救急医療の現場から社会の変革に挑む。
救える命を社会全体で増やすため。
救急に特化した外科医として、多くの命を救い続ける長尾さん。日本の救急医療に課題を感じ、専門としたいことは日本では究められないと、国を飛び出し、タイや南アフリカなどで経験を積んできました。長尾さんの目指す救急医療の在り方とは。海外の医療現場で感じたこととは。お話を伺いました。
長尾 剛至
ながお つよし|外傷外科医
タイやアフリカで外傷外科医として経験を積む。現在は帝京大学救急医学講座救命センターに勤務。
友人や家族の影響で医者を目指す
新潟で生まれました。父が転勤族だったので中学までは東京と大阪を転々としていました。中学からは、東京の中高一貫校に通いました。
中学では剣道に熱中して副主将を務めたり、高校ではギターをやったりしましたが、寝る間を惜しんで没頭するほどではなかったですね。勉強も大嫌いで、授業中は寝て、試験前だけ勉強してパスしていました。将来やりたい仕事もありませんでしたが、選択肢が広いかもしれないといういい加減な理由で、理系に進みました。
高校3年生になり、大学受験を前にするとさすがに進路を考え始めました。自分の性格的に、「もの」に向き合うよりも、人相手の方が好きで得意だと思いました。また、高校1年生の時に仲の良かった友人を病気で亡くしたり、身内が病気をした経験もあり、医療に関心を持ちました。医者は、まさに人と向き合い続ける仕事ということもあり、医学部を目指すことにしました。
勉強は嫌いでしたが、やるなら適当にはやりたくないと思って、真剣に勉強しました。その結果、現役で長野の大学の医学部に合格できました。
大学で色々と学ぶ中で、自分は外科系だと感じました。内科医は頭でじっくり考えるタイプの人、外科医は先に体が動くタイプの人が多いと言われています。動きながら学ぶタイプの自分は、内科医は向いていないなと。
そこで、大学卒業後は、三次救急の患者が東京都内で一番多く運ばれる病院を研修先に選びました。救急医療には、一次救急、二次救急、三次救急と3つの区分があります。一次救急は「主に独歩で来院し、入院の必要がなく帰宅可能な軽症患者への対応」、二次救急は「救急車で搬送され、入院治療を必要とする中等症から重症な患者への対応」、三次救急は「二次救急医療では対応できない高度な処置や集中治療室への入院が必要な生命に危険が及ぶ可能性のある重篤な患者への対応」を指し主に救命救急センターが担います。
救急医と外科医の両方が必要
研修を始めてみると、予想していたのと違うことも多くて、当初は外科医になるのは難しいかもしれないと感じました。救急にも興味はありましたが、救急医になると、自分で手術する機会はあまりなくなります。救急医は、救急外来での診療や蘇生、集中治療などを専門として行いますが、手術が專門というわけではないのです。まずは手術ができる医者になりたかったので、初期研修後は、横浜の病院で外科医として勤務を始めました。
ただ、外科の中で何を專門にするかは定まりませんでした。日本で外科といえば、一般的に癌の手術がメインで、その中でも大腸、肝臓、脾臓、胃などと、自分の得意とする分野を専門として選択することになります。それらのいずれかに絞るのが自分に合わず、選択できなかったのです。
そんなとき、学会でAcute Care Surgery(アキュートケアサージェリー)という分野を日本で立ち上げていこうとしている先生の話を聞きました。アキュートケアサージェリーというのは外科と救急医療が交わった領域で、救急で運ばれてきた患者に対して必要な手術を行なうと共に、重症の場合には集中治療もおこないます。救急患者さんを助けるために手術を行い、助けるために集中治療を行う。まさに救急医療と外科の交わった領域です。
救急に来る患者は、事前の検査で細かく調べられ、手術の準備が十分にされた患者と違い、常に状況が明確に把握できるわけではありません。どこの臓器の損傷かわからないけど血圧が低い、おなかの中に血が出ていそう、でも詳細な検査をしている時間はなく、すぐに手術が必要、という感じで治療を進めないといけません。癌や特定臓器が専門の外科医の手術とは、手術が大きく異なります。
しかし、救急医は、外科医と違って手術の専門性が高くありませんし、そのような手術に長けた外科医が救急の時間帯に常駐できるわけでもありません。仕組みの狭間に落ちてしまい、救えない命がたくさんあります。
救急患者を、自分の手術で救いたかった私にとって、まさにやりたいことでした。アキュートケアサージェリーはアメリカでも最先端の取り組みで、日本ではまだ確立されていませんでしたが、私が初期研修でいた病院には、救命センターの中に外科チームがあり、そこならやりたいことに一番近いことができると思い、その病院に戻ることにしました。
南アフリカに行くために無職に
アキュートケアサージェリーを目指すうえで、その一要素である外傷外科を学ぶ必要がありました。東京で一番多く三次救急の患者が運ばれてくる病院なら、手術が必要な外傷患者も多いと考えていました。しかし、最大規模と言えど、運ばれてくる三次救急患者のうち外傷患者さんは年間で600名程度。加えて、その中でも手術となる患者は多くなく、外傷外科を学ぶことはなかなか困難でした。
どうしたらいいかと悩んでいたとき、南アフリカで外傷診療をしていた先生の話を聞きました。南アフリカは治安が悪く、日本と違い銃もあるので、外傷患者が多いんです。その分、救急外科外傷外科が発達しています。もちろん、南アフリカの仕組みや、銃で撃たれた人への手術経験をそのまま日本で活かせるとは思いません。ただ、外傷外科の原理原則や仕組みを学ぶことはできる。そう考えて、南アフリカの病院に研修に行く申請を出すことにしました。
