陰ながら努力をして、成果を出す。
家族も仕事も大切にしている社長が目標。
【日本経済大学提供】営業職として自治体広報紙などの広告枠を販売しながら、社内のチームマネジメントを行う松本さん。入社して2年、先輩からのアドバイスを素直に実行し、結果を出してきた松本さんですが、「入社後の大変さはこれまでに比べたら可愛いレベル」と言います。松本さんがこれまでしてきた努力とは。お話を伺いました。
松本銀士朗
まつもと ぎんじろう|営業職
日本経済大学経営学部経営学科を卒業後、2017年に株式会社ホープへ入社しセールスプロモーション部に所属。優秀な営業成績を納めた社員に送られる「社内MVP」を入社2年目にして2カ月連続受賞。
※この記事は、日本経済大学の提供でお送りしました。
朝3時のグラウンドで泣きながら特訓
福岡県福岡市で生まれました。兄が1人います。活発な性格で、小さい頃は友達と公園で缶蹴りやかけっこをするなど、外で遊びまわることが多かったですね。
小学校1年生の時に、母にバスケットボールをやってみたいと頼んで、バスケのクラブチームに入りました。コーチが厳しく、県大会での優勝を目指すほど強いチームでした。
クラブチームに入ってからは練習時間以外にも母と2人でシュートの練習をしました。母はコーチに負けないくらい厳しく、学校を休んで近くの公園のバスケットコートに行って練習をしたり、小学校に許可を取って朝3時から7時までの4時間、校庭で自主練したり。泣きながら練習して、何度もやめたいと口にしていましたが、母は「自分でやりたいと言ったんだから最後までやりなさい」と絶対にやめさせてくれませんでした。
小学4年の頃、やっと試合に出られるようになりました。それまではひたすら練習するだけだったので、試合ができることでバスケが好きになりました。高学年の頃には、厳しいシュート練習の甲斐あって、ポイントゲッターとして活躍できるようになりました。
レギュラーになれて嬉しい反面、辛いこともありました。ミスをするとコーチにひどく怒られることが多々あって、試合後毎回、具合が悪くなり吐いていました。精神的なストレスを感じていたんです。
ですが、その甲斐もあって6年の頃には、地区の代表選手に選ばれて、九州大会に出場。2位になって、とても嬉しかったですね。
中学に入っても、バスケは続けていました。しかし、あれほど練習熱心だった母は、練習に付き合うことがなくなりました。というのも、中学にあがるタイミングで父と母が離婚し、母は働きに出るようになったんです。
母との特訓が無くなって1年が過ぎたある朝、兄と2人でご飯を食べている時に、不意に「あ、もうバスケやめよう」と思いました。急に、なんかもういいやって思っちゃったんですよね。その日から学校も行かなくなりました。学校に行かずに、友達と近くの公園やショッピングモールに行って、ずっと他愛もない話をしていました。兄や仲のいい友達も学校に行っていなかったので、抵抗はなかったですね。母から厳しいことを言われることもなくなって、段々と反抗的な態度を取るようになりました。
中学3年の頃、兄の影響で高校への進学を考え始めました。中学校に行ってなかった兄ですが、親の勧めで進学していました。高校に通う兄がとても楽しそうで、僕も行きたいと思ったんです。そこで、受験して兄と同じ高校の芸能コースに通うことになりました。
高校への入学は決まっても、相変わらず母に対しては反抗していました。手をあげることはありませんでしたが、汚い言葉を吐いていましたし、連絡せず朝帰りすることが日常茶飯事でした。
そんなある夜、家で母が身体中に湿布を貼っているのを見かけたんです。それを見た時に、母はだいぶ弱っているんだなと思いました。バスケの特訓をしていた時のパワフルな母の姿とは全く違っていたんです。これまで僕がいくら反抗して汚い言葉を吐いていても、母は毎日必ず朝ごはんを作っておいてくれました。湿布だらけの背中を見て、苦労をかけて本当申し訳ないなと思いました。その時、高校生になったら学校はちゃんと通おうと、気持ちを新たにしました。
1分1秒に時給が発生している楽しさ
高校は、芸能コースに進んだこともあって面白かったですね。数学などの一般的な授業だけでなく、演技、ダンス、ボーカルなどの勉強もしたんです。プロの方に教えてもらいながら、ギターを弾いたり、ダンスをしたりして1日が終わることもありました。ただ、すごく夢中になれるものは見つからなかったですね。
