ、父が必死に声をかけたおかげか、母は奇跡的に意識を取り戻したんです。

母の生活の世話が必要だったので、家族で祖母のいる津山市に帰ることになりました。私は津山市の高校へ進学。母はリハビリを続けて、だんだんと元気になりました。

真面目に遊んだ大学時代


小学生の時に出会った熱血先生や流行っていたドラマ影響を受けて、将来は教師を目指していました。そこで、大学は岡山大学の教育学部へ進学したんです。在学中は、勉強よりも遊びに一生懸命でしたね。勉強よりも楽しい経験を語れる先生になりたかったので、とにかく遊びました。

面白そうなサークルがなかったので、新しいサークルを作ったんです。サークル名は『プレイランド天国』。ちょっとチャラくて、ピンク系にも聞こえるような名前で作ったんです(笑)。名前とは裏腹に活動はいたって健全で、野球やボウリングをしたり、ドライブやバーベキューに行ったりと楽しく遊んでいました。最終的には岡山大学だけでなく、周辺の女子大や短大の子達も参加する100名規模のサークルになりました。100人の団体を創ったことが自信につながり、将来、岡山に無い何かをやりたいと思うようになりました。

また、遊んでいるうちに「もっと世の中は広いはずだ。本当にこのまま教師だけを目指していいのか」と悩むようになりました。働いていた友達が楽しそうだったので公務員の道も考えましたが、勉強していないので試験は全くうまくいかず、最終的には民間企業に就職する道を選びました。大学4年生の夏のことです(笑)

私が遊びに夢中だった大学時代、母は前回のリハビリのおかげで日常生活を送れるようになっていました。しかし私が大学1年生の時、またしても脳の血管が切れて倒れてしまったんです。医者に2回目は厳しいと言われましたが、奇跡的に回復することができました。母の生命力の強さに驚きましたね。今回は、約1年間のリハビリが必要でした。自動車の運転はもうダメと言われたので、自転車で生活するようになりました。

もうこれ以上何もないことを祈りましたが、母は大学生の後半にまた倒れてしまいました。なんとか死を避けられましたが、重度の障害を抱えることになりました。自分で立つことも動くこともできず、寝返りすら打てません。目は片方しか見えず、普通に話すことも難しくなりました。喋ったことを注意深く聞いて、ようやく分かるくらいでした。そのため母は、津山市にあった施設に入ることになりました。母が40代前半の頃でした。

素直に行動し続けた20代前半


母のことがありつつも、私は大学卒業後、映像機器などを扱う大手電気機器メーカーから内定をもらって上京しました。

入社後は、仕事が相当厳しかったです。多いときは1日100件の飛び込み営業をして、営業先に名刺をもらえないと帰してもらえないんです。でも、その経験のおかげで営業の基礎が培われました。給料も良く、寮生活だったため、叱られながらも同期たちとワイワイやっていましたね。

将来は岡山に戻って、岡山の支店で働こうと思っていたので、先輩のアドバイスから早めに異動の希望を出していました。すると、東京本部で新事業の立ち上げ部署へ呼んでいただいたにもかかわらず、1年目で早くも岡山に戻ることになってしまいました。

岡山に戻ってしばらく働いているうちに、学生時代の思いが再燃したのか無性に教師をやりたくなりました。父から猛反対を受けたんですが、数カ月悩み続け、自分の気持ちが本物だと思って会社をやめることにしました。

教育委員会に電話して「教師になりたいんです」と話しましたね。そして講師として教壇に立つことになったんです。ようやく熱血教師を目指せると意気込んでいました。

ところが、実際に働き始めてみると、いろいろと考えるようになったんです。子どもとのかかわりに関しては、全くの素人なので当然難しく大変ではあったけど、子どもが好きなこともあり、楽しく充実していました。ただ、東京でハードな営業をしていた頃と今と、どっちが本来の自分でいられるのだろうと考えるようになったんです。悩んだ結果、出した結論が営業職への復帰だったのです。

「やっぱり民間へ戻りたい」と父に話すと、すごく怒られました。父からは、元々教師に向いていないと言われていたんです。「学校講師をやめるなんて、認めん」「俺は絶対にやめる」と、お互い譲らず大喧嘩。結局「お前、勘当じゃ、出ていけ」と父に言われた時、「出て行っちゃらあ」と売り文句に買い文句で答えて、勘当されてしまったんです。

