子どもが育っていく町を守りたい。移住した志賀高原で挑む、地方活性化への道。

長野県の志賀高原を拠点に、学生を巻き込んだ建築コンペや、コワーキングスペースの開設など、地方の課題解決に向けて精力的に活動する井戸さん。20年以上続けてきたラグビーの経験から、人の育て方や困難に立ち向かう姿勢を学んだと言います。移住を決断し、挑戦を続ける背景とは?お話を伺いました。

井戸 聞多

いど もんた|合同会社MOUNTAIN DISCOVERY共同創業者、株式会社Shinonome事業パートナー
東京工業大学大学院卒業後、富士ゼロックス株式会社にエンジニアとして入社。妻の実家がある志賀高原の地域課題解決を目指し、合同会社MOUNTAIN DISCOVERYの共同創業者に。2019年志賀高原に移住。株式会社Shinonomeで地方創生事業を担当する。強豪ラグビークラブ「神奈川タマリバクラブ」に15年所属。ラグビーで得た哲学を、仕事や子育てに活かして活動している。

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戦略を練って、勝つのが楽しい


東京都板橋区で生まれました。外で遊ぶのが好きな活発な性格で、口も達者だったので、みんなで遊ぶ時はいつも輪の中心にいましたね。

児童相談員として働いていた母は、できないことを叱るのではなく、いつもできることを伸ばして育ててくれました。「勉強しなさい」とは言われませんでしたが、負けず嫌いな僕を見て「私は100点取ったことあるよ」と、競争心を煽ってきましたね。まんまと乗せられて「俺だって取れる!」と勉強するようになりました。

母と取り決めをして、テストで高い点数を取ると、お小遣いをもらえる仕組みを作りました。ただし、与えられるハードルはどんどん上がっていって、最終的には平均95点くらい取れないと、お金はもらえなくなりました。そんな仕組みのお陰もあって、中学校の成績は学年でトップ5に入るくらい。常に上位をキープしていました。

スポーツも好きで、小学校ではサッカー、中学校では人気漫画の影響を受けてバスケットボールをやりました。ナンバー2的なポジションで、全体を見て動くのが得意なタイプでしたね。

高校に入り、部活をどうしようかと思っていたら、ラグビー部の人達から熱心な勧誘を受けたんです。「体験入部だけなら」とやってみたら、サッカーやバスケの感覚も活かせるのが分かって面白いと感じ、入部しました。

ポジションは、相手選手とスクラムを組むフォワードです。学校の規則で17時には帰らなければいけなかったので、それまで練習して、帰ってからも個人練習に励む毎日。高校3年生の春には、都内でベスト8に入る成績でした。

3年生では副キャプテンも務めました。チーム全体を見つつ、戦略を練る役割でしたね。自分達の持っているリソースで、最大限の力を出すにはどうすればいいかをずっと考えていました。相手を出し抜く戦略や練習方法を考えるのが好きだったんです。

努力し、結果を出す面白さにハマる


高校3年生になる頃、テレビでロボコンを見て、出てみたいなと思うようになりました。もともと、ラジコンを作ったり、技術の授業でラジオを作ったりするのが好きで。スイッチを入れて、自分の思い通りの結果を出せる仕組みが面白いと思ったんです。

ロボコンに出場できる学校を調べ、都内の工業大学を受験しようと決めました。ところが、そこはかなりレベルの高い学校。ラグビー部を続けながらどうやって勉強するか、3年生になる直前に作戦を立てました。

部活がある間は、1日2時間しか時間が取れないので、英語と数学をとにかくやる、と決めました。理科は部活引退後から詰め込めば間に合うと思ったので、後でやることに。理科を勉強していないので、3年生の秋まで、模試ではE判定でした。でも後で追いつく計画なので焦らず、部活を引退した後は1日12時間以上勉強して、無事に合格できました。

大学に入って、ますますラグビーにどっぷりハマりましたね。高校までは勉強にも力を入れて、好成績をキープしていましたが、大学からは勉強は単位を落とさない程度にやり、ラグビー中心の生活を送るようになりました。メンバーのレベルが高く「このメンバーで行けるところまで行きたい!」と考えるようになったんです。

ラグビーにそこまでハマった理由は、努力して力を付ける楽しみを見出したからでした。それぞれがちゃんと努力して、みんなで緊張感を持って、困難に立ち向かっていく。強い相手と戦うのが何より楽しかったですね。努力をちゃんとしていないと、試合を楽しめません。勝った負けたよりも、チームで力を合わせ、その力を発揮する瞬間を楽しんでいました。

大学ではロボットの研究をしていましたが、もう少し研究を続けたかったのと、勉強しながらラグビーを続けていけたらと、大学院進学を決めました。

幼少期の経験が、勝つためには大事


院の入学と同時にラグビークラブに所属しました。強い人達ばかりが集まったクラブで、体格のいい自分は、ボールを持って走るくらいはできましたが、それ以外のプレーは全く通用しませんでした。「鍛え直しだな」と燃えましたね。同じ土俵に上がるために何をすべきか考えて、1週間のメニューを決めていました。

強いチームで試合をする中で、「役に立つプレー」への見方も変わりました。それまでは、足が速い人、キックでボールを遠くへ飛ばせる人など、目立つプレーだけに注目していたんです。でも、ラグビーはボールをつないでいくスポーツ。ボールをつなぐプレーは、実は細部にたくさんあって、試合中ボールを一度も触らない人も、すごくチームに貢献していると分かりました。

入部して5年目には、キャプテンも務めました。その中で、勝負に勝てる人間とはどういう人なのかが、次第に分かるようになってきました。「勝負に勝てる人」とは、何度もチャレンジし、その結果を受けて、新しい試みを素早くやり続けられる人です。