高校に通いながら、近所のピザ屋で配達のアルバイトを始めました。早く稼げるようになりたいと思って、時給がいいピザ屋の配達のバイトを選びました。学校が終わったら、バイトに通う日々でしたね。働きながら、僕はめちゃくちゃお金を稼ぐことが好きなんだなと気がつきました。働くことが全く苦じゃなかったんです。今の一分一秒で時給が発生していると考えただけで、モチベーションが高まりました。
働いて給料をもらっているうちに、母への申し訳ない気持ちも強くなっていきましたね。小学校の頃、バスケのチームに入ってお金がかかっただろうに、バスケをやめてしまって悪いな、母に何も返せていないなと思いました。それで、バイト代を家に入れることにしました。
将来については、大学への進学は微塵も考えておらず、就職するつもりでいました。ただ、スーツを着て働くイメージはあったものの、どこで何をして働きたいのかは全くわかりませんでした。3年の時の三者面談で、先生や親にこれから何をするか決めていないと話したところ、先生から、「大学に進んでその4年間で考えたらどうだ?」というアドバイスをもらったんです。考える時間があったほうがいいなと思い、大学に進学することにしました。
進学先も先生のアドバイスで、日本経済大学に決めました。大学に進むのは将来のことを考えるためで、特に大学や学部にこだわりはありませんでした。入試に無事合格し、大学入学が決まりました。
同級生の話している内容がわからない
高校から大学に上がるタイミングで母が再婚、母は再婚相手の住む佐賀に引っ越しをしました。僕は一人福岡に残り、初めての一人暮らしの生活がスタートしました。自分の生活費や、購入した車の維持費を稼がなければと、入学早々バイトに明け暮れました。高校生の頃からしていたピザ屋のバイト以外にも、居酒屋の呼び込みのバイトも掛け持ちして、1日中働いていましたね。夏になると海の家でもバイトをしました。夜中の3時まで働いて、帰って寝て、朝7時にはピザ屋に出勤していました。ハードでしたが、お金が稼げると思うと苦ではありませんでした。
勉強はほとんどしなくて、大学には単位を取るために行っていました。将来は就職しようとは思っていましたが、就職先については大学3年になったら考えるつもりでした。
しかし、大学3年になってもうすぐ就職活動が始まるという頃、同級生と話している時にあることに気が付きました。それは、21歳にしては全然教養がないということです。同級生や先輩と話をしていても、話題についていけないんです。特に、就職活動の時に行う適性検査の話題になると、同級生が何を話しているのかわかりませんでした。試験の問題を見せてもらっても理解ができないんです。
これは、まずいなと思いましたね。これから社会に出るのであれば、基本的な知識は必要だし、勉強しなければいけないと思いました。それで、仲の良かった先生に相談したところ、適性検査の対策をする講座があることを教えてもらい、受講することにしました。
切羽詰まっていたので、必死になって勉強しましたね。勉強してすぐは、脳みそが疲れる感覚があって、きついなと思いました。今まで体を動かしていた分、脳みそをあまり使っていなかったのかもしれません。座ってじっくり勉強した翌日は、脳みそが筋肉痛になったようでした。しかし、勉強するにつれてだんだんと同級生の会話がわかるようになり、知識が増えている実感がありました。半年経った頃、就職活動を本格的に始めることにしました。
本気じゃない人は受けに来るな
就職活動をスタートしましたが、どこの業界で働きたいとか、どんな会社がいいなどの希望はありませんでした。ただ、福岡で就職することと営業の仕事をすることは決めていました。ずっと福岡にいて、県外に出るイメージが湧かなかったんです。また、高校の頃から7年間接客業でバイトをする中で、人と接することが自分に合っているなと感じたため営業職を目指しました。
それで、「福岡」と「営業職」の2つに絞って会社説明会に行きました。30社くらい行きましたが、その後エントリーしたのは5社のみでした。選んだ基準は、会社説明会に来ていた社長や社員の方を見て、自分が働くイメージが沸くかどうかでした。
