とろ鯖を日本、そして世界に届ける。鯖と自分への飽くなき挑戦。
鯖寿司専門店『鯖や』、鯖料理専門店『SABAR』を運営する右田さん。 高校卒業まで魚を食わず嫌いしていたにもかかわらず、 現在のように鯖の魅力を多くの人に伝えていきたいと話すまでに至るには、どのような背景があったのか、お話を伺いました。
右田 孝宣
みぎた たかのぶ|鯖料理専門会社経営
鯖寿司専門店『鯖や』、鯖料理専門店『SABAR』を運営する、株式会社鯖やの代表を務める。
また「サバ博士」の名前で、魚の食育活動なども行っている。
株式会社鯖や
とろ鯖料理専門店『SABAR』
魚嫌いが、魚屋さんに
僕は大阪で、双子の弟とともに育ち、
小さい頃から、いつでも弟と一緒に遊んでいました。
2人ともかなりやんちゃな性格で、小学校の時は、
道を走るトラックの荷台に2人で勝手に乗り、信号待ちで停まった時に、
他のトラックの荷台に乗り移って、どこまで行けるかという遊びをしているような子どもでした。
そして学校では、勉強はあまり得意ではなかったのですが、
いつも双子の弟とともに、クラスの中心的な存在であり、ガキ大将でしたね。
しかし、いつも一緒だった弟とも、
高校でついに別々の学校に進学することとなったんです。
初めてそれぞれ別の環境となり、とても新鮮な気持ちでした。
ただ、高校1年の終わりに、単位が足りず、
自分は進級ができないことが発覚したんです。
一方、別の学校に進学した弟は当然のように進級していたので、
自分の情けなさを感じ、この時は本当に落ち込んで、
高校を辞めようかと考えていました。
そんな時に、母親に
「辞めたいならやめてもいい、でも絶対後悔すると思う」
という言葉をかけられ、考え直し、
これからは頑張って学校に通おうと決めたんです。
それからは休まずに授業に出席し、卒業できるようにまでなりました。
そして、卒業後の進路を考えるようになったのですが、特にやりたいことがなかったんです。
そんな時に、同級生がスーパーの鮮魚部門の仕事を紹介してくれました。
実は、小さい頃から一切魚が食べれなかったのですが、
せっかく紹介してくれたし、他に行くあてもなかったので、
そこに就職することを決めたんです。
魚の魅力を知り、海外でも挑戦することに
働き始めると、やはり魚が好きではなかったので、
最初は本当に嫌で仕方がありませんでした。
しかし仕事をしていくうちに、季節によって旬のものが変わったり、
さばき方によって全く違うものになったりする、魚のおもしろみや深みがわかるようになり、
徐々に好きになっていきました。
また、自社でさばいたものを割烹料理屋やお寿司屋などにデリバリーしていたのですが、
そこで、外の方々とお話しできるのも、とても楽しかったですね。
ところが23歳の時、ふと自分の将来に不安になってしまったんです。
今の仕事はもちろん楽しかったですが、このまま「魚屋の兄ちゃん」で終わりたくないと強烈に感じたんですよね。
そんな時に、職場の後輩のお兄さんが、海外との貿易をする仕事に携わっているという話を聞きました。
その話を聞いてから、なんとなく、海外と関わるのはおもしろそうだし、
海外に行けば何かあるかもしれないと漠然と感じるようになったんです。
そこで、なんとか海外に行く方法がないかと考え、たまたまオーストラリアでのワーキングホリデーの募集を見つけました。
英語もほとんど話せませんでしたが、とにかく行ってみれば何かできるだろうと思い、
好奇心が先行して、仕事を辞め、気づけば現地に向かっていました。
実際に現地に着いてからは、まずは現地のことを知ろうと、3ヶ月ほどオーストラリア中を回り、
その後、そろそろ働かなければならないと思い、現地の回転寿司のチェーン店に
飛び込みで雇ってくれと頼みました。
するとなんと、すぐに働かせてもらえることになったんです。
そして日本で真面目に磨いてきた技術のおかげで、お店の中でどんどん認められるようになり、
働き始めて2年目には、お店に立つだけではなく、
社長と一緒に店舗開発やマーケティングなど、会社全体の運営にも関わるようになっていったんです。
また、ちょうどオーストラリアで日本食ブームが起き始めていたので、
店舗数もどんどん増えていき、かなり会社の経営も順調でしたね。
日本でもう一度チャレンジしたい!