家を飛び出しましたが、お金がなかったため、車を売って倉敷市のアパートに引っ越しました。働く先を考えた時、営業を続けて、今度は形のない商品を売りたいと考えました。日常でよく目にするCM制作に魅力を感じて、広告代理店に就職しました。最初に取った仕事はラジオのCMでした。自分の作った文章がラジオから流れてきたときは鳥肌が立ちましたね。

広告代理店に入社して半年経った頃に、父から突然連絡がありました。「仕事をやめて、中古車販売をやろうと思うんじゃが、一緒にやってくれんか」と誘われたんです。驚きましたね。父は大手自動車ディーラーで働いていましたが、会社をやめて起業するということでした。私は悩んだ末に、ゼロから立ち上げに関わるチャンスに魅力を感じて、父と共同で起業することにしました。

父と立ち上げた中古車販売事業


最初は資金の余裕もなく集客に苦戦していたので、大学時代の経験を活かした作戦を実行しました。社会人版の『プレイランド天国』を創設して、90名近いメンバーを集めました。人脈が広がると、コミュニティの中に車を買いたい人が出てきたり、他の人に紹介してくれる人が出てきて、徐々にお客様が増えていきました。仲間と遊びながら楽しく仕事をしている感じでしたね。

その頃はバブルの余韻が残っていて、街中にはまだ高級車が多く走っていました。「捨てるような車は要らない」という同業者さんから安値で車を譲り受け、一桁台で中古車を売ることができました。「岡山県で一番安い中古車販売」と言われたこともあり、徐々に売り上げがのびて、従業員を雇えるようになっていきました。

ところが、2000年代になると、大手自動車ディーラーが中古車販売に参入し始めました。国内の新車市場が飽和状態になったことが理由です。各大手が中古販売市場に乗り出しました。岡山県内にも大型店が来ることにもなり、このままではうちの会社はひとたまりもないと危機感を抱きました。

方向性を考えあぐねていたお正月に、施設の母を初詣に連れて行っていたんです。母はつかまり立ちもできないため、車に乗せるのも一苦労でした。乗せながら「車のシートが回ったら楽なのに」と感じた時、「そうか!福祉車両というのがあったぞ」と思いついたんです。福祉車両は、身体の不自由な方を運ぶために、乗降し易いよう改造された車両です。車椅子を乗せたり、シートを回転させたりする機能がついています。福祉車両の新車はかなり高く、一般の家庭では手が出ない価格。調べてみると中古車販売を行っている会社はほとんどなく、安く福祉車両を提供できれば良いのではないかと思いつきました。「福祉車両を求めているうちのような家庭は多い。手の届くものにしたい!」と、ある意味、ビジネスチャンスを見出しました。

この仕事を絶対やらにゃいけん


中古の福祉車両は流通していなかったので、初めは部品をメーカーから卸して取付けることで、福祉車両を同じ機能を果たせるようにする、一般車の改造を行いました。また、一台でもあると聞けば全国各地に中古の福祉車両を買いに走りました。

事業を開始したものの、諦めそうになる瞬間もありました。前例がほとんどなく、マニュアルもないため手探り状態で進めていたんです。せっかく福祉車両を仕入れても売れなかったり、改造コストが大幅に超過したりして業績は悪化する一方でした。

車の改造も難しく、夜通し作業することもありました。せっかく注文してもらっても、納期に間に合わず、お客さんの要望とも齟齬があって、施設に呼び出され何度も怒られることもありましたね。しかし、「もう無理だ」と諦めそうになった時にスタッフ、友達、家族が支えてくれました。何度怒られても一生懸命やり続けた結果、迷惑をかけたお客さんが最後には「施設の車、全部お前に任されるから」と言ってくれるように。その経験が自分にとって自信や糧になりましたね。
それでもまだまだしんどい状況は続いていました。そんな時、ある病院から突然電話がかかってきました。「先天的に障害のある子どもに会ってほしい」と言われ、病院に伺いました。そこにはその子のお母さんと主治医の先生がいて、その子に合う福祉車両を販売してほしいと言われたんです。ずっと病院生活だったその子は、ようやく家での生活を許可されたため、通院に必要な福祉車両を探されていたんです。お母さんと主治医の先生と一緒にいろいろな自動車ディーラーを回られたそうですが、その子の使っている車椅子が特殊だったり、誰かがその子の横に座れる必要があったりと、クリアしなければならない条件が様々あり、なかなかぴったりの福祉車両が見つからなかったそうです。車が無いと通院ができない。それでは家で生活ができない。その子のお母さんは、心から我が子と一緒に家で暮らすことを望んでいました。「何とか家で一緒に過ごしたいんです」。

