評価は100年後になされればいい。
大切なのは地域に根差して夢を語ること。
【日本経済大学提供】若くして福岡県議会議員に当選し、現在5期目の松尾さん。地域のために日夜奔走する日々が続きます。実は初めて出馬する直前まで、政治家になることは考えていなかったそうです。出馬するにいたる道筋には、一体なにがあったのでしょうか。お話を伺いました。
松尾 統章
まつお とうしょう|福岡県議会議員
福岡県議会議員。自由民主党福岡県議団幹事長。第63代福岡県議会議長。
※この記事は日本経済大学の提供でお送りしました。
厳格な祖父と背中を見せる父
福岡県北九州市で生まれました。地元の自然の中で虫取りや魚とりに興じたり、空手を習ったりするなど、体を動かすのが好きな活発な性格でした。小学校に入ると、その頃持っている人が少なかったパソコンに興味を持ち、よくいじって遊んでいましたね。
父が建設会社の社長をしていたため、その姿に憧れて、将来は建設会社の社長になりたいと思っていました。ただ父は仕事が忙しく、あまり一緒に過ごすことができなかったですね。ずっとその背中を見て育ちました。
可愛がってくれたのは祖父でした。祖父は北九州市議会議員を務めており、まさに厳格という言葉があてはまる人でした。躾も厳しく、私はよく家の中や神棚の掃除などの手伝いをしていました。ただ、厳しいだけでなく優しさも兼ね備えていて、地域の方々からの信頼が厚く、選挙も強かったですね。先祖を供養するとか、地域を大切にするとか、人として大事なことを教えてもらいました。
高校に入る頃、父も建設会社の社長から県議会議員へ転身し、政界に入りました。家にはいろいろな人が出入りしており、とにかく慌ただしい日常の中にいましたね。そういう様子を見ていたため、私は「政治家にはならない」と公言していました。
建設会社経営の夢へ向け歩みだす
将来は建設会社の経営に携わるつもりで、大学は福岡県太宰府市の第一経済大学に進学しました。大学時代は、遊びを大事にしていました。友達と「鍋の会」を作り、文字通り鍋をやって盛り上がっていました。人の輪を大切にする性分でしたね。
勉強面では、大手保険会社出身の先生が教えているゼミに所属。損害保険のことはもちろん、保険を軸にして社会や経済について学ぶことができました。特にPL法(製造物責任法)について学んだときは、探求心を呼び起こされて面白かったですね。
経済や社会、法律などを勉強するにつけ、社会で活躍するためには「このままじゃいけないなあ」と思い始めました。そこで簿記の専門学校に通って、簿記などの資格を取りました。資格の勉強をするうちに、だんだん不動産業に興味が出てきました。不動産管理をやりたかったんです。就職活動では不動産会社を受け、内定をもらいました。
ところが、不動産業界で働くことがほぼ決まっていたある日、叔父から突然「会社に入って経理をやれ」と言われたんです。父が政治家に転身していたので、父の弟が建設会社を継いで社長となっていました。どうしようか悩みましたが、結局、不動産会社の内定を入社式の9日前に断って、家業の会社に入ることになりました。
入社後は、建設会社でまず働いて仕事を覚えると、グループのビルメンテナンスの会社に出向。土日も無いくらい仕事づくめで働きました。ただ、父も祖父も休日など関係なく働いていたので、それが当たり前だと思っており辛くはなかったです。むしろ仕事が楽しかったですね、本当に楽しかった。しばらくすると仕事ぶりが認められたのか、常務になりました。このままいけば、目指していた会社の経営者になれるだろうと考えていましたね。
お前が親父の遺志を継げ
私が25歳になった10月ごろ、父の病気が発覚しました。私はグループ会社の支店がある福岡市で勤務していましたが、「父が倒れたから戻ってこい」ということで急遽呼び戻されました。診断の結果、白血病に似た症状の病気で、命が危険な状態であることがわかったんです。
みんなショックを受けましたが、幸いなことに治療法が見つかりました。骨髄移植のドナーが見つかり、手術を受ければ治るとのことでした。しかし、父はすぐに手術を受けるとは言わなかったんです。
病気が見つかったのは、ちょうど、地方統一選挙の半年前のことでした。父は選挙に出るつもりだったため、選挙後に治療をすると言い出しました。骨髄移植をすれば助かる状況でしたが、選挙を優先したんです。
父がしばらく入院していた間に、「松尾剛健は亡くなった」という噂が出回りました。これに父は怒って、病をおして選挙に向けた活動を始めたんです。もちろん医師は止めていましたが、しっかり予防をするという条件で外出を許してもらいました。はじめはしっかりマスクをするなど風邪の予防をして、恐る恐る活動していました。しかし特に体に異常がなかったので、だんだんと活発に外に出るようになっていったんです。
私はそのまま選挙の手伝いに入って、主に父の後援会を回って組織固めなどをしていました。不安でしょうがなかったですね。父は選挙のことを考えず、議員を辞職して治療に専念した方が良いと考えていました。
そんな状態が続いた選挙直前、父は肺炎に罹ってしまいました。すると見る見る容体が悪化していったんです。意識もなくなりました。母はもう憔悴しきって、どうしようもなかった。叔父も「おまえの親父はもうもたないかも知れない」と言っていました。
告示日は明日に迫っていました。親族で集中治療室に集まって、意識のない父の近くで、選挙をどうするか話し合いが持たれました。父の思いを無駄にすることはできない。親族から誰かが出馬しなければならない。それまでは政治に興味がありませんでしたが、「とにかくお前が親父の遺志を継げ」と言われて心が動きました。今の時点で、父の遺志をついで出馬できるのは自分だけだと思ったからです。ついに決意しました。出馬するとね。それで集中治療室に入って、意識の無い父親の耳元で言いました。「出るよ」と。