先に二人ほどアフリカで研修を行っていましたが、すぐに自分の順番が来るだろうと思っていましたね。ただ、勤務先が公立病院だったので、海外に行くために休職することはできませんでした。そこで、病院を辞めて、南アフリカ行きの申請がおりるのを待つことにしました。30代で無職になることは、なかなか大きな決断でした。
その後、申請がおりるのを待つ間、1ヵ月ほどフィンランドに行きました。フィンランドは治安が良い国でしたが、アキュートケアサージェリーが導入されていました。治安が比較的日本に近い国の仕組みを見に行き、帰ったら南アフリカに行くという算段でした。
医療は社会システムの一部であるという学び
しかし、フィンランドから帰っても申請が通らず、南アフリカに行く目処が立ちませんでした。そこで、今度はタイの病院で2ヶ月ほど働くことにしました。タイは、人口に対する交通事故死亡者が世界で最も多く、人口当たりの外傷センターも少ないので、たくさんの外傷患者を診ることができました。
タイでは、手術の経験を積めたこと以上に、救急の現状を社会にどうフィードバックしているか尋ねられたのが印象に残っています。「日本は自殺によるけが人が多いが、そのことを医師は社会にどうフィードバックしているんだ」と言われたんです。日本では、医者は患者の病気を治して終わりのことも多いですが、タイでは、救急医療から社会に提言を行い、社会システムを変える働きかけがありました。
例えば、高速道路の速度制限がないことが怪我を増やす原因だったので、ある地域で速度制限を設け、ヘルメットをドライバーに配り、運転中にヘルメットを装着していないと病院に入れないことにしました。病院だけではなく、警察なども巻き込んで徹底したことで、怪我人は大幅に減少したそうです。
医療というのは、医者のためでも、病院のためでもなく、社会システムの一つである。そんなことに気づきました。
2ヶ月経ち、タイから帰国しても、南アフリカ行きの目処は立ちませんでした。さすがにそれ以上無職でいるわけにもいかず、南アフリカ行きが決まったら休んでもいいと受け入れてくれた帝京大学の救急救命センターで働くことにしました。
その後、南アフリカから来た先生に相談させてもらいながら手続きを進め、アフリカに行こうと決意してから2年半経ってやっと申請が通りました。
南アフリカでは、ケープタウンの病院で半年間勤務しました。ケープタウンは殺人事件の発生率が高く、世界でも有数の治安が悪い都市です。中心地には綺麗な別荘が建ち並ぶ一方、すぐ横にはスラム街が広がっています。スラム街にはギャングもたくさんいて、病院には銃で撃たれた人や刺された人が毎日来ていました。特に、給料日の後は強盗事件が増えて病院も忙しくなります。そういう面からも、社会と医療の繋がりも感じました。
南アフリカは、日本と違い医療資源が豊かでない分、判断が非常にシンプルかつ原則にのっとっていました。患者さんが来て、出血が多く血圧が低い、それならすぐ手術、と。銃創や刺し傷に対しての治療が日本でも必ずしも当てはまるわけではありませんが、外傷外科の原理原則を実際に自分で手術を行うことで体験しました。
半年ほどで日本に戻り、元いた病院で外科医として勤務を再開しました。
自らの経験を日本の医療に還元する
現在は、帝京大学の救急医学講座救命センターで外科医として働きながら、日本でのアキュートケアサージェリーの確立を目指したいと思っています。
治安の良い日本でも、外傷外科を含むアキュートケアサージェリーは必要だと感じています。患者さんの状態を完全に把握したうえで癌や腫瘍を切る手術を行う通常の外科と、その時々の状態で戦略を変えながら治療を進めていく救急の外科は違います。また、救急医では外科手術の専門性はなかなか高められません。救急科の外に、救急と外科手術の専門性を持ち合わせた救急外科医が必要なんです。
まずは、自分自身が救急外科医となり、多くの命を救える人間になりたいと考えています。そして、私と同じように救急外科医を目指す人たちに道を示せたらとも考えています。個人として目指している医師像もありますが、自分ができるだけじゃだめだと思うんですよね。アキュートケアサージェリーの専門性を確立させて、後輩に道を作るというように、もう少し大きく考えることも必要かなとも考えています。
最近、学会ができたり、大学でアキュートケアサージェリーを専門的に学べる機関ができたりと、専門性の確立としてはいい流れになってきているのではないかと思います。また、アメリカだと自分がしたような海外に研修に行くローテーションが仕組みとしてあるので、それも日本のアキュートケアサージェリーを後輩につなげていくためにが進むために必要なことかもしれません。
一方で、一医師としてできることへの限界も感じています。医師としての腕をあげることも、救急外科医が育つことにもちろん大切です。ただ、それだけでなく、例えば三次救急の中で外傷患者が運ばれる病院を一つに統一するとか、救える患者を増やすために仕組み全体を変える必要もあるかもしれません。医療の仕組みを変えていくために何ができるのかは、自分でもまだ分からない部分も多いのが、正直なところです。
いずれにせよ、一人の医師としてできることをやりつつ、仕組み、社会システムとしてのアキュートケアサージェリーという分野の確立にむけて、自分にできることを実行していきます。また、救急医療は社会に一番近い現場でもあるので、医療から社会にフィードバックする取り組みを、日本でももっと行っていければと思います。
2018.06.06
長尾 剛至
ながお つよし|外傷外科医
タイやアフリカで外傷外科医として経験を積む。現在は帝京大学救急医学講座救命センターに勤務。
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