人との繋がりが旅を楽しくさせる。 繋いだご縁から見えてきた旅館のあり方。

長崎県の五島列島、新上五島町で旅館を営む道津さん。小さい頃から旅館の娘として育ちながら、将来は絶対に継ぎたくないと考えていたそうです。一度は島外に出た道津さんが島に戻り、旅館を継ぐに至った背景にはどんな思いがあったのか、お話を伺いました。

道津 和子

どうつ かずこ|旅館の女将
長崎県五島列島の新上五島町にある前田旅館の女将を務める。

家族団欒がない旅館から離れたい


長崎県五島列島の北東部、新上五島町で生まれました。実家は70年くらい続く、古い木造の旅館です。9部屋だけの小さな旅館でしたが、私は一人娘だったので田舎のお嬢様という感じだったかもしれません。旅館の娘として恥ずかしくないように、浴衣の畳み方やお茶の出し方など教えられました。他にも、お茶やお華、日舞やピアノや習字など、お稽古事をたくさんさせてもらいました。中でも特にピアノが大好きでしたね。買ってもらった時は嬉しくて、将来はピアノの先生になりたかったです。

小さい頃から祖父母や母から「旅館を継がないといけない」と言われていて、それがすごく嫌でしたね。絶対するものかと思いました。旅館は家庭というものがないんですね。それが一番嫌でした。母が女将で、おばが料理長なので、家内で旅館をしていると、ご飯の時間はお客様のご飯の時間と重なります。調理場でみんなが仕事をしているすみで食事をする。家族団らんの時間がなかったことが辛かったです。面と向かって集まって話すということはなかったですね。正直旅館業が好きじゃなかったです。父も洋服屋さんをしていて、商売人の家で育ったので、余計家庭の時間が少なかったですね。親が参観日に来てくれるということもなく、すごく寂しかったです。

両親の仕事が忙しかったので、小学生の頃は、隣近所にいるすごく仲の良いお友達の家で、一週間に2回くらい夕ご飯をご馳走になっていました。ご両親がサラリーマンの家庭だから、夕ご飯の時間には家族みんな揃っていて、そこに私も入れてもらって。それがすごく心地良かったです。私もそんなふうにしたかったんです。だから旅館は嫌だなって。

中学までは浴衣を畳むなどお手伝いもしていましたが、高校に入ったら勉強や部活で忙しいということで、旅館の手伝いを一切しなくなりました。旅館から逃げていたというか、してなるものかという感じです。実際、部活に結構はまっちゃって。ブラスバンド部で、サックスにのめりこんでいました。音楽が好きだったんです。高校生活は楽しかったですね。

高校卒業後は外に出よう、この島を出ていこうって決めていました。私は女将にならないぞ、旅館を継がないぞって心の中に決めて、どうすれば出ていけるか考えていました。何がしたいとかはなかったんですけど、とにかくこの島を出て旅館から離れたい。それが素直な気持ちでした。

本当は福岡に出て、4年制の大学に行きたかったんですが、親から許されたのは、2年間・長崎県内までという条件でした。一人娘だったからか、父が厳しかったんです。それで、とにかく島を出られるならどこでも良い、その先はその先で考えれば良いやという感じで、長崎市内の短期大学に決めました。とにかく逃げることしか頭になかったので、行きたい学部もなかったです。手が小さいので、ピアノの先生も無理だと思って断念しました。まぁ何でも良いやっていう感じで家政学部にしました。

長崎で知った自由


長崎市内での生活は楽しかったですね。寮生活でしたけど、親の目を気にせず自由にできるので。あと、お友達がいろいろなところから来ているので、地域性の違いをすごく感じられて、私は井の中の蛙なんだな、何も知らなかったんだって思いました。島よりももっと都会、福岡とか東京とかに目が行きましたね。

短大の2年間は好きに遊ぼうと思って、最初の半年は、島になかった映画を観たり、友達とバスであちこち行ったりしました。他に何を楽しもうかと思った時に、やっぱり音楽が好きだったので、残りの一年半、音楽教室にエレクトーンを習いに行きました。ピアノをしていた経験から、楽器は毎日練習しなきゃいけないって思ってたんです。学校にエレクトーンがあって自由に弾けたから、これなら練習できるじゃんって。ピアノじゃなくて電子オルガンでも良いかなって。それで結構はまっちゃって。すごく楽しかったですね。

短大の卒業後は、通っていた音楽教室でたまたま事務系の仕事の募集があったので、そのまま就職しようと思いました。事務の仕事をしながら、教室にも通って資格をとり、エレクトーンの先生になろうかなと。とにかく、長崎市に残ろうと思ってましたね。島には帰るまいと。ここならなにか未知の世界があるんじゃないか、長崎にいるともっと別のものが見えるよねって。親にはギリギリまで言わずに就職を決めました。

