10代のワクワクを、抱えたまま大人になれ。 自己肯定感上げまくり「面白い大人」を増やす。

ベーシストから放送作家へ転身し、現在は教育事業などを行う合同会社TEENAGE EMOTIONの代表を務める木村さん。高卒でキャリアもないとコンプレックスを抱いていた木村さんが、自分を認められたきっかけとは?そして、これから先に目指すものとは。お話を伺いました。

木村 公洋

きむら きみひろ|合同会社TEENAGE EMOTION代表
合同会社TEENAGE EMOTION代表。放送作家。高校卒業後、ベーシストとしてプロを目指していたが、26歳のとき就職を決意。NSC東京の作家コースを卒業し、報道・情報番組を担当した。2019年に独立。

極めている人がかっこいい


北海道北見市で生まれました。3人兄妹の長男です。父の仕事の関係で、幼い頃は道内を転々として過ごしました。6歳の時、父が仕事をやめ、家族で東京へ行くことに。父は新聞販売店をやって独立しようと考えていたようで、そのための修行として、都内の新聞販売店に住み込みで働くことになったんですよ。

お店には僕ら家族以外にも住み込んでいる人がいたし、新聞配達をするいろいろな人が出入りしていました。おじさんに、授業料免除の代わりに働いている新聞奨学生。いつもいろいろな大人に囲まれていたので、人見知りすることはありませんでしたね。性格も明るかったので、新しい住処にも小学校にも割とすぐに順応しました。

中学生になるのを前に父が独立し、自分の店を持ちました。中学生になってハマったのはお笑いです。ダウンタウン、ウッチャンナンチャン、とんねるず…多くのお笑い芸人が出てきた時期で、友達と誰が面白いか議論していましたね。お笑いを極限まで極めている姿がかっこよくて、番組を録画して、テープが擦り切れるくらい何度も何度も見返しました。

独立した店の状況がよくなかったらしく、私立高校に行く選択肢はありませんでした。公立1本で受験し、家の近くの高校へ進学。しかし、進学して間も無く店の経営が立ち行かなくなり、父は別の新聞販売店で働くことに。しばらくは店から電車と自転車を使って高校に通っていたのですが、より遠くの店にまた移ることになり、通学がかなり難しくなって。思い切って、高校3年生になるタイミングで、自転車で15分くらいの所にアパートを借りてもらい、一人暮らしをすることにしました。不安もあったけど、嬉しかったですね。一人暮らししている友達は周りにいなかったから珍しがられたし、どこか優越感もありました。

ベーシストの夢を諦める


高校では、入学してすぐにクラスメートがバンドメンバーを募集していました。同じ中学からこの高校に来た同級生は誰もいなかったので、友達作りのために、空いていたポジションのベースに立候補しました。親に頼み込んで、「すぐにやめるなよ」と念を押されながらベースを買ってもらって。すぐに大人気ロックバンドのコピーを始めると、面白くて熱心に練習するようになりました。

高校には軽音楽部がなかったので、公民館やスタジオで練習して一駅先のライブハウスで対バン形式でライブする日々。目立ちたいという気持ちもありましたが、ボーカルやギタリストのように前に出て表現したいわけではなくて、その後ろで弾くことに喜びを感じていましたね。支えてるぜ!みたいな。輝いている人をサポートする裏方の役割が、性に合っていたんです。

進路を考える時期になっても、バンドとバイトの毎日でした。三者面談で「大学か専門学校、どっちに進むんだ」という話になったのですが、親には「お金がない」と言われて。まだ18歳、就職するのは早すぎると感じました。遊びたいし、卒業してもバイトで生活費は稼げる。だったらこのままバンドを続けようと思ったんです。そこで、先生には「縁故で就職先を決めたので大丈夫です」とごまかして、そのまま卒業しました。

卒業後はプロを目指して、いろいろなバンドを転々としました。ベースがいないバンドの助っ人に入ったり、そのバンドで路上ライブをしたり。腕を磨いていればプロになれるんじゃないかと思っていたんです。しかし、散々渡り歩いて組んだのは、音楽業界で仕事をしたり、会社で管理職として働いたりして趣味で演奏している人たちとのバンドでした。みんなうまいし面白かったけれど、デビュー云々の話ではないなと思いましたね。練習はしたけれど、腕もそこまでのものじゃない。ベーシストを仕事にできると考えるのは、もうやめようと決めました。26歳のときでした。

