障害者の可能性を信じ、選択肢を広げたい。
「一緒にいると楽しい」から選んだ福祉の道。

岡山県で障害者支援NPOの代表を務める福田さん。障害者の選択肢と可能性を広げるために3つの事業を展開しています。福祉の仕事を志したのは中学1年生のとき。福祉の中でも障害者支援に関心を持つようになったのにはどのような背景があるのでしょうか?お話を伺いました。

福田 睦

ふくだ むつみ|障害者の生活支援、就労サポート
NPO法人パッション代表


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宿題がきっかけで決めた将来の道


岡山県の倉敷市で、3人きょうだいの長男として生まれました。両親は、良いことをすれば褒めてくれるし、悪いことをすれば叱ってくれて、のびのびと育ててくれました。特に父は、困っている人がいたら誰にでも手を差し伸べるような優しい人でした。家族旅行でも車椅子のひとを見るとすぐに駆け寄って「どうしたん?手伝うよ」と声をかけたり、お年寄りにも手を貸したり。そんな姿を当たり前のように見て育ちました。

地元の小学校に入学し、2年生の3学期で転校しました。最初の学校では三枚目キャラで、授業でもどんどん発言するようなタイプだったのですが、転校先ではグループが出来上がっていて、馴染むのに苦労しました。

3年生の冬休み、同級生と喧嘩しました。ちょうど母が入院していた時期だったので、気持ちがしんどかったことも重なって、ちょっかいを出されて腹がたったんです。相手は喧嘩の強い子だったのですが、僕が圧勝してしまい、翌日から学校生活が一変しました。みんなの見る目が一気に変わって、給食がいきなり大盛りになったり、知らない子が「福田くん福田くん!」とか言って突然話しかけてきたり。急に態度が激変することに戸惑いを感じながらも、学年の中での地位が確立され、一気に友達が増えました。

中学校では、バスケ部のレギュラーとして充実した毎日を過ごしていました。漫画『スラムダンク』の全盛期だったので部員数も多く、にぎやかで楽しかったですね。

1年生の夏休みの宿題で「ちいさな親切」というテーマで作文を書くことになりました。何を書けばいいのかピンと来なかったので、母のアドバイスで近所の高齢者施設でボランティアをさせてもらうことにしました。

3日間のボランティアで、まず1日目はおじいちゃんと将棋をして楽しく過ごしました。ところが次の日、同じおじいちゃんに話しかけると「お前誰や」と言われてしまったんです。昨日あんなに楽しく遊んだのに、なんで覚えてないねん!ってなるじゃないですか。志村けんがテレビの中でやってるコントと同じことが目の前で起こっているわけです。めっちゃおもろいやん!って。

3日間過ごすうちに、おじいちゃんたちの反応がくるくると変わることも知りました。関わるスタッフによって、楽しそうな顔をしたかと思えば、そっけない顔もするんです。反応が素直なんですよね。嘘をつかない高齢者たちに、喜んでもらえるような人に自分もなりたいと思うようになりました。

あとは、入居者の心情が日によって全然違うのも僕にとってはすごく魅力的でした。同じ人たちと接しているのに、毎日空気が違うんです。同じ場所で同じ人と働くのはなんだかつまらないと思っていたので、こういう職場が理想的でした。

それで、家に帰ってすぐに「俺、将来福祉施設で働く」と家族に宣言しました。親も「お前優しいからええんちゃうか」と賛成してくれましたね。すぐにボランティア協会に登録して、部活が休みの日はボランティア協会の活動に参加するようになりました。

めっちゃおもろいやん


部活とボランティアで充実した中学時代を過ごし、高校ではハンドボールに夢中になりました。7人のスポーツなのに部員が5人しかいなかったんですが、それでも県で16位まで勝ち上がれたりしたので、工夫次第で勝てるのが楽しくて。あとは、義務教育が終わり自分の意思で進学したという責任感が生まれて、中学まで全くしていなかった勉強も頑張るようになりました。

部活と勉強に力を注ぎながらも、ボランティア活動は続けていました。学校でも、昼休みは図書館で福祉関係の本を読み漁りました。小学校のときに一度喧嘩で圧勝してから、地元で喧嘩が強い奴というイメージが定着してしまったので、高校では周りから怖がられ、友達は多くありませんでした。だから、昼休みはもっぱら図書館で本を読みながら自分と向き合う時間で、30歳までには自分の施設を建てるという目標もできました。

卒業後の進路も、迷わず福祉系の専門学校を選びました。普通の大学で一般教養を学ぶ時間が勿体ないと思っていたので、専門分野だけ学んですぐにでも働き出したいと思ったんです。