就職先を決めて、家を決めようかなっていうタイミングで、親から連絡がありました。島に帰ってこいと。短大卒業直前の1月・2月のことです。本当は長崎に残りたかったんですけど、家を借りるお金がなかったんですよね。母には出せないって言われました。そこでひっかかったんですね。母のお友達のところまでお金の工面を頼みに行ったけど「やめとかんね」って言われて。母からは「私の友達に迷惑かけんで。人に迷惑をかけてまで、自分のものを貫いたらいけない。我は通すな。」と怒られました。仕方がないかと断念して、島に帰ることに決めました。

島に戻ってからは、上五島病院で受付事務として働きました。仕事は大変でしたけど、楽しかったですよ。親からは、島に帰ってこいと言われるだけで、旅館を継げとは言われなかったので、自由に暮らしてました。自分でお給料をもらうから、行こうと思えば長崎も遊びに行けるじゃないですか。月に一度は仕事が終わってから船に乗って遊びに行ったり、自動車の免許もとったり。

それから、島に帰ってきてから知り合った人と結婚しました。子どももすぐにできたので、子育てに専念して。旅館が忙しい時には手伝っていましたが、普段は自由に暮らしていました。父も母も旅館を継いでほしいという気持ちはあったんでしょうけど、口に出しては言いませんでした。私が嫌だというオーラを出していたからかもしれませんけど。それはありがたかったですね。

父の想いを継ぐという決断


私が31歳の時、父が病気で亡くなりました。そこから自分の中で気持ちが一変しました。

それまで、旅館のお手伝いはしていましたけど、自分が後を継ぐなんて考えたことがなかったんです。ところが父が亡くなった時、好きとか嫌いとかの気持ちの前に、「私はここで育ったんだな、すごく大事にされて、大きくなったんだな」って、ふっと思いました。父は本当に厳しかったけど、今思うと、私のしたいことは全部させてくれたような気がして。ピアノもエレクトーンも好きにさせてくれたし、私がバイトをしてなかったから父がお月謝出してくれたわけですよね。当時は縛られてると思ってたんですけど、父が亡くなった後にすごく守られてたんだと感じて。父が一生懸命やっていた旅館があったからこそ、私が好きにできたんじゃないかって。

他にも、私が旅館に入らないと母がきついんだろうなという思いもあって、最終的に旅館に入ることを決めました。

旅館に入った当初は失敗もありました。例えば一時期、他の方に経営を委ねてしまったんですよね。それまで、母が女将で、おばが料理長で、父が総合経営で、従兄弟が接客係という、家内業の旅館だったんですね。それで上手くまわっていたんです。でも父が亡くなった後、兄弟みたいに仲の良かった知人夫婦に頼っちゃったんです。東京から来てもらったんですよ。その中に私も中途半端な形で入っちゃって。それで、今まで家内でやってきたものが上手くまわらなくなっちゃって、来ていただいた方も東京に帰ることになりました。

そういう失敗をして、人を頼っちゃいけない、自分でやらなきゃいけないということに初めて気づきました。そこから私の旅館への取り組み方が変わりました。おばに料理を習い、母に付いて見よう見まねで接客しました。43歳の時、旅館業の女将としてのスタートという気持ちでした。旅館を個人経営から会社にし、母の手を離れ、全て私がやることになりました。女将が全てをする旅館っていう感じですね。フル回転です。あんなに嫌いだったのに、いつしかどっぷり入ってしまっていました。

旅館に入った頃は、私は旅館をわかってるし、できるんだと思っていました。旅館に生まれ育って、旅館を見てきたので。それでも、実際に旅館を生業にするとなると全然違うってことに気づいたんです。お客様を受け入れるっていうことがどれだけ大変なことなのかって。おもてなしっていうのは想像より遥かに難しいですよね。無理難題を言われた時に臨機応変に返すことができなかったんです。相手が嫌な思いをせずにお断りするとか。若かったし、場数を踏んでなかった。見ていてできるものでもなかった。それを自分は勉強しなきゃいけないと肌で感じました。何でもできると思って入ったのに、意外と自分は何もできない、未熟だなっていうのをすごく感じました。

島外で見えてきた旅館のあり方


旅館経営で悩んでいた頃、知人に勉強会に誘われました。島を観光で盛り上げるコーディネーターのコースとか、ガイドや商品開発のコースとか、旅館の役に立つとは思わなかったんですけど、ちょっと覗いてみようかなって。そこで体験したワークショップがすごく斬新でした。勉強したいと思って来る方だから意識が高くてポジティブで会話が弾むし、文を書いたり発表したり、普段旅館でやっているコミュニケーションとは違って。そこで上手くコミュニケーションをとれたことが、旅館で何もできないと感じていた私の自信に繋がりました。

島の外の勉強会にも行くようになって、旅館のあり方を考えるようになりました。島内の勉強会で知り合った先生方が、いろんな方をお客様として連れてきてくださって、そのお客様が島外の勉強会に誘ってくださったんです。楽しくて、九州各地にお友達もできて、いろんな情報も入ってきますよね。それで井の中の蛙だったな、旅館のあり方をどうしていこうかと考えるようになって。旅館の方向性が少しできてきたのがここ1年くらいでしょうか。

