土地に根ざし、想いの込もった物こそアート。造り手・伝え手・楽しむ人をつなぐ発信を。

日本酒や日本ワインを中心に、日本ならではのものの造り手・伝え手・楽しむ人をつなぐ活動をするアサノさん。アートの道を目指しアメリカへ渡ったアサノさんが、現在の活動を始めた理由とは?お話を伺いました。

アサノ ノリエ

あさの のりえ|にほんのもの応援社 「和altz (わるつ)」 代表
にほんのもの応援社 「和altz (わるつ)」 代表。高校卒業後、ボストン美術館付属美術大学とボストン美術大学を卒業。帰国後、クラフトビール関係の業務をしながらワインに興味を持ち、ソムリエの資格を取得。日本を代表するソムリエが経営する店舗の店長として経験を積んだ。様々な飲食資格取得後、造り手との交流やイベントをしていく中で、地域の良いものと首都圏を結びたいと考え、2020年独立。

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おもてなしとものづくり


神奈川県横浜市で生まれました。年の離れた3姉妹の末っ子です。両親は家に人を呼ぶことが多く、その度に大量の料理を作ってもてなしていました。お酒を楽しむ大人を羨ましく思いながらも、お酒をお酌したり、おつまみを作っておもてなしするのが好きでした。絵を描くのも好きで、いろいろなものを描いて遊んでいました。とにかく何かを作るのが好きでしたね。

姉は二人とも、高校からアメリカへ留学していました。両親が女でも4年制大学に行って、英語を喋れるようになるべきだという教育方針だったからです。「教江」という名前も、両親が「人生において、教養や学びを大事にしてほしい」という思いでつけてくれたそうです。私も英語は勉強しなければいけないものだと考え、いずれはアメリカに行くんだろうと思っていました。

私自身は、絵が好きで国内の美大に進みたい気持ちがあり、高校は横浜の国際高校に進みました。アートの予備校に通う中で面白い先生に出会い、空間全体を作品として体験させる芸術作品、インスタレーションに興味を持つように。デジタルや映像と美術を掛け合わせた、新しい表現をしたいと考えました。放課後は油絵やデッサンに夢中で取り組み、週末は美術館巡りをする日々でした。とにかく現代美術に夢中で、夢いっぱいでしたね。

東京芸大を受験しましたが、結果は不合格。来年また受験しようと考えている時、姉から「日本じゃなくて、こっちの大学に来れば?」と言われたんです。日本とアメリカ、どちらでアートをしていくのか。人生で初めての大きな選択でした。考えた末、アメリカの美大は授業を自由に取れること、姉が帰国するので使っていた部屋をそのまま借りられることなどから、アメリカにいくことに決めたんです。ボストンの美大に入学しました。

旅することと食文化はアートなんだ


アメリカでのキャンパスライフは、想像通り自由でした。実技は全て自分の興味がある授業を選択できたので、日本から続けていた油絵だけでなく、紙作り、製本、版画、デザインだけでなく、彫刻やジュエリーメイキングなども挑戦しました。

ボストンは街の平均年齢が20代で、多くの大学のある学生都市。美大の周辺にもたくさんの大学があり、別の美大や音大の授業まで受講することができてとても刺激的でした。

長期休みには、他の国の美術館を巡る旅に出ました。旅のメインは美術館でしたが、それよりも道中での食事の方が楽しく感じられました。宗教や文化によって、国ごとに食べ物や飲み物が違うんですよね。たとえばドイツには、土地ごとの特徴あるビールや、ビアグラスがあるんです。

食文化や飲料は土地に伝わるおとぎ話や文化や風習とリンクしていて、つながりを知るとすごく面白いんですよ。すると食文化もアートなんじゃないか、という想いが強くなりました。食文化は、生産者、仲介者、消費者それぞれの想いを繋いで作られる芸術作品。この旅においての食や人々の出会いは、大きく印象に残りました。

