「自分自給率」は幸福や安心を計る指標。 学びを通して、日本の食文化を残し続けたい。
「魚食の伝道師」などと呼ばれ、日本の食文化を残すために様々なチャレンジをしている佐藤さん。「誰が正しいかじゃなくて、何が正しいか」という人生の指標を軸に、独自の視点で動き続ける、その本質と目標とは。お話を伺います。
あだ名をコンプレックスから強みに
東京の下町に生まれました。父は経済界、母は日本文化や伝統に明るく、それぞれの分野で顔も広かったため、家族の会話から自然と多様な知識を学べました。
小学校から、大学までエスカレーター式の学校に入れてもらいました。いたずら好きで騒がしいタイプで、行動が猿っぽかったのと、たまに猿のモノマネなんかもしていたため、あだ名が「ゴリ」になりました。
中学に進学しても、小学生の時とメンバーはほとんど同じ。あだ名は「ゴリ」のままでした。ただ、純粋なあだ名というよりいじられる感じで呼ばれるようになって、少し嫌な思いもしました。サッカー部に入りましたが、自分より運動神経の良い友達がいっぱいいて、このまま続けてもレギュラーにはなれないなと感じました。初めて自分のポジショニングを意識するようになったんです。
高校に進学すると、部活はサッカーでなく、アイスホッケーを選びました。氷上のスポーツであれば経験者はほとんどいないし、努力次第で周りに勝てると思ったんです。この狙いは当たりで、無事にレギュラー入りできました。
そして、アイスホッケーで鍛えたことで身体が大きくなり、自分に自信を持てたことで、「ゴリ」と呼ばれることが気にならなくなりました。むしろ“おいしい”とさえ思って、自分で「ゴリ」と名乗るようになったんです。
大学へ進学しても、アイスホッケーを続けました。勉強はあまり好きでも得意でもなく、部活の他はバイトや遊びばかりしていましたね。
自分で生み出した100円の価値
将来やりたいことも見つからないまま就職活動のタイミングになりました。このときに唯一決めたのが、「親の力は絶対に借りない」ということです。親の力で小学校からエスカレーター式の学校に通わせてもらったおかげで、受験さえ一度もしたことがない自分。初めて「自分自身の力を試すときが来た」と思ったんです。
しかし、結果は惨敗。履歴書を出した企業からは1つも採用の連絡をもらえませんでした。それでも親に頼ることだけはしたくないと思い、バイト先の人に相談したら、「スーパーの鮮魚コーナーなら紹介できる」と言われたんです。魚を触ったことさえ、ほとんどありませんでしたが、まずは魚屋から始めようと面接を受け、就職しました。
働き出してすぐは、友人たちに就職先を聞かれても恥ずかしくて、「魚屋で働いている」と言えませんでした。でも1匹100円のアジを自分で捌いて、刺身として200円で売ったとき、「自分の力で100円という利益を生み出せた」という事実に感動したんです。仕事に自信が持てるようになりました。
確かに友人たちは大企業で、すごい額のお金を動かしているかもしれない。でも、それに比べて額は小さくても、「確実に自分の手で生み出したお金だ」と感じられることに、心から面白さを感じたんです。
この経験から、人と違う道へ進むことに対して、怖いと感じなくなりました。信念を持って、自分の役割をきちんと認識できていれば、OKだと思えるようになったんです。
誰が正しいかじゃなくて、何が正しいか
魚屋で働いて2年半。魚の扱いはもちろん、自分や友人たちとは違う背景を持つ人たちに囲まれたおかげで、「世の中にはいろいろな価値観がある」ということを学ばせてもらいました。
その一方で徐々に沸き起こったのが、「大学まで行かせてもらったのに、他のチャレンジをしなくて良いのか」という疑問でした。父は経済界を中心に多くのネットワークを持つ人でもあったので、それを受け継がないのは親不孝だとも考えるようになりました。
そこで、魚屋をやめて、もう一度大学院で学び直すことに。せっかくならば多様な価値観を学びたいと海外でMBAを取るべく猛勉強をし、無事にロサンゼルスの大学に合格しました。
大学院では、経営学を中心に勉強しました。授業以外でも、海外からの学生中心のクラブを立ち上げ、大学院の教授ではあったものの、すでに教壇を降りられてた経営学者のピーター・F・ドラッカー教授に連絡。再度教鞭を取っていただきました。彼は経営を中心に、生き方など様々な話をしてくださりました。中でも特に印象に残ったのが「誰が正しいかじゃなくて、何が正しいか」という言葉でした。