旅館業って、人が来て宿泊して帰る、そういうものだと小さい時から身についてたんです。でも勉強会に参加してみて、旅館って単に泊まれるだけじゃなくて、その中で楽しい時間、空間をつくるのがいかに大事なのかなって気づいたんです。だから今は、お客様がおみえになったら体調はどうかなど顔色を見ます。船で具合が悪くなったらマイナスからのスタートですから。具合が悪かったらご飯を変えていかなきゃいけない。臨機応変にできるのが小さな旅館の強みでしょ。まずゼロにして、帰るまでにプラスにして、「ほっとしたよ、ありがとう」って言って帰ってもらえば良いのかなって。そういう旅館でありたいなって思い始めました。

木造の古い旅館ですけど、そのままそれを残しているのもありかなと思っています。田舎の旅館が都会みたいなことをしなくても良い、田舎の旅館に泊まりたいっていうお客様はきっといるよねって。人と繋がって話したかったり、ぼーっとしたかったり。田舎料理にはこういう経緯があるとか、行事食にはこういう意味があるとか、観光神楽じゃなくてお祭りの時に来ていただいて、一緒に参加した後に地域の人が集まる直会(なおらい)会っていうお食事会にも参加して、地域の人と飲み会をするとか。ここに来たら、土地の物を食べて、お話を聞いて、上五島に来たあなただけにしかわからないコアな旅をお客様にご提供していきたい。それが大事なんだって、外に行ったから気づいたというか。旅館でできること、私ができることってそういうことなのかなって。人との繋がりが旅を楽しくさせることにも気づかされて。人を繋げていって、本当にその人だけの旅を作れる、そんな旅のあり方が今は求められてるんじゃないかなって。

人との繋がりを大事にしていきたい


島の外の勉強会で初めて、客観的に五島を見たことも大きな気づきでした。島の見方が変わりましたよね。島ってみんな似てると思うんですね。閉鎖的で、保守的なところもあるけど、自分たちで自立して生活しなきゃいけないっていう知恵はどこの島も持っている。人の温かさもどこでもあるし、生活自体もそう変わらないと思うんですね。

じゃあ新上五島町の、他の島と違うところは何なんだろうって考えた時、それは「お互い様の気持ち」かなと。新上五島町には29のキリスト教の教会が残ってるんですね。そのうちひとつが世界遺産になりました。キリスト教の島なのかって言われるんですけど違うんですよね。神社仏閣も数多く残っていて1000年を過ぎた神社もあり、遣隋使・遣唐使が降り立った場所とか、平家塚とか、弘法大師が通ったという歴史もある。弘法大師のお接待は毎年やっています。カトリックの方も仏教徒も、いろいろな宗教が共存共栄していて、お互い様っていう心を持ってきたというのが、他の島と違うところなんだって思うんです。これだけ今でも融合して、仲良く暮らせてる島って私はそんなにないと思うんですね。あるお客様から頂いた言葉ですが、「宗教戦争がある中で、これだけの教会が残って、これだけみんなで暮らしてる島って良いよね。」って。その言葉はすごく嬉しかったんです。お互い様の気持ちはどこの島にも負けていない、一番の上五島の魅力だと思っています。

今、私が旅館をやっている根本にあるのは、父への感謝ですね。あんなに旅館という仕事が嫌いだったのに、父が亡くなった時にふっとここで育ったんだよなっていう想いが強くて。それが根本にあって、そしてお客様に楽しんでいただこうという想いも強くなっています。

途中で辞めてしまおうと思ったこともありました。主人も自分の会社があって、それぞれ自分の仕事をやっているので。放ったらかしなんですよ。それはすごく申し訳ないと思います。主人が何も言わず、主人の協力があるから旅館ができるわけなので。それを考えた時に、このまま続けて良いんだろうかって思ったこともありました。

でもそういう時に不思議と、今まで繋いでいったお客様から連絡が入るんです。口コミで良かったよって言ってくださるお客様がいるわけですよね。お手紙を頂いたりするじゃないですか。頑張ってね、旅館なくさないでねって。そういうお手紙を頂くと「あ、これ頑張らないけんな。」って。お客様からのお手紙とかお年賀状とか、もうそれだけで十分ありがたいですよね。旅館をやってみたからこそできた私の財産です。

私自身がしんどかったので、子どもたちには旅館を継いでほしいとは思ってなかったんですけどね。息子は周りから旅館を継がなきゃいけないって言われてたみたいで、それが自分と重なってかわいそうで。商売を繋いでいくって難しいと思います。今、息子は島に帰ってきています。令和元年の12月から、「結 まえだ」という居酒屋を始めました。若いから、いろいろ経験して良いと思っています。

これからは、パン教室、郷土料理教室など、体験もやりたいなと思っています。今の旅館に使っていた古民家風の旅館を、昭和の雰囲気が漂うゲストハウスとして再生させました。地域の方々も観光客の方々も、みんな一緒にコミュニティを持てるような場所を増やしたいと思っています。人と人との繋がりは大切にしたいですし、良き出会いやご縁ができることを願っています。

2020.04.03

インタビュー・ライティング | 新條 隼人
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