ベーシストから放送作家への転身


生まれて初めて就活をしてみようと、ウェブサイトを見始めました。すぐに、やばいなと思いましたね。高卒で、きちんと就職した経験もなくて、運転免許すら持っていない。何もスキルのない奴にできる、いわゆる普通の仕事なんてありませんでした。

どうしようと思ったとき、思い出したのが「放送作家」だったんです。世の中は放送作家ブーム。中学生の頃から、ダウンタウンの幼なじみの放送作家を知っていて、尊敬していたこともあり、やってみたいと思いました。どうやったらなれるのかとネットで調べてみると、お笑い芸人を抱える大手芸能事務所の養成所に放送作家コースがあって、生徒を募集しているのを見つけたんです。これだと思い、すぐに願書を取り寄せ出願しました。貯金がほとんどなかったので、親に頼み込んで学費を出してもらい、無事入学することができました。

作家コースの同期は40人ほど。高校を卒業して間もない女の子もいれば、大学生や40過ぎの女性もいました。でもみんな、お笑いのセンスがある人ばかり。自分はお笑いが好きだと思っていたけれど、もっとお笑いが好きな人、発想力のある人がたくさんいて、どうやったらこんな風になれるんだろうと試行錯誤しながら1年間が経ちました。

あっという間に卒業の時期がきて進路に悩む中、放送作家を抱える芸能事務所が募集を出しているのを見つけて応募しました。3か月ほどの試用期間を経て、お笑い番組のネタ出しの仕事をもらえたんです。ネットの掲示板にある嘘か本当かわからないような情報を見つけて、面白くクイズに仕立てる仕事です。企画会議に参加するために、初めてテレビ局に行きました。演出家がいて、僕のような新人放送作家がたくさんいて、ネタを出していく。テレビ局でテレビマンに囲まれて仕事できるのが、超ドキドキして楽しかったですね。

しばらくネタ出しの仕事を続けましたが、ネタの採用率が高くなかったのか、最終的には首を切られました。どうしようかと思っていると、事務所からテレビ局の報道の仕事を紹介されたんです。「ニュース原稿をインターネット用に編集して公開する仕事で、週5日通わないといけない。その分、ギャラははずむけど、やる?」と。お笑いには関係ありませんでしたが、すぐにやると決めました。バイトより、テレビ局で働いている自分の方が絶対にいい。テレビ局で働けることが嬉しくてしょうがなかったんです。

入ってみると、ビジネスマナーをイチから叩きこまれました。メールの書き方も知らないし、ニュースの知識も乏しかったので、、半年間はずっと研修。すごく辛かったですが頑張って全て覚え、首を切られるギリギリで独り立ちできました。

ただ、仕事がこなせるようになっても、ニュース原稿の編集作業が主で、台本や企画書を書けるわけではありません。悶々としました。「放送作家って名乗ってるけど、全然放送作家の仕事してなくない?」って。学校の同期の中には、何本も担当番組を抱える人もいました。その人と喧嘩したとき「お前、作家っぽいことなんてしてないじゃねーかよ!」と言われて。悔しくて、でも週5日テレビ局で働いているスケジュール上、担当できる番組は限られている。事務所に相談しても、なかなか状況は変わりません。年齢は30代後半にさしかかっていました。八方塞がりな感じがあり、どうしたらいいかわかりませんでした。

自分の人生は面白かったんだ


モヤモヤしながら働き続け、10年目になったころ、外部からいろいろなゲストを呼んで作る、インターネット視聴対応型ニュース番組の担当になりました。そこで初めて、放送作家として案出しをさせてもらえるようになったんです。意見を出して面白いと言ってもらえて、ようやく放送作家になれた感じがしましたね。初めて堂々と、放送作家と名乗れる環境になったと思いました。