そこからは一気に自分の選挙戦です。地方議員は選挙期間が10日間しかありません。だから本当に時間がありませんでした。本来ならすべき町会周りもあまりできなかったですね。亡くなった父の通夜にも出られませんでした。かろうじて葬式に出て、遺族代表で挨拶をして、お見送りもできずに選挙の集会に向かいました。そうした怒涛の選挙戦の後、投票日を迎えました。結果は当選。26歳の時でした。
協力を得ながら政策を実現させる
当選してからは、なにもかも大変でした。まず必要だったのが人付き合いです。当時の県議会は40代以上の議員ばかりですから、26歳は極端に若い。年上の議員から政治の世界を学ぶために、人付き合いを一番大切にしましたね。それとあわせてとにかく勉強をしました。分厚い用語辞典の社会や政治経済の部分を丸暗記するなんてこともしましたね。
1期目を終え、2期目も当選させていただくと、警察常任委員会の委員長を務めることになりました。警察常任委員会というのは、警察に関する予算を決めたり、条例関連の審議をしたり、警察の不祥事の対応をする組織です。先輩の議員の方々の意見を取りまとめたり、警察の上層部の方などと話し合いをしながら方向性を決めるわけです。自分の独りよがりじゃなにも進みません。議員の方々に納得してもらうには、しっかりした知識と方向性を持って説明しなければならないこと、話し合いの大前提として信頼関係が必要なことなど、本当に多くを学びました。
3期目には、花形の役職と言われています自民党福岡県議団の政策審議会会長に就きました。県議会での全ての政策をとりまとめる役職です。警察委員会が警察に関する部分を扱うのに対して、行政のすべての分野を取り扱うわけです。大変でしたが面白かったですね。知ったかぶりをせずに、その分野に強い議員の先生方の協力や指示を得ながら進めていきました。
そして4期目には、県議会議長に就任しました。文字通り、議会を代表する立場です。県知事も議員も選挙で選ばれる二元代表制です。議会は知事と対等な立場です。その議会の代表というのは責任も重大です。
議長として手掛けた仕事に国際リニアコライダーの誘致がありました。国際リニアコライダーとは、高エネルギーの電子・陽電子の衝突実験を行うための大掛かりな研究施設のこと。これを誘致することによって、数千の研究者とその家族が住む研究都市ができ、九州全体が発展すると考えたのです。当時の麻生太郎副総理ともよく協議をしていました。結果として誘致で岩手県に負ける形になり、悔しい思いをしました。
また、政務活動費の第三者委員会の立ち上げにも尽力しました。第三者委員会とは、簡単に言うと公共のお金をチェックする機関です。政務調査費の使い道などをしっかり調査し、議員が勉強し、休みなしで頑張っていることが県民の皆さんにも伝わるようにしようと考えました。そこで公認会計士や弁護士も方々に入っていただき、組織として正式に発足させることができました。政治とお金の問題にはかなり注目が集まっていましたが、実際に第三者委員会として形にしたのは、全国の都道府県をみても数例目。第三者委員会の設置によってお金の透明化に関して大きく前進しました。
評価は百年後にされれば良い
現在は、42名の議員が所属する自民党福岡県議団の幹事長をしています。幹事長は党内で会長に次ぐナンバー2の位置であるとともに、調整役でもあります。会派の役員や執行部との調整、人事の調整などありとあらゆる事柄が仕事です。
私が今、力を入れていることのひとつが観光行政です。インバウンド需要に対応する施策について考えており、その中でも福岡空港と北九州空港の連携が大事だと思っています。福岡市は魅力ある街で集客力もあります。それを支えているのが好立地の福岡空港なのですが、人気があるだけに離発着便数が多く、かなりひっ迫した状態が続いています。つまり、これ以上福岡空港に離発着する便を増やすのは極めて難しい状況。そこで、まだ余裕のある北九州空港と一体的な運用ができないかということで連携を進めています。これは、単に空港の連携というだけではなくて、福岡県の中でも福岡市を中心とした西部が発展しているのに対して、少し勢いのない東部の振興をどうはかるかというところも重要だと考えています。
さらに九州全体を見ると、北九州市をはじめとする九州東部の高速道路や新幹線の整備や、企業誘致が喫緊の課題だと考えています。九州全体の連携も重要になってくるので、「九州の自立を考える会」の理事も務めています。地方分権を進める道州制の議論は、一旦下火になっていますが、我々は地方が権限を持つための下地作りを粛々と行なっているところです。地域のことは地域自身で施策を打っていかなければならないですからね。
実は、国会議員にならないかという話はたびたびあります。しかし、私の活動の基盤は地域です。時の総理大臣や政府の意向に左右されるのではなく、地方の現場から九州全体、地元である北九州市を盛り上げていきたいです。
私の政治家としての価値観の根幹には、父と祖父の影響があると思っています。亡くなった父がよく言っていた「政治家っていうのは夢を語らなければならない」という言葉と、祖父の「政治家は地に足を着けて、地域の代弁者として活動しなければならない」という言葉が、深く胸に刻まれています。
私自身は、政治家の仕事の評価は100年後にされれば良いと考えています。とかく政治家は選挙での受けや人気を得るために、その時々の安易な策に飛びつきがちです。しかしそうではなく、未来を、大局を見て、なにが地域と住民の方にとって最良の策であるのかしっかり見極め、恐れずに進まなければならないと常々考えています。そうすることで、本当の意味で価値あるものを残せると強く思っています。
2018.12.14
松尾 統章
まつお とうしょう|福岡県議会議員
福岡県議会議員。自由民主党福岡県議団幹事長。第63代福岡県議会議長。
※この記事は日本経済大学の提供でお送りしました。
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