「誰が」を焦点にすると、責任を人に持たせられるので、正直、楽です。でも僕は、それは違うんじゃないかと、何となく思っていました。不器用でもいいから原理原則や本質を自分で考えながら生きていきたくて。それが、ドラッカー教授の言葉を聞いて腹落ちしたというか、自分にとっての明確な軸になったんです。
そこからは「何でこれをやっているのか」「何でこれを意識しているのか」「何でこれを食べているのか」など、全てを「何で」と深く考えられるようになりました。更に自分のことだけでなく、地域の食文化やまつりごと、野菜ひとつとっても、「人工栽培って何のためにやるんだっけ?」「なんで有機野菜とか無農薬野菜って言うんだっけ?」と、どんどん掘り下げるようになりました。
大学院の授業の中で、もう一つ好きになった言葉が「未計画の必然」です。言葉の通り、計画していないのに、神様か何かに導かれるように起こる必然のことを指します。人生にはいろいろなチャンスが思わぬときに現れますが、そもそもチャンスだと気付けるか、タイミングはどうか、勇気を持って掴めるかなど、チャンスをものにするにはいろいろな要素がありますよね。僕はこのチャンスを人生の大切なキーだと思っていて、積極的に手を伸ばすようにしています。
大学院では本当に多くを学びましたが、この2つの言葉、人生の指標を見つけられたことが特に大きな成果でした。
「自分自給率」という指標を持とう
大学院を卒業した後は、そのまま1年間、現地で働きました。その後、教育事業を行う日本の大手企業からオファーを受けて帰国。子ども向けにアウトドア教育プログラムの企画・運営を行う新規事業を担当しました。
そのプログラムは舞台がキャンプ場なので、農地など生産現場の近くで過ごす機会が多くなりました。そこで地域の方たちと話したり、風景を見る中で感じたのが、僕をはじめ都心に住む人達は、農地や自然について全然知らないということでした。
みんな農作物などを日常的に食べているけれど、生産現場とは実際に距離があるし、八百屋などの専門店がなくなっているから、情報を聞く機会も減っている。高度経済成長期に大量消費のための仕組みは整ったけれど、その裏で「キャベツなら、どこで作られたものも一律で、同じキャベツとして売られる」といったように、日本ならでは、地域ならではの個別性が失われ、固有の食文化が失われようとしていると感じたんです。
アメリカの大学に行き、外から日本を見つめた経験からも、「日本じゃないと」という強烈な個性がなくなったら、世界から見た日本の価値はどんどん落ちていくという感覚がありました。そして、日本の誇る重要な個性といえば、近年、無形文化遺産にも選ばれた和食、つまり「日本の食文化」です。「日本の食文化を残し続ける」。これが、僕の中の目標になりました。
そして「日本の食文化を残し続ける」ためには、地域毎の食材の個性・価値を高めることが必須です。こうして地域や一次産業の活性化を志すようになりました。
そんな頃に偶然、マルシェの運営会社から「出店しないですか?」という相談がきました。ちょうど関心を持っていた一次産業に「販売」という形で関われるし土曜日だけということだったので、マルシェに出店することにしました。
マルシェの出店者は、自分たちでつくった農作物を売る生産者の方ばかり。僕たちは生産者ではないので、「自分が本当に食べたいもの」を集めて売りました。
かなり異色でしたが、マルシェでの販売はとても楽しかったです。商品が売れ残ってしまった際は、生産者さんが作られているものと、彼らが作ってない我々の商品を交換するなどしました。
このとき、若手の農家さんと話す中で「自分自給率」という言葉を作りました。これは、自分が食べているものがどこから来ているのか、何でそれを選んでいるのかを、考え理解できている割合のことです。この米は○○さん、この肉は○○さんが育ててくれたもの、この魚は○○さんが獲ってくれたものだと、きちんと認識できることが大切なのです。
日本には「食糧自給率」が低いという課題がありますが、一般の人が意識するのは難しい。けれど、この「自分自給率」を上げれば、何となく安い輸入品を選ぶことが減り、巡り巡って、国内全体の食糧自給率を上げることにも繋がっていくと思います。
こうして「自分が本当に食べたいもの」を考え、生産者の方々と交流を持つことで、僕自身の食卓も充実しましたし、万が一、食糧危機が起きたときにも、付き合いの長い生産者さんはきっと自分たちを守ってくれるという安心感も生まれました。お金だけでは得られない、こうした幸福や安心の感じ方もあるのかと思うようになりましたね。
