自分次第で、ピンチは大きなチャンスになる。
NPOを内外から活性化し、よりよい日本へ。

株式会社セールスフォース・ドットコムで日本で初めての非営利セクター担当営業を務めるとともに、キャリア支援や地域活性化などを行うNPO法人鴻鵠塾(こうこくじゅく)の代表を担う上田さん。NPO活動を活発化させ日本を元気にしようと精力的に取り組む、上田さんのエネルギーの源とは?お話を伺いました。

上田圭祐

うえだ けいすけ|株式会社セールスフォース・ドットコム 非営利セクター担当営業 日本支社責任者/NPO法人鴻鵠塾 代表理事
株式会社セールスフォース・ドットコム非営利セクター担当営業日本支社責任者。NPO法人鴻鵠塾代表理事。ベンチャー企業数社の顧問や、中央大講師も務める。

恵まれた環境と「優秀」のレッテル


東京・池袋の駅前で酒屋を営む両親のもと生まれました。3兄妹の長男で、4つ下の弟と、9つ下の妹がいます。幼稚園のころから塾に行き、小学校受験をして、国立大附属の小学校に通いました。ほとんどのクラスメイトは塾に行って習い事をするのが当たり前で、僕も塾のほかにエレクトーンや水泳、野球を習っていました。

週に何度も塾に通って習い事もしているので、勉強もスポーツも人より得意でした。特に野球が好きで、中学校では学校の野球部と地元の少年野球を掛け持ちするほど熱中していました。試合にはレギュラーで出場していましたし、1・2個上の先輩よりもうまくプレーできるので楽しかったですね。

進路は、小学校のころ好きだった女の子が看護師になりたいと言っていたことに影響を受け、医者を目指すようになりました。はじめは冗談でしたが、医療ドラマを見たり国境なき医師団を知ったりするうちに、医者っていいなと本気になってきたんです。

そこで国立の医学部を受験しましたが、どこにも入ることができませんでした。合格するためには、センター試験全科目で8~9割の点数を取らなくてはいけないんです。僕は理系科目で満点を取れても、苦手な文系科目でどうしても点を取れませんでした。

母と「2浪までよ」と約束をして、予備校に通いました。国立大付属の小中高に通ってきたため、自分は優秀だという自負もありましたし、周りにも「頭がいい」というレッテルを貼られているのを感じていました。しかし2浪しても合格できず、「もう1度挑戦しても受からないな」という思いが自分の中でも強くなりました。これまでは、医学部だったら浪人していても「仕方ない」と言い訳できましたが、もうそうもいきません。見栄と現実の間で苦しみましたが、最終的に医学部を諦め、私大の理工学部に進学することにしました。

潰れず、腐らず、掴んだチャンス


医者になるという夢が潰え、大学では何をしたらいいのかわからない日々が続きました。2浪しているから成績がよくなければだめだと、勉強に励みました。1・2年生は、平日に塾の講師、日曜に草野球をして毎日が過ぎていきました。3年生になると、英語の勉強も兼ねてフィリピンに3週間ほど旅行に行き、帰国するとすぐに就職活動の準備を始めました。大学を選ぶときに視野が狭かったことを反省し、OB訪問をしてとにかくいろいろな業界の人に会いました。その中で徐々に範囲を絞っていき、内定をいただいたのがコンサルティング数社と外資系IT企業でした。

外資系IT企業の営業は、コンサルティングも、自社で生み出した新ソリューションを使った企業の支援も可能でした。一番いろいろなことができると感じ、「営業にしてくれるなら」という条件付きで入社を決めました。

初めての配属は、大阪で大手銀行担当の営業でした。働き始めて1か月後、担当銀行の業績が悪化し、破綻を回避するために公的資金が投入されました。担当銀行は経営破綻こそ免れたものの、コストの削減が急務になりました。その一環として、「IT事業は1年半凍結し、1円も投資しない」と発表があったんです。

最悪でした。僕の部署はその銀行の担当ですから、ITに投資しないと言われたら仕事がなくなってしまいます。営業はインセンティブの世界なので、ノルマに対して売り上げがないと給料が減ってしまうんです。僕は新人なのでほとんど影響がありませんでしたが、先輩方にとっては生活がかかった大問題でした。