美術大学では4年間のプログラムを3年で卒業し、5年目のプログラムを4年目に終了できました。幸いにもう一つの美大に特待生として編入し卒業。さらに1年間は現地で働くことにしました。アメリカでは卒業後1年間専門分野での就労ビザを申請できるんです。美術館の仕事を2つ掛け持ちしながら、夜は寿司屋でアルバイトしました。掛け持ちすることは一つに集中するよりもストレスなく働けるし、何よりもより多くの人との出会いがあり、自分には向いているのかもしれないと感じましたね。

仕事は楽しかったので、もうしばらくアメリカで働くつもりでした。しかし、ビザが降りず、翌年帰国することに。ちょうどアメリカで同時多発テロが起きた後で、外国人の滞在は厳しく規制されていたんです。

日本では美術館か画廊で働きたいと思っていました。しかし、体調面への不安があってしばらくは就職が難しそうだったため、実家に戻り、近くのインターナショナルスクールで絵を教えて緩やかに過ごしました。

また、約1カ月ほど単身バックパッカーとしてオーストラリアへ渡り、美術館やワイナリー巡りをしたり、テントを張って砂漠や熱帯雨林を回ったりもしました。海外が恋しくて、帰国して何をやりたいかわからない状態でした。

ビールからワインへ。生産者との出会い


そんな中、親族から職業訓練を勧められました。調べると、コーヒーや紅茶の勉強ができるコースがあり、参加してみることに。行ってみたら、勉強するのがすごく楽しかったんです。もともと料理も好きで食文化にも興味があったので、合っていたのかもしれません。美術館や画廊ではなく、飲食の道もありかもしれないと考え始めました。考えるうちにドイツでビールが好きだったこと思い出し、輸入から飲食店経営までしている会社の飲食部門のホールとして勤務しました。

2年半ほど働いた頃、地元のクラフトビールのお店を運営する知人から声をかけられ、転職しました。そこは、ヨーロッパだけではなく、日本のクラフトビールにも力を入れている個人店。自分で企画してイベントをしたり、いろいろな場所に出張したりと、活動の幅が広がりましたね。出張に行き、ビールを作っている人の話を聞くのが面白かったです。

お店は夜だけの営業だったので、昼間は時間がありました。将来のことを考えると、ちゃんとしたサービスを勉強して飲食業界でやっていきたいと思いました。そこで、サービスのプロである「ソムリエ」の資格取得を目指して、勉強を始めたんです。ワインスクールに通う傍ら、自分でワイナリーを巡るようになりました。

すると、ワイン自体が面白くなってきたんです。ビールは、クラフトビールといっても原料の麦芽やホップはほとんど輸入しているので、ビールの特徴を作るのはその土地の水と造り手なんですよね。でも、日本ワインは国内で栽培されたぶどうを100%使用して国内で醸造されたワイン。ワインを知ろうとすると、栽培者がどうやってブドウを作っているか、造り手にどんな苦労や喜びがあるのか、その部分から知ることになるんです。

すっかりワインに魅せられ、32歳のときにソムリエの資格を取得すると、本格的にワインの仕事をしたいと思うように。クラフトビールの仕事を辞め、東京に引っ越し、有名ソムリエの店に勤務することができました。その後店長を任され、取引先である山梨県のワイナリーや農家へ行くことが増えました。その土地ごとにストーリーがあって、すごく面白かったですね。ブドウの栽培者やワイナリーの方々から、祖父の代から受け継いだ土地や設備を大事に使い、家族で代々運営してきた話を聞くと、ワイン1本が特別なものに思えました。お話を聴きながら現地で飲むと、東京で飲むよりも、格別の味わいに感じられるんです。生産者だけでなく時には行政担当者とコミュニケーションをしながら、ワインや食材、現地の文化を広めていくことにやりがいを感じるようになりました。

にほんのものに目覚める


就職した店のオーナーである有名ソムリエは、「ソムリエとはサービスのプロだから、ワインだけでなく国酒である日本の酒のことも知っていなければいけない」という考えでした。新しい日本酒と焼酎の資格を作り、取得を推奨していたため、私も勉強を始めました。正直、仕方なくという感じでしたね。