それで、神戸の専門学校の児童福祉コースへ進みました。元々は精神保健福祉コースを受験していたんですが、僕が書いた小論文を読んだ先生が、「君はこっちの方が合ってると思うよ」と言って児童福祉コースへ導いてくれたんです。

結果的には、こちらのコースを選んで正解だったと思えるくらい、充実した学生生活を送ることができました。授業で学ぶことが本当に面白くて、勉強ってこんなに面白いんだと生まれて初めて気づきましたね。

その中でも、特に障害者に対する関心がどんどん強まっていきました。障害者の子たちと過ごす時間が楽しかったんです。ある日、体調が悪い中無理を押して障害者施設に実習に行ったとき、職員は誰も気づかなかったのに障害者の方だけ気づいてくれたことがありました。僕が帰るときにトコトコと近づいてきて「今日しんどかったなぁ、頑張ったなぁ」って言ってくれて。

そのとき、この方めっちゃおもろいやん、って思ったんです。初めてボランティアをしたときと同じようなワクワク。この子たちと関わるのはすごく楽しいなって直感でわかりました。

やっぱり死が近い高齢者よりも、長く支援できる障害者と寄り添いたいという気持ちもありました。障害者の方たちは、自分の関わり方次第で成長してくれるという実感を与えてくれるんです。彼らと一緒に働く自分の姿をしっかりイメージできたので、専門学校の卒業後は障害者施設に就職を決めました。

自分の仮説の答え合わせがしたい


最初の職場は、兵庫県の知的障害者入所施設でした。30歳で自分の施設を立ち上げたいと思っていたので、そのために人の倍働いていました。その結果、新人ながら一目置かれるようになり、普通は新人にはさせないことを任せてもらったり、意見を通してもらえるようになりました。

ところが、3年ほど働くと、そういう状況にいるのが怖くなってきました。福田くんが言うことに間違いはないと言われるようになってしまって、僕を否定する人が誰もいなかったんです。試しに、会議で一度自分の本心とは反対の意見を出してみたら、通ってしまいました。それで、ここに残っているのはまずいと確信し、転職を決めました。

長男として親と暮らすことは決めていたので、26歳で兵庫県を離れて岡山に戻り、障害者施設で働き始めました。しかし、障害者を監視カメラで管理したり、カメラがない場所での職員の対応がぞんざいで、違和感を抱くようになりました。

また、兵庫県の施設とは全く異なる岡山の施設の雰囲気にも戸惑いました。冗談が通じなかったり、人の行動をじっと観察して上手くいきそうなら飛びつくような感じで。大規模な施設だったので、僕ひとりの力で変えられるとも思えず、岡山流の福祉は自分には向いてないような気がして、転職を決めました。

長い人生なんだから、一度くらい他の仕事をやってみるのもいいかもしれないという気持ちで、工業系の仕事を始めてみました。しかし、一度離れたことで改めて見えたのは、自分には福祉の仕事が一番合っているということでした。すぐに、「俺はこんなところで何をやってるんやろ」と思うようになりました。学んできた知識や、自分の本来の力を一番活かせるのはやっぱり福祉の仕事だと痛感しました。

それで、同じ福祉の中でもジャンルを変えてみて、高齢者施設で働いてみることにしました。障害者施設だと、自分の強いこだわりに完全にフィットする施設はないと思ったんです。ここでは初めて管理者という役職を持つことになり、職員の育成や指導の楽しさを知りました。

ただ、入居者の死と向き合うのは、やはり僕にとっては耐え難いものでした。想いは自然と障害者の方達へ向かい、街中でも自然に彼らが目に止まり、そのことばかり考えてしまう自分がいました。

障害者に関わる仕事をしようという決意を新たにして、独立を考え始めました。今まで、障害者と関わる中で「もっと外に連れ出してあげたい」「レストランで食事をすれば喜んでもらえるのに」というようなアイデアは沢山生まれたものの、「リスクが大きすぎる」という理由で、どの施設でもチャレンジは許されませんでした。それなら、自分の施設を立ち上げて、自分の考えていたことが本当に正しかったのか証明したいと思ったんです。

福祉の仕事は一人ではできないので、いつかパートナーが見つかったら動き出そうと考えていました。するとある日、仲の良い同僚が「その相手、わしじゃダメか」と声をかけてくれたので、彼とふたりで障害者施設の立ち上げに踏み切りました。