その中で1社、社長の発言が衝撃的だった会社がありました。説明会で社長が登壇し、「本気じゃない人は受けに来ないでください」と言ってたんです。それを聞いて、「何この人?!」と思いました。説明会には何度も参加していましたが、そんな発言を耳にしたのは初めてだったんです。他の会社の方はみんな「受けてください」とか「一旦エントリーしてみてください」とか言うじゃないですか。それが「本気じゃない奴は来んな!」って言われて、負けず嫌いな僕は「いや、行くし」と思い、エントリーしましたね。
その会社の選考を通過し、最終的に行われた5次面接で社長と直接話をしました。社長は、創業当時、とても苦労をした方でした。天才肌で運よく進んできたのではなく、泥水吸って人知れず努力をして、会社を大きくした話を聞きました。そんな社長を、かっこいいな、この人尊敬できるなって思ったんですよ。それで入社を決めました。
入社後、セールスプロモーション部に配属され、自治体の広報紙の広告枠を販売し始めました。全国の企業に対し、電話で営業をする仕事でした。
仕事を始める前は、これまで経験したことがないくらい大変なんだろうなと想像していましたが、始めてみるとそれほど辛くはありませんでした。小さい頃のバスケの特訓や大学生の頃の寝る間を惜しんで働いた日々の方が全然きつくて、その大変さに比べたら可愛いレベルでした。小学校から振り返って、一番楽な時期に入った感じがしました。
しかし、営業ではなかなか結果が出なくて、同期の中で売上成績が最下位クラスでした。悔しかったですが、ここで腐ったら終わると思って、上司に言われたことは全部やろう、小さな約束でもちゃんと守ろうと意識して行動しました。例えば、先輩に指示された件数は毎日絶対に電話をかける。問い合わせには即返信をする。当たり前のことを当たり前にやることを心がけました。
そしたらコツが掴めてきて、どんどん成果が出るようになりました。結果、営業成績が上がって、社内でMVPを受賞しました。さらにその次の期もMVPを頂き、創業以来初めての2期連続受賞となりました。成果を認めてもらえたことで、このやり方が間違っていなかったんだなと思いましたね。
社長のようにありたい
現在は、福岡市にある株式会社ホープで、これまでと同じ新規開拓の営業に加えて、営業チームのマネジメントも行っています。営業では、自治体の広報紙や子育てガイドブックなど、様々な媒体に掲載する広告枠を販売しています。愛知、岐阜、三重の3県が担当エリアで、広告主はハウスメーカーや銀行など様々です。出張が発生することもありますが、基本は電話営業です。電話をかける前に、企業やその周辺地域のこと、どういう産業が盛んで人口がどれくらいかなどくまなくチェックして、広告を出すメリットを考えてから提案しています。
もう1つの仕事、チームマネジメントは最近着手しましたが、教えることの難しさを痛感しています。自分にとって当たり前にできたりわかったりすることが部下にとっては難しくて、自分の常識が通用しないんだと壁にぶち当たった気分でした。でも上司に相談する中で、「みんな、俺じゃないんだ。別の人間で、全然違う人生を歩んできたんだ」と気づき、部下の話を聞くようになりました。今は、まず部下のことをよく知ろうと思っています。部下が結果を出した時は、すごく嬉しい気持ちになりますね。いずれはMVPを取ってほしいなと思っています。
今後について、どういう仕事をしたいとか、どういう部署にいきたいという希望は特にありません。それよりも今与えられた場所で成果を出したり、出世したりして、ずっと仕事が好きだと言える状態で働きたいですね。
あとは、人として社長のようにありたいと思っています。社長はめちゃくちゃ家族を大事にしてるんですよ。仕事もバリバリしているのに、子どもとの時間もちゃんと取っているんです。もし自分が結婚して家庭を持ったら、子どもが寂しい思いをしないように家族との時間を大切にしながらも仕事に励む、社長みたいな大人になりたいなと思います。
2018.12.18
松本銀士朗
まつもと ぎんじろう|営業職
日本経済大学経営学部経営学科を卒業後、2017年に株式会社ホープへ入社しセールスプロモーション部に所属。優秀な営業成績を納めた社員に送られる「社内MVP」を入社2年目にして2カ月連続受賞。
※この記事は、日本経済大学の提供でお送りしました。
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