本質に迫ればやりたいことができる
2011年の1月、福島県で800年以上の歴史を持つ祭りを取り仕切る友人と、たまたま食事をしました。会うのは初めてでしたが意気投合し、3月14日にイベントを企画することになりました。その直前の3月11日に、東日本大震災が起こったのです。
神様が「震災のために会っておけ」と、導いてくれた気がしました。その友人を助けたくて、現地で必要なものを聞き、親をはじめ周囲と協力しながら、物資を集め続けました。気が付けば、物資の総量は54トンにもなり、知人の大きな倉庫を借りて、友人知人に手伝ってもらいながら、ひたすら仕分けと配送手続きに取り組みました。その物資は、被災地で友人が中心となり、祭りのコミュニティを活用して上手に分けてもらえたそうです。
本当は被災地に行きたい気持ちもあったのですが、家族の反対などがあり、最後まで叶いませんでした。しかし、関東から遠隔での支援は継続し、多くの方のお役にたてたと聞いています。どんな状況でも、他の人と違う方法でも、本質に迫ればやりたいことは達成できる。それを学べたことは、かえって良い経験にもなりました。
教育事業の企業には10年間勤め、そろそろ他のチャレンジがしたいと考えだした頃、知り合いから「フランスで日本の食文化を伝える仕事をしないか」と誘われ、退職しました。
渡仏してから、ビザの問題が出てきたり、僕自身が2人目の子どもを授かったりといろいろあって、フランスには結局2カ月しかいられませんでした。しかし、フランスの食文化について多くを学びましたし、外から日本の食文化を見つめ直す、良いきっかけにもなりましたね。
「教育」で日本の食文化に貢献したい
現在は、岩手や佐賀をはじめとした複数地域で、観光コンテンツ企画やPRといった地域経済の活性の仕事を、省庁や自治体と連携しながらやっています。
本業は直接的に「食」というわけではないのですが、副業として週1くらいのペースで魚屋と八百屋をやっています。自分が元々が魚屋だったことと、日本の魚食文化は世界にもっとPRできるはずだという想いから始めました。昼間は営業していない知り合いの居酒屋を間借りして、青森や大船渡、気仙沼、陸前高田、小田原、金沢、小浜など、僕が直接やり取りをしている全国の漁師たちから届く、いろいろな魚を販売しています。市場で見るような、ぴーん!と同じ魚が何十本も揃っている感じではありません。バラバラな魚がごちゃ混ぜになった状態がほとんど。僕も漁師も、お客さんも、そのごちゃ混ぜ感を楽しんでいます。
お店では、お客さんが「今日は何があります?」って聞いてくれます。そうしたら、「どんな風に食べます?」と聞き返すんです。「煮物」と言われたら、「これとこれがおすすめ」「実は○○と一緒に煮ると美味しい」「旬は○○」なんて、どんどん説明していくんです。
僕は、魚や野菜を売ることを含め、商売は「教育」だと思っています。こうしていろいろな食材や地域の特徴を伝えていくことが、お客さんの自分自給率を上げるためにも、地域活性のためにも、重要だと考えています。知ることが、全てのはじまりなんです。
魚は基本、お店でどんどん捌いていきます。そうしていると、近所の子どもたちも自然と遊びにくるようになる。魚を見て、学んでいくと、自然に食べてみたいと思うようになるんですよね。何なのか分からない魚を、いきなり「食べろ」と言われても、その気にはなりにくいですが、興味を持つと、自分で食べる気になってくれます。今後は子ども達向けに、「魚のお絵描き教室」なんかもやってみたいと思っています。
単に魚を売るのではなく、魚や地域のことを知ってもらえるよう、伝えることが大切。そういう意味で自分は「魚屋」というより、「魚食の伝道師」なんて呼ばれたりします。
僕は金儲けだけの事業には、あまり興味がありません。経済の発展だけが幸せの形ではないと思うからです。「誰がでなく何が」という言葉の通り、大事なのは誰かが言ったことを鵜呑みにするのではなく、何が正しいのかを自分で考え続けることです。これからも、不器用でもいいから自分の本質に向き合ってコツコツと問い続け、進み続けたいと思います。もちろん、チャンスには、どんどん手を伸ばしながら。
その先に、大きくないかもしれないけれど、きっと自分の叶えたい「日本の食文化を残し続ける」という未来が訪れると信じています。
2020.05.25