それを聞いた時、体が震える感じがしました。それまで私は「車を買ってほしい」と思って仕事をやっていましたが、はじめて「何とかしてあげたい」と思ったんです。「僕が何とかしないとこの子はお家に帰れない。お母さんの夢が叶わない。絶対何とかする」と。その子に合う車は、改造するしか手段がなく、スタッフみんなで知恵を絞り、何とか希望に合う車を用意することができました。

その後、お母さんから「この車のおかげで、子どもをいろんな場所に連れて行ってあげることができるんです」と言われたんです。すごく嬉しかったですね。その時に「俺は、この仕事を絶対やらにゃいけん」と思ったんです。そこから本気のスイッチが入っていきましたね。

時が経つにつれ、各メーカーの福祉車両ラインナップも増えるようになり、新車価格も下がってきました。市場の流れで新車が出回ると、呼応して中古車の市場も広がりました。中古車市場が広まると、一般車を改造する必要性も少なくなったので、改造は一旦やめました。

必要な方へ福祉車両を届ける


現在は、福祉車両の販売とメンテナンスを中心とした中古車販売事業を展開しています。お客さんは、病院や介護施設、老人ホームといった法人や、福祉車両が必要な様々な個人や家庭です。

事業は、7割を福祉車両が占めています。北は、北海道から、南は沖縄までお客様がいます。西日本では最大規模の福祉車両中古車販売会社だと思います。

弊社の福祉車両事業の特徴は3つ。まず、メンテナンスです。福祉車両のメンテナンスを専門的に行っている会社は、全国的にはまだまだ少ない現状があります。メンテナンスをしないと故障率が上がるため、装置の専用点検を行っています。これによって、福祉車両をより長く安全に使っていただけます。

次に、全メーカーの車両を取り扱っている点です。各メーカーに車両の特徴があるため、スロープの幅や傾斜角、足元や頭上のスペースも、車によって寸法が違うんです。これはなかなか素人には分かりません。うちは、全メーカーを取り扱っているので、お客様の要望に合う車をおすすめできるんです。

3点目は、遠方の注文に対する対応です。今は岡山にしか店舗がないので、遠方からの注文にも対応できるように、Webカメラを導入しています。お客様の中には、遠い距離を移動して来店されるのは無理なケースが多々あります。そういったときはWebカメラを使って福祉車両のデモを行います。社員が車をWebカメラで映すと、お客様は車の状態や福祉装置の動きをパソコンの画面で、ライブ中継のようにリアルに見ることができます。福祉装置はどのように動くのか、どんな車椅子なら乗れるのか、足元や頭上のスペースはどのくらいあるのかなど、細かく、中継のように見ていただくことでお客様に安心していただけるように導入しています。

今後は、より多くの個人の方に会社の存在を知ってもらいたいと思っています。法人はまだしも、個人の方にはまだまだ知られていません。新車だと高くて手が出なくても、中古なら福祉車両を買える家庭がたくさんあると思うんです。そういう家庭に、より安い価格で福祉車両を提供したいと思います。

また、合っていない福祉車両を買ってしまい、購入してから困るというケースもあります。うちなら、その人に最適な福祉車両を見極め、届けることができると思っています。老老介護になっているご家庭や、障害のある子供を持つご家庭など、福祉車両を必要としている一つでも多くの家庭に福祉車両を届けたいなと思います。

2018.12.24

田中 英樹

たなか ひでき|株式会社オアシスジャパン代表取締役
株式会社オアシスジャパン代表取締役。岡山県津山市生まれ。大学卒業後、キヤノン販売株式会社に入社し新規開拓営業として勤務。その後、岡山県で学校講師や広告代理店の営業経験。27歳で父と株式会社オアシスジャパンを創業する。現在は、岡山県を中心に福祉車両の販売・メンテナンス事業を展開。悩みの異なるお客様に最適な福祉車両を届けている。

※この記事は、トマト銀行の提供でお送りしました。

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