その先輩方のストレスのはけ口が、僕でした。毎日「生きてる意味がない」などと人格否定をされ続けて、プレゼン資料をつくっても「全然論理的やないやんけ、終わりや、終わり!」と出て行かれてしまう始末でした。全身にじんましんが出て、日曜の夕方になると体が震えるようになりました。それでも、1日も休まず出社しました。会社を辞めてもどこにも雇ってもらえないだろうと思いましたし、同期にどんどん先に行かれて悔しい気持ちもありました。持ち前の鈍感力を生かしてひらすら耐える毎日でした。良いことかはわかりませんが、ストレス耐性が身に付きましたね。

3年目に東京に異動が決まり、初めて仕事が終わらない経験をしたときはものすごく嬉しかったです。それまで毎日、時計見ても1分しか進んでないような地獄が1年半続いたんです。仕事があるって素晴らしいと思いました。4年目に製品営業部に異動になると、社会人になって初めて上司と緊張せずに会話ができましたし、精神状態がかなりよくなりました。

5年目になると、営業サポートの部署の立ち上げを命じられました。営業がお客様と顔を合わせる時間を増やすために、書類の作成やデータの共有など裏方の仕事を担当する部門をつくろうということになったんです。そこは、営業が花形の社内では、誰も行きたがらない窓際的な部署でした。異動を聞かされた時は「サラリーマン生活終わったな」と思いました。

しかし、そこでやる気がなくなったわけではありませんでした。僕は3年間、辛い中でしたがお客様担当営業を経験し、4年目で製品担当営業をしていました。両方の営業の強みや弱み、仕組みを知っていたので、ある程度どうしたらいいか分かっていたんです。改善活動まで好きにできるのも水に合っていました。チームメンバーと精力的に取り組んだところ、全社をあげて毎年開かれる業務改善大会で、日本一になりました。

そこから僕の評価が上がり、やりたかった大手銀行の担当営業を任せてもらえました。窓際と言われたこの部署は、サラリーマン生活の終わりではありませんでした。腐らずに頑張ったことでチャンスが巡ってきて、逆にラッキーだったと思うことができました。

学生が自ら成長できる場所、鴻鵠塾


仕事をする一方で、僕はいろいろな友達を集めた会を定期的に開いていました。大学時代にOB訪問を通じていろいろな人と会ったり、同期の内定者を集めて飲み会を開いたりするのがすごく楽しかったので、社会人になってからも継続していたんです。東京でも集まれる場所を探していたら、有名人がたくさん集まるお店を紹介されました。毎週そこに顔を出していました。人を巻き込み、人を集めるのが好きだったんです。

毎年、大学生の就職活動に関する相談も個別で受けていました。ある時、僕の企業に興味のある学生がいました。仕事や業務内容などを話したら、「その話、面白いから友達にもしてくださいよ」と言われて。その子が集めてきた大学生10人くらいを前に、僕と友人で就活の勉強会を開きました。

やってみると手ごたえを感じて、規模を大きくしたいという想いが生まれました。まずは採用担当者の友達をどんどん増やし、大学生がたくさん来てくれるよう工夫しました。

勉強会には、「燕雀安んぞ鴻鵠の志を知らんや」という史記の言葉から、「鴻鵠塾」と名づけました。どこに就職するかではなく、なぜ働くのか、なぜ生きるのかというより高い視点から、自分の人生を俯瞰的に見られるようになってほしいという想いを込めたんです。

はじめは就活の支援が主な活動内容でしたが、地域活性化プロジェクトの主催も始めました。実際に地域に行って課題を見つけ、原因を究明し、解決策を考え実行するという一連のプロセスを、学生が行うプロジェクトです。活動場所は仕事で繋がりがあった四国地方にしました。四国は高齢化や人口減の進行がはやく、地方の課題が集まっています。それを解決することで、日本全体の課題にも通ずる知見を身に着けられると考えたんです。また、異なる文化・生活習慣のある地域に入ると、海外に行かずとも異文化体験ができます。責任を持って課題解決まで実行し、密度の高い経験を積めるようにしました。

ほかにも、都立高校でキャリア支援なども行っています。2年間活動を続け、起業するかどうか迷いましたが、多くの人が働きながらでも関わりやすいよう、2012年に特定非営利活動(NPO)法人を登記しました。