しかし、勉強を始めると、その奥深さに魅了されたんです。特に日本酒はビールやワインに比べて工程が複雑で、何百年も前から続いてきた歴史がありました。酒蔵を訪れると、ある種の神聖さすらあって。お正月などの四季の行事から、結婚や出産などの慶事、亡くなった人の供養まで、日本人が生まれた時から死ぬ時まで関わりのある、深い歴史を持つ酒だと感じました。日本人として、これは勉強しなければいけないなと。海外に長く住んでいたからこそ、より強く思いました。

飲料を勉強する中で生産地である地方を周り、その良さを感じていました。ただ、実際に行かないことにはそれを伝えるのは難しい。地方にもっと人を呼べる仕組みを作れればと思ったんです。ちょうどツーリズムという言葉が出てきたところで、旅行好きだったこともあって観光を学んでみようと思いました。

その頃年齢は30代後半にさしかかっていて、立ち仕事が多い飲食店の仕事をいつまでも続けるのは難しいと感じるようになり一度キャリアを見直し、もう一度これから何をしたいか考えてみました。そこで、思い切ってソムリエを辞め、観光の職業訓練校に通うことに。添乗員の資格取得を目指しました。添乗員の仕事とこれまでの経験を組み合わせて、お酒をフックに地方と東京をつなぐ仕組みができないかと思ったんです。学校に通いながら、日本酒の様々な上位資格も取得したり、コンクールにも挑戦しました。各地の酒蔵を巡る中で日本酒が好きな仲間もでき、様々な方に声をかけられるようになりました。

卒業後は、日本酒関係の大規模なイベントやプロモーションなどの業務に携わることができました。しかし、父の介護などの問題もあり、一大決心をして地元の横浜に戻ることにしたんです。20代はアメリカで過ごし、30代はとにかくがむしゃらに都内で仕事と資格勉強の毎日でした。ちょうど2020年で40歳。人生折り返しとも言われる歳ですが、これからは家族や自分自身を思い、地元の良さや日本の良さを存分に楽しめる余裕も欲しいなと思ったのです。独立と共に働き方を変えようと決めました。

「にほんのもの」の良さをつなげる


現在は、にほんのもの応援社 「和altz (わるつ)」の代表として活動しています。テーマは、日本ならではのものの造り手・伝え手・楽しむ人を「ご縁の輪」と共につなぐこと。「造り手」の支援、「伝え手」の教育、 「楽しむ人」の普及です。
「造り手」の元へ行って得たストーリーや知識を、飲食店や流通業者などの「伝え手」に正しく伝え、飲食を「楽しむ人」にも知ってもらえるようにしたいと考えています。

生産者と直にプロモーションをすることもありますし、飲み物や料理のストーリーまで説明できるように、飲食店の従業員向けに教育やコンサルティングをすることも。添乗員の資格を生かして、日本酒の酒蔵へのツアー、インバウンドを対象にした町歩きツアーやイベントなどを企画・運営することもあります。現在は地方の民宿の事業から日本酒の映画のプロモーション、地域の活性化プロジェクトまで携わっています。飲料の資格をかなりたくさん所有しているので、講師として、伝え、教え、一緒に楽しめたら嬉しいですね。

「旅をすることは文化を学ぶこと」。これまでの旅の中や人々との交流の中でそう感じたように、私は食文化が生産者、仲介者、消費者それぞれの想いを繋いで作られるアートだと考えています。自身の活動を通して、造り手・伝え手・楽しむ人の3つの輪をつなぎ、3者がうまく共存し向上していける、ワルツのような心地よいリズムを作れればと思っています。今後も、日本の様々な土地に根ざし、想いの詰まったアートの魅力を伝え続けていきたいですね。そしていずれは、自分でもアートを生み出す仕事ができたらいいなと思っています。

2020.05.07

インタビュー・ライティング | 粟村 千愛
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