故郷で一生を終えられるように。
自分だから出来ることで、人の役に立ちたい。

長崎県平島で、公民館長、自治会長、デイサービスセンターの委嘱管理者など、様々な地域の役割を務める林さん。建設省や滋賀県庁と、島外の役所で積んだ経験を生かして、島の未来を作っています。そんな林さんの半生を伺いました。

林 嘉幸

はやし よしゆき|平島の地域活動に従事
長崎県平島で、公民館長と自治会長を10年以上兼務し、デイサービスセンターの管理人も務める。

身体がひ弱で、暗い性格だった


長崎県の平島という島で生まれました。私が子どもの頃は、島には石切場があって、紙の原料をすりつぶすためのパルプストーンが作られていました。人口も約2000人くらい、家も350戸はあって、村にとても活気があって賑やかでした。学校の同級生も40人くらいましたね。

私の父は昭和19年に太平洋で戦死したので、母子家庭で育ちました。性格は暗くて控えめで、多くをしゃべらないタイプでした。学校の通信簿にもいつも「暗い子」と書かれていて、母親が先生から「ハーモニカぐらい買ってやって明るい性格に直したほうがいい」と言われるような子どもだったんです。

近所の大抵の家は、父親が石切場で働いて現金収入を得ていました。けれど、石切り場での仕事は男性の仕事。母子家庭のうちでは、石切り場での働きはできず、畑で芋かんころを作って売っていました。貧しい生活でしたね。学校で使う画用紙を買うことができなくて、他の人が書き損じたものを使うこともありました。

島で生きるためには、漁業や石切り場での採掘など、絶対に肉体労働をしなければならないのですが、私は身体がひ弱で肉体労働には全く向いていませんでした。磯で海に潜るのも下手で漁師には向かず、重たい芋を運ぶこともできないから農業もできず、島では役立たずでした。島の生活は、石切り場での仕事を除けば農業と漁業でしか成り立たないのです。

唯一、勉強だけは同級生40人中6〜7番目くらいで、ほんの少しできました。なので、周りの人はほとんど中学卒業後に働き始めるなか、私は佐世保に出て、工業高校の夜間部に進学しました。昼間部に通えるほどのお金もなかったので、昼間は薬局や農家で働きながら、夜は学校に通って勉強しました。

島では役立たず、島外の高校に進学


高校に入学したときは、卒業したら良いところに就職したいと思って、4年間必死に勉強をしました。高校の同級生たちは、みんなアルバイト先の繋がりで良い就職先を見つけていましたが、私は卒業間際は農家で働いていたのでコネも何もありませんでした。就職活動をしていたのは、自分だけでしたね。

それでも、多くの採用試験を受けてやっと中堅の会社から内定をもらえました。外部から採用試験を受けて合格したことが嬉しくて、友人に自慢話をしていましたね。

ところが、就職する前に入社用の健康診断を受けた時、肺浸潤という診断を受けました。医者から「長い人生、無理して就職するよりも今は休んだほうが良い」と言われて、1年間入院することになりました。就職はできないことになったんです。

もう人生どん底だと思いましたね。これまで一生懸命頑張ってきたのに、一体なんだったんだって。これからどうしていいか、お先真っ暗。希望が持てませんでした。

1年間入院したことで、体は回復しました。一旦、平島に帰り、工業高校の先生の世話で5月から東京三田のトランジスター組立て会社に就職しました。しかし、どうにかして大学に行きたいと思い、受験勉強をするため10月で仕事を辞め平島へ帰りました。学習塾での本格的な勉強でもなく、家では居候扱いで母の農業を手伝いながらの勉強でした。

ただ、受けた大学は全て不合格でした。英語が足を引っ張ったのです。1個くらいは受かるだろうと思っていたら、全部の大学に落ちました。夢も希望も失い、神仏を恨んだり、悲しく放心状態になったり、再びどん底だと思いましたね。

大阪で働きながら大学進学を目指す


その後、大阪で船の解体をしている所で世話になりました。ガスバーナーを使って、船を小さく切って解体する仕事です。60〜80キロはある酸素瓶の担ぎ運びなど、肉体労働は苦しかったですが、石切場に比べたらましですし、仕事がなければ生きていけないので、何とか続けました。

たまに、職場の管理人の子どもに勉強を教えて、家庭教師みたいなこともしていました。すると周りから「高校を出てるなら、肉体労働ではない仕事をしたほうがいいんじゃない」とか言われたりするんですよね。

やっぱり、はやく大学に行きたかったんですね。何がなんでも学校に行くという気持ちだけは強く持ち続けていて、働きながらお金を貯めて、夜間大学も含めて毎年受験しました。

しかし、やはり英語ができなくて、ことごとく落ちてしまうんですよね。大阪に来て2回目の受験では、たまたま英語の試験がない大学を見つけました。滋賀県の短大です。そこを受験して見事に合格しました。