日本初の非営利セクター担当営業に


地方に関心が出てきたので、会社でも地方活性化を担当するスマ―タ―シティ事業部に異動しました。仕事自体は楽しかったのですが、課せられているノルマが現実的でなく、2年も働くとその達成に腐心することに疲れてしまいました。そんな時、営業サポートの部署を一緒に立ち上げた先輩から声を掛けられました。その先輩は、顧客管理や営業支援のアプリケーションやサービスを提供するセールスフォース・ドットコムに転職していて、「今度うちで、日本で初めて非営利セクター専門の営業ポジションができるから、その一人目をやらないか」と言うんです。

会社の説明を聞きに行ってみると、セールスフォース・ドットコムは社会貢献活動にすごく積極的な会社だということがわかりました。製品、株式、就業時間の1%を活用してコミュニティに貢献する「1-1-1モデル」という社会貢献モデルを取り入れていて、社員も積極的にボランティアに参加していました。しかも本社のあるアメリカでは、株式会社の中にCSR部門を入れると会社の業績でCSRが滞るからと、企業にサービスを提供するSalesforce.com(セールスフォース・ドットコム)と、非営利団体にサービスを提供するSalesforce.org(セールスフォース・オルグ)の2つに会社を分けているんです。そこまで本気で社会貢献活動をしようとしていることに惹かれて、選考を受けました。順調に面接をクリアし、内定をいただきました。

初めての転職だったので、怖い気持ちはありました。特にこれまでの会社とノルマ設定が違い、セールスフォース・ドットコムは年度ごとに売り上げの数字がリセットされるので、常に成果が要求されるんです。このビジネスモデルでやっていけるのかという不安がありました。

しかし、日本の非営利セクターを成長させたいという気持ちがあったこと、さらに自分で考えながら事業をつくる体験ができ、日本に一人しかいないオンリーワンになれることに惹かれて、転職に踏み切りました。

逆境にこそ、チャンスは宿る


現在は、セールスフォース・ドットコムの日本で一人目の非営利セクター専門営業として働く傍ら、NPO法人鴻鵠塾の代表理事も務めています。

セールスフォース・ドットコムでは、非営利セクター専門が自分一人しかいないので、事業計画をつくるところから、47都道府県のNPO法人、公益法人、社会福祉法人、宗教法人などを回り営業するところまで全て行っています。アライアンスやマーケティングなど、とにかくやることが多いですね。自分がいなくなったら事業が回らなくなってしまうので、きちんと2人目を育て、事業を継承していきたいです。また、今はセールスフォース・ドットコムの中に非営利セクター専門の自分が一人いるだけですが、いずれはアメリカのように非営利団体への支援を専門に行うセールスフォース・オルグを独立させて、その社長をしてみたいと思っています。

一方でNPOの代表もしているので、NPOの内情にも想いを馳せられます。フルタイムで働きNPOでも活動するとすごく忙しいですが、片方の経験をもう片方に生かせるので、シナジーを持って仕事できています。そのほか、いろいろな会社から声を掛けられ、組織づくりなどにも携わっています。

いまは、自分のやりたいことを実現させるために、まずしっかりお金を稼げるようになりたいと思っています。先立つものがなければ志は実現できません。個人的には、苦労をかけてきた妻にしっかり恩返しをして、2歳になった子どもに最高の教育を受けさせてあげたいと思っています。

日本には少子高齢化や人口減少など暗い話が多く、時代は終わったと言う人もいます。しかし僕は、追いつめられれば追いつめられるほど強いのが日本人だと思っています。僕自身も苦境の時に成果を出して周囲に認めてもらい、前に進むことができました。高齢化が世界で1番顕著なら、高齢化社会発のビジネスモデルを世界に持っていけばいい。課題の多い現状も、見方を変えれば大きなチャンスになります。ピンチをチャンスに変え、より良い日本をつくっていきたいです。

2018.05.10

上田圭祐

うえだ けいすけ|株式会社セールスフォース・ドットコム 非営利セクター担当営業 日本支社責任者/NPO法人鴻鵠塾 代表理事
株式会社セールスフォース・ドットコム非営利セクター担当営業日本支社責任者。NPO法人鴻鵠塾代表理事。ベンチャー企業数社の顧問や、中央大講師も務める。

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