農作物をちゃんと売れる場所を作りたい。農業の課題解決を目指して。
長崎県の五島列島で、農業法人を経営する佐藤さん。大学卒業後、税理士事務所勤務を経て、五島で農業法人を立ち上げました。様々な業種を見る中上で、起業するフィールドとして農業を選んだ理由とは?お話を伺いました。
佐藤 義貴
さとう よしたか|農業法人経営
長崎県五島市で農業生産法人アグリコーポレーションを経営。
自分もいつか商売をしたい
京都府の舞鶴市に生まれました。男ばかりの4人兄弟の末っ子で、やんちゃで活発な性格でした。外で遊ぶのが大好きで、近所の塀に上って注意されるような子でした。
3人の兄とは喧嘩もしましたが、よく一緒に遊びました。一番上の兄は6歳上で、子どもにとっての6年の差はとても大きかったです。ゲームでも喧嘩でも絶対に勝てないけど、自分が知らない世界を教えてくれる存在でした。
父はスーパーマーケットの経営者でした。朝早くから夜遅くまで働く父を見ながら、「社長ってスゴイんだな」と感じていました。小学生の頃から漠然と「自分もいつか商売をしたい」と思うようになりました。
中学からは三重県の学校に通いました。地元の中学が荒れていたので、兄弟全員が父の選んだ全寮制の学校に通っていたのです。母は末っ子の僕が家を出るのを寂しがり、「あんたは地元の中学でいいのよ」とも言いました。でも、3人の兄が寮で楽しんでるイメージがあったので、三重の学校への入学を決めました。
ところが、実際に入学してみると、寮生活は苦痛で仕方ありませんでした。一番つらかったのは管理下に置かれたことです。一日のスケジュールが全部キチッと決められていました。小学生までは好きなテレビを見てた時間が自習時間に変わってしまい、ギャップが激しすぎて、気持ちが追いつきませんでした。
毎日やめたいと思いながら、帰省の日を指折り数えて待つような日々を送っていました。
でも、中学3年生になる頃には、やめたいとは思わなくなっていました。環境に順応したんですね。それで、高校も付属校に進学しました。
寮生活では、自分以外の人間と集団で生活することを学びました。最初は嫌で仕方なかった集団生活を楽しめるようになったんです。
食事ひとつとっても、食べるのが遅い人や自分とは味覚が違う人がいる。部屋を綺麗にできる人もいれば、洗濯物もろくに畳めない人もいる。色んな人間がぶつかりながら生活していく中で、折り合いの付け方を学んでいきました。
仕事ができるようになりたい
大学では福祉を専攻することにしました。高校生の頃から、世間で「福祉」という言葉が流行り始めていて、伸びていく産業だと思ったんです。2年間で満足できるまで遊びつくし、3年生からは将来の起業に向けて真剣に考えるようになりました。
しかし、介護施設に実習に行ってわかったのは、福祉関係の法人を設立するのは難しいという現実でした。一般の会社であれば一人で起業できるのに対して、福祉法人は役員を数名用意する必要があったりと、色々なハードルがあったんです。
しかし、他にやりたいと思える事業は思い浮かびませんでした。とりあえず就職して、まずは社会人としての実力をつけようと考えました。
「学歴社会から資格社会へ」という言葉が流行っていた影響で、様々な資格を紹介する本を買ってみました。その本を読んで知ったのが、税理士という職業です。企業の監査をして、業務内容を把握した上で、的確にアドバイスする職業として紹介されていました。
見た瞬間、この仕事はすごく面白そうだと思いました。顧問先として色々な会社を見れば、自分に合った業種を見つけられると思い、大阪にある税理士事務所に就職しました。
就職した事務所は「任された仕事は必ず責任を持ってやる」という実力主義の組織でした。他の事務所なら入って3年程度は研修扱いのところを、この事務所は1年目から担当を持つことになりました。新人にも裁量を持たせてくれるので、やりがいを感じました。
毎月、担当の会社へ行って、経営のアドバイスをします。新人なりに、経済の流れを踏まえた上で、自分の意見を言う必要がありました。まずは、ひたすら新聞を読みました。新聞を読むくらいなら、自分一人の力でどうにでもなること。最低限のことだと思ってやってました。
それから、上司や先輩の仕事もよく手伝いましたね。ギブアンドテイクで、仕事を手伝う代わりに自分の仕事も教えてもらうんです。教えてもらうって言っても、アドバイス一言で解決することもあれば、小一時間丁寧に教えてもらってやっと理解できることもあるります。新人の頃は、相手の時間を頂いて教えてもらうことが多いです。その分僕もしっかり手伝って、ちゃんと教えてもらえるような関係性を作れるように努力しました。
与えられたことをするだけじゃなくて、自分で考えて動く。そういう仕事の基礎というか、哲学を教わりました。
就