そんな調子で仕事が順調に進んでいった、26歳の時に、
メルボルンにオープンする新店の店長をやらないかと、かなりの好待遇で社長からお誘いを受けました。
願ってもない素晴らしい機会だったのですが、自分はこの状況に少し戸惑ってしまったんです。
オーストラリアに来てからというもの、全てがあまりにも上手く行き過ぎていて、
チャレンジをしている感覚が全くなく、ぬるま湯に浸かりきってしまっている自分がとても嫌だったんですよね。
また、仕事は順調でしたが、それは自分の力ではなく、
社長の手腕が発揮された結果でしかないとも思っていました。
そして、もう一度自分の力で勝負してみたいと考え、
社長からの提案を断り、日本に戻って勝負しようと決めたんです。
その後、27歳で日本に戻ると、自分は何でもできるような気がして、分野を限らずいろいろなことに挑戦しようとしました。
例えば、保険の外交員をしたり、通信会社の営業の仕事をしたりと、本当に様々でしたね。
しかし、どの仕事も失敗ばかりで、全く成績を上げられず、
自分がどんどん落ちぶれていく感覚があったんです。
そして、そのように悩みながら仕事をしていたある時、結婚していた妻との間に子供が生まれることがわかりました。
さすがにこのままの自分ではまずい、と悟りましたね。
そこで、もう一度自分の本職だった、飲食業の仕事で挑戦してみようと決意し、
大阪で、『笑とり』という居酒屋を、妻と二人で始めることにしたんです。
鯖寿司一つで、勝負していきたい
そして、実際にお店を始めて見ると、ただの居酒屋とは違い、
自分の技術を活かして、本格的な魚料理を提供していたからか、
かなり順調に人気が出始めたんですね。
特にその中でも、鯖寿司はとても好評で、多くのお客さんがわざわざ食べに来てくれるような人気メニューになりました。
すると、一緒にお店をやっていた妻に、
これだけ多くの人が鯖寿司をおいしいと言ってくれるのだから、
もっと多くの人に広めるためにも、鯖寿司だけでお店を出してみたらどうか、
と言われたんです。
最初は鯖だけで勝負するなんて難しいし、冗談のつもりで聞いていましたが、
徐々に、本当に鯖寿司一本で勝負できたらおもしろいのではないかと本気で考えるようになりました。
また、オーストラリアを離れ、日本に戻ってもう一度チャレンジをしようと思ったのと同じように、
何か自分にしかできないことで、どこまでチャレンジできるのかやってみたいと強く思ったんです。
そこで、鯖寿司を専門で販売する、株式会社鯖やを設立しました。
最初は、鯖寿司を売っているお店は関西に多くあり、すぐに受け入れてもらえなかったので、
まずは知って、食べてもらえなければ何も伝わらないと考え、
鯖寿司のデリバリー用バイク「サバイク」やテーマソング「サバばばーん」を作るなど、
広報活動を集中して2年間ほど続けました。
また、鯖についても、最高級の八戸前沖鯖のみを使用し、
更にその中でも脂質含量が21%以上ある「とろさば」を提供していました。
その結果、関西の大手の百貨店に誘致させてもらったり、関西の空港の空弁になったり、
メディアにも多く取り上げられ、お店の人気が出るようになったんです。
とろ鯖を全国、そして世界ブランドへ
その後は、会社の存続が厳しいと思われるような時もありましたが、
僕は必ず人々に鯖の魅力をわかってもらえると信じていたし、
応援者のいない会社は存続するべきではないとも思っていたので、
自分たちは、鯖の良さを知ってもらうことで、人々に応援される価値のある会社だと信じて、
会社を存続してきました。
そしてなんとか会社を存続し、関西でとろ鯖料理専門店の『SABAR』や百貨店などの鯖寿司販売店舗を含め、
5店舗を構えるまでになりました。
更に現在は、関東でのとろ鯖料理専門店初出店のために、
クラウドファンディングサイトで資金集めを実施することも挑戦しています。
今自分たちは、とろ鯖をまず知ってもらう第一段階、次に関西で広めるという第二段階、
そしてその次の第三段階である、自分たちのとろ鯖ブランドを全国、更に世界に向けて発信していくステージにいると思っています。
だから今後は、まずは日本で鯖のみを扱う会社として上場したいと思っています。
鯖という一つのものだけでここまでやれるんだ、ということを証明したいし、
ものづくりをする人たちへ、少しでも勇気を与えられるのではないかと思うんですよ。
現在とろ鯖料理専門店『SABAR』では、さばにちなんで38(さば)品出しているのですが、
店舗数も将来的には、38店舗にしたい、なんてことも考えています。
そんな風に、嘘のような本当の物語を作り続け、
常にチャレンジし、人々から応援される会社でありたいです。
そのために、これからも自分と鯖への挑戦は続いていきます。
2014.10.10