苦労の連続から、最後の賭けへ


そうして、2011年、30歳でNPO法人パッションを設立しました。まず手がけたのは、放課後や作業後に障害者を預かる日中一時支援事業でした。障害者を預かることでご家族の日中の時間を就労に当ててもらったり、障害を持っていない兄弟姉妹との時間を持ってもらえるようにするのが目的の事業です。障害者に限らず、四六時中子育てをするってすごく気疲れするので、僕たちが少し預かることが精神的なサポートになるんです。

しかし、立ち上げた当初は苦労の連続でした。高齢者施設の職員だった僕たちは障害者の知り合いがいなかったので、お客様を見つけるのにすごく苦労しました。お客様のいない状況が続き、3ヶ月間は自分たちの給料も出せない状況でした。

もう後がなくなったとき、最後の賭けで宣伝をすることにしました。業界の慣習として、福祉施設は宣伝をすることはほとんどないのですが、もう他に打つ手はなかったんです。支援学校のバス停で、保護者の方や障害者の子達に直接声をかけました。

珍しいことなので、最初は怪しまれ、その学校で大きな噂になってしまいました。しかし、その学校の中で唯一僕たちのサービスを利用したことのあった保護者の方が「あの子らは全然怪しくないよ。良いことをしてくれてるよ」と言ってくれたおかげで、噂は良い方向へ変わっていきました。

結果、その宣伝がきっかけで順調にお客様が増えていき、3年後には事業を拡大することもできました。お客様が増えれば職員の人手が足りなくなったり、やっと採用できたと思ったらお客様が足りなくなったりと、苦労は尽きませんでしたが、ひとつひとつ乗り越えられたし、仲間と壁を乗り越える楽しみも味わいました。

障害者の雇用の数と幅を増やす


現在は、日中一時支援事業に加え、就労継続支援B型事業と生活介護事業の3つの事業を展開しています。3つの事業に共通しているのは、障害者たちの可能性と選択肢を広げたいという想いです。

日中一時支援事業では、家族から離れても僕たちと過ごす時間を楽しんでもらえるような工夫をしています。障害者の方達は家や学校、施設など屋内で過ごすことがどうしても多くなるので、僕たちの場合は、屋外の公園や学園祭、工場見学に行ったり船に乗ったりなど、外での体験を積極的に提供しています。

就労継続支援B型事業では、障害者の方が選択できる業務の幅を広げたいと思っています。世の中にはこんなに沢山の仕事があるのに、障害者は下請け作業を安価な賃金でしかできない現状に違和感があるんです。

ひとつでも新しい仕事をさせてあげたいという想いで、うちの施設ではコーヒー豆を扱い始めました。生の豆を選別、焙煎して、配達まで一緒に行うこともあります。選別の一手間を加えることで雑味が減り、味が良くなるので、お客様にも好評で、それを知った本人たちもやりがいを感じてくれています。

商品としての価値を高めて売り上げを出して、お給料も増やしてあげたいと思っています。彼らが1日6時間~7時間働いても、今の全国平均は月に1万4千円しか出ていないんです。うちの目標はこれを3万5千円まであげること。それだけあれば、障害者年金と合わせて月10万ぐらいになり、一人暮らしという選択もできるようになるからです。

コーヒー豆の販路を確保するために、2017年の秋にはカフェの経営にも挑戦しました。実際にやってみた結果、テイクアウトの方が相性が良さそうだということがわかったので、現在は雑貨の販売スペースを兼ねられるような店舗を探している最中です。

業務の種類を増やしていくことで、障害者がきちんと就労できるということを証明したいです。今、日本では労働人口が減っている中で、障害者の数は増えています。だからこそ、マネジメント側がきちんと手順を理解したり、ほんの少しの工夫さえあれば彼らもちゃんと労働力になるということを知ってほしいんです。

生活介護事業では、更に重度な障害を持った方を支援しています。彼らの学習速度は健常者よりも遅いのですが、18歳以上の障害者が学習できる機関は存在しないんです。なので、うちの施設では、ダンスや料理など様々なジャンルの講師をお呼びしたり、可能な範囲で就労してもらうことで、学習と就労を通して自分の好きなことをさがすきっかけを作っています。

3つの事業目標である「障害者の可能性を広げること」は、僕個人の人生の目標でもあります。一緒に遊んだり、給料を上げたり、こちらの取り組みに対して彼らがやりがいや喜びを感じてくれるのが何よりも嬉しいんです。これからも、ひとりの人間として、NPOの代表として、障害者の方達と寄り添い、支援を続けていきます。

2018.01.25

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