僕はキャプテンという立場から、勝つ人間を育てようと試みました。しかし、いろいろと努力はしたものの、結局他人を育てるなんてできないと悟ったんです。勝負に勝てる素養を、他人が指導して身に付けさせるのは難しい。だからこそ、幼少期から育っていく過程で身に付ける必要があると思うようになりました。

大学院を卒業後は、院で研究してきた分野を活かせることから、大手プリンターメーカーへ、エンジニアとして就職しました。転勤がなく、ラグビーの活動を両立できるのも大きな決め手でしたね。仕事が終わってから、毎日3時間はトレーニングをして、週末は試合をするハードな生活でした。

親が挑戦する姿を子どもに見せる


就職して5年目の年に、子どもが生まれました。ラグビーの経験から、勝負に勝てる性質を身に付けられるかどうかは、親の責任が大きいと感じていたので、子どもには、学校では教えてくれないことを教えたいと思っていました。特に、本気で向き合いたいと思うものを見つけたら、どういう姿勢で挑むべきかについてです。

「感謝を口にすること」「自分が楽しいと思うことについて目標を立て、言葉にすること」「今やるべきことについて、目標から逆算して計画を立てること」。新入社員の教育で言いそうなことばかりですね(笑)。でも、真剣に伝え続けました。

妻の実家は、長野県の志賀高原でホテルを経営していて、幼少期からよく子どもをそこに預けていました。すると、いつの間にか子どもがスキーに夢中になったんです。小学校に入る頃にはスキー部の選手になって、親元を離れてスキーをするように。オリンピックに出ることも意識し始めました。

子どもが「オリンピックに出たい!」と言っているのに、本人の努力不足以外の要因で行かせてあげられないとしたら、親として恥ずかしい。努力さえすれば達成できる道を、ちゃんと作ってあげたいと思いました。

子どもは毎日頑張っていて、日々成長しています。だから親も、壁をぶち破って成長する姿を見せなければいけません。ちょうど実家のホテルを妻と兄弟世代が継承する話があり、子どもがスキーに打ち込める環境を整えるべく、仕事をフルリモートにして、志賀高原への移住を決意しました。

15年所属したラグビーのクラブチームは、移住する直前まで続け、全国大会の決勝を最後に、メンバーにやめることを伝えました。

生活の基盤を志賀高原へ移す


志賀高原は、すごく居心地のいい土地でした。奥さんと出会って以来、頻繁に訪れていたのもあって、この地が好きになりましたね。ただ、町はピーク時に比べると人口減少による少子高齢化などのよくある地域課題が少しずつ表面化してきており、観光客もピーク時に比べると減少しているという問題に直面していました。

子どもが育つのにいい環境を残すためにも、町が持続可能なものになる手助けがしたい。訪れてくれる人が少なくなってリフトが無くなったら困るし、リゾート地じゃなくなったら、観光業であるホテルにとっては大打撃です。解決のために自分にできることは何かを考えました。

自治体は、移住推進に力を入れていましたが、僕は移住以外の解決の手段として、町の人と外部の人の、情報の交流を生むことで自治体の活動に貢献ができるんじゃないかと思いました。

僕自身は町の外にもつながりがあり、自分にはない特別なスキルを持った人にもたくさん出会ってきました。だから、そういう人達が町に興味を持ってくれて、少し力を貸してくれたらと思ったんです。外部の人の情報や知識を借りる代わりに、町の人達は、その人に何かお返しをする。オンラインも活用して、そういう交流の場を作りたいと思いました。

まず、町に人を呼ぶために「MOUNTAIN DISCOVERY」という会社の起ち上げに関わりました。キャニオニングやマウンテンバイクなど、志賀高原の自然の中で遊べるアクティビティを提供する会社です。

ラグビーの経験から、作戦を立てて考えるのは得意だったので、戦略立案を担当。人が集まるようなアイデアの創造、事業拡大を目指しました。

子どもたちのための環境を守りたい


現在は、プリンターメーカーを退職し、MOUNTAIN DISCOVERYの戦略立案を担当するほか、学生が立ち上げたITベンチャー企業「株式会社Shinonome」の事業パートナーとして活動しています。

Shinonomeでは、学生を主体としたプログラムで地方活性に携わっています。例えば、空き家問題の解決に向けて、建築学部の学生がリノベーションのアイデアを出すコンペを行うなどです。

他にも、自治体と協業して、次世代の管理職となる人材を育成するワークショップを開催。町の若手社員が、首都圏の学生や企業と一緒にアイデアを出し、交流できる取り組みをしています。

今、力を入れているのは、志賀高原初となるコワーキングスペースの運営ですね。「仕事と遊びの距離をゼロにする」をテーマに、“リゾートテレワーク”という生き方を提案しています。

今後は、2年続いた自治体のワークショップの集大成として、自治体の計画作成に関わり、研修してきたことを実際に社会で活かせるような、新規事業アイデアを立案する予定です。これまでの経験から、特に子どもへの教育には力を入れたいですね。プログラミングなどの新しい領域で首都圏との格差が生まれないように、機材などのハード面とリテラシーなどのソフト面、両面からサポートできればと考えています。

活動をする上では、子どもの存在が励みになっています。子どもって育つじゃないですか?その横で、親が育ってなかったらダメだなと。親がちゃんと成長して、壁をぶち破っていく姿を見せることで、子どももそれができるように育ってほしいと思っています。親として、子どもに挑戦する姿を見せ続けたいですね。

環境の変化やチャンスが訪れた時に、素早く行動し実践し切るところが自分の強み。子ども達にとって住み心地のいい町を維持していくためにも、与えられた環境の中で、自分が今できることは何なのかを常に考え、実践し続けていたいです。

2020.07.02

インタビュー | 種石 光ライティング | 塩井 典子
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