そして、番組のゲストの人たちに、毎回刺激をもらいました。これまで出会ってきた人たちよりも、明るくてポジティブ。こんなに愚直に、熱量を持って仕事に取り組んでいる人がいるのか、と驚きました。そんなゲストの方々と番組後にスタッフを交えてご飯に行く時、徐々に自分のことを話すように。ある日、飲み会に呼んでもらって自己紹介をしたら、すごく驚かれたんです。「何それ?木村さん面白いですね」と。

それまで、売れている作家と自分のことを比べて鬱々としていました。こんな自分の人生なんて、と思っていたんです。でも、面白い人に自分のことを面白いと言ってもらえたことが、すごく嬉しくて。いろいろな人に自分のことを話すと、同じように面白がってくれて、それが自信になりました。自分の人生は、客観的に見て面白いものなんだ。それに気づくと、こんな人生いいじゃんって、自分を受け入れることができたんです。

学歴がなくても変な経歴でも、人生は楽しい


積極的に外の人と関わるようになる中で、人が持つ可能性を引き出すコミュニュケーションである「コーチング」をしている人と出会い、受けてみることにしました。初めて自分自身を内省する機会でしたね。その中で、「人の強みを見つけるのが得意」だという診断結果が出たんです。それをきっかけに、自分が何をしたいのか考えるようになりました。

そんなある日、番組に来ていたゲストが「高卒の給料の手取りは平均13万円って聞いて、ありえないと思った」と言うのを聞きました。僕の感覚では、地方ならそれが普通。でも、よく考えるとなんでだろう?と初めて疑問に思ったんです。大学で4年長く勉強しただけで、なんでそんなに給料が違うんだろう?一方で、学歴で生きてきた訳ではない自分が、こうやって生活できているのはなんでだろう?と。もちろん大学に行くのは悪いことじゃないけれど、学歴が全てではない。「学歴がないからって落ち込む必要はない、高卒でも大丈夫だよ」と伝えたいと感じました。

そんな想いをいろいろな人に話していたら、学校で講演する機会をもらったんです。愛媛の中学校やフリースクールに行って、講演したり生徒と対話したりしました。最初は興味がなさそうな子もいましたが、自分のありのままを話しているうちに、徐々に聞いてくれるように。実は感受性が豊かな子が多いと感じました。そんな子たちに何かを届けられることにやりがいを感じたんです。「少なくとも俺はこんな感じだけど、人生楽しい」と伝えることで、「こんな人がいるなら、大人になるのって悪くないかもしれない」と思ってもらえたらいいなって。

だんだんと興味が外に向き始め、番組を作るだけではなく、教育など他のことをしたくなりました。そこで2019年の秋に、事務所をやめて独立しました。

好きなものに熱中する気持ちを抱えて


今は、TEENAGE EMOTIONという会社を立ち上げ、代表を務めています。やっているのは、放送作家としての経験を生かした記事執筆や情報発信、NPOのブランディング、YouTuberのプロデュース、ベンチャープログラムのメンターなど幅広いです。大事にしているのは「自己肯定感を上げまくること」。僕が自分の人生を受け入れられたように、自信のない人に自信を与えるきっかけを作りたいと考えています。

社名は、好きなバンドの曲のタイトルから取りました。自分のことを振り返ると、10代の頃の何かに夢中になる気持ち、好奇心やワクワクを持ったまま大人になったと思います。そんな生き方を肯定できなかったこともあったけれど、今はこれでよかったと感じています。

思えば、これまで憧れてきたお笑い芸人も、バンドマンも、放送作家も、みんな10代みたいな「何かを好きで熱中する気持ち」を持ち続けている人だと思うんです。僕はそういう人たちを、面白いしかっこいいと思う。だから、今まさにそんな気持ちを抱いている10代の人たちにも、そんな気持ちを持ったまま大人になった人にも、その気持ちをもっと大事にしていいと伝えたいんです。好きなものに熱中して、信念を大事にして生きられたら、もっと人生楽しくなるはず。出会う人たちの自己肯定感を上げまくり、住んでいる場所や育った環境、学歴に左右されることなく、人生を楽しめる人を増やしていきたいです。

2020.02.20

インタビュー・ライティング | 粟村 千愛
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