長崎県の平島という島で生まれました。私が子どもの頃は、島には石切場があって、紙の原料をすりつぶすためのパルプストーンが作られていました。人口も約2000人くらい、家も350戸はあって、村にとても活気があって賑やかでした。学校の同級生も40人くらいましたね。

私の父は昭和19年に太平洋で戦死したので、母子家庭で育ちました。性格は暗くて控えめで、多くをしゃべらないタイプでした。学校の通信簿にもいつも「暗い子」と書かれていて、母親が先生から「ハーモニカぐらい買ってやって明るい性格に直したほうがいい」と言われるような子どもだったんです。

近所の大抵の家は、父親が石切場で働いて現金収入を得ていました。けれど、石切り場での仕事は男性の仕事。母子家庭のうちでは、石切り場での働きはできず、畑で芋かんころを作って売っていました。貧しい生活でしたね。学校で使う画用紙を買うことができなくて、他の人が書き損じたものを使うこともありました。

島で生きるためには、漁業や石切り場での採掘など、絶対に肉体労働をしなければならないのですが、私は身体がひ弱で肉体労働には全く向いていませんでした。磯で海に潜るのも下手で漁師には向かず、重たい芋を運ぶこともできないから農業もできず、島では役立たずでした。島の生活は、石切り場での仕事を除けば農業と漁業でしか成り立たないのです。

唯一、勉強だけは同級生40人中6〜7番目くらいで、ほんの少しできました。なので、周りの人はほとんど中学卒業後に働き始めるなか、私は佐世保に出て、工業高校の夜間部に進学しました。昼間部に通えるほどのお金もなかったので、昼間は薬局や農家で働きながら、夜は学校に通って勉強しました。