受かったときはもう本当に嬉しくて。同級生が3つも4つも年下だったので恥ずかしい気持ちはありましたが、学校に行けるのが嬉しかったですね。

短大に入ってからは、今度は学費を稼ぐことが必至でした。アルバイトばかりしていて、勉強にはあまり集中できなかったですね。

それでも、国家公務員試験の中級に合格し、短大卒業後、建設省で働くことになりました。本当は国家公務員試験の上級を受けたかったのですが、そちらは4年制大学を卒業していないといけなかったので受けられませんでした。

短大卒業後、建設省を経て滋賀県庁へ


建設省に入ってからは、和歌山県田辺市で働きはじめました。主に道路工事の現場監督をしていましたが、道路工事は好きではなかったです。私が中学生くらいの頃、自分の家の畑の一部にやや強制的に道路を作られてしまったことがあって、それからずっと道路工事には良いイメージがなかったんですね。

はじめて現場監督をしたときも、地元の方の理解が得られるような上手い説明ができず、自治会会長から「監督を違う人に変えてくれ」と言われてしまいました。この仕事が誰かの役に立っていると思えなくて、そこまでやりがいは感じられませんでした。

もっと勉強がしたくて建設省に入ったのに、どうしてこんな辺鄙なところで道路を作っているんだろうかと思うようになりました。
やっぱり上級を受けたくて、もう一度4年制大学に行こうかとも思いましたが、田辺市はどこの大学に行こうにも遠くて難しかったんですよね。だけど滋賀県庁だけは、学歴ではなく年齢で受けることができたので、滋賀県庁を受けることにしました。

なんとか滋賀県庁に合格して、砂防課に配属されました。その後は土木課で川やダムの工事を担当して、60歳で定年を迎えるまでずっと県庁で働いていました。

定年後、これからどう生きようかと考えるようになりました。役所を辞めた後の就職先にあまり良いところがなく、島にいる母のことも気にかかっていたので、退職を機に島に戻ることを決めました。

妻はもちろん反対しましたね。でも、私は全く料理ができないので一緒に来てくれないと困るんです。10年経ったら妻の故郷の滋賀に戻ってもいい、母の世話をしたいからと言ってなんとか説得しました。

島に戻ってきて、ふと山を見た時に、これほど美しいものは見たことがないと思いました。子どもの頃は生きていくだけで精一杯だったから、上を見る余裕なんてなかったんですね。仕事から解放されて、故郷に帰ってきて、ふと見たらとても美しい景色だと思えたんです。

島の中では比較的若い年齢なので、すぐに地域活動の役が回ってくるかと思ったんですが、地元の漁業者との意見の相違などで理解も得られず、しばらく3~4年は回ってきませんでした。(笑)囲碁をやったり詩吟をやったりし、時々は年老いた母と一緒に、父がいた頃の話をしてゆっくり過ごしていました。

その後、公民館の館長や自治会長などを務めるようになりました。

故郷で一生を終えられる環境をつくる


現在は、過疎人材不足の島なので、平島の公民館館長をしながら、自治会長も務めています。公民館の使命は、成人がいつでもどこでも学べる場を提供することです。カラオケや書道、郷土芸能「盆口説き」など様々な講座を提供して、その管理をしています。私自身、ほぼ全ての講座に参加しています。

行政区長と自治会長を兼務しているので、住民の要望書を行政に提出して交渉を手伝ったり、地域行事の準備をしたりと幅広く仕事をしています。役所に勤務していた頃に身に付けたスキルを島民が認めてくれている実感があります。

公民館長は、そろそろ別の人に代わりたいのですが、講座の先生方に「来年もよろしくお願いします」と言ったときに「あんたが館長やるならやるよ」と言ってもらえたりするとやはり嬉しいんですよね。自治会長もそうですが、時々住民にも「誰にでもできることじゃない」と言われて、この歳になっても自分の経験を必要としてくれる人がいて、役に立てていることに生きがいを感じます。

せっかく島に帰ってきたので、島で暮らす人のためになることがしたいですね。私の今の立場は対外的に意見を言える立場でもありますので、役所の人たちとも調整して、平島をよくしていきたいです。

島に帰ってきてくれる人がもっと増えたらとは思うのですが、生活コストがかかりすぎたり、医療への不安があって帰ってこないという人が多いんです。離島はどうしても運賃がかかるし、物価が高い。島外に行ったほうが安く買えるので、島で買い物をする人もいなくて商店も無くなっていくんですね。医療も、大きな病院がないので、病気になったら島の外へいかなければならなくて、この島で亡くなる人は少ないです。

でも、やっぱり、人間は本能的に自分の知り合いがいる場所、育った故郷へ帰りたいと思うものだと思うんです。島のお年寄りも「1日でも長く島にいたい」と言いますし。なので、これからはまず船便の確保や物資の低廉化など、生活と医療をもっと安定させて、他所との格差を少しでも無くして、帰ってこられる環境と設備を整えていきたいですね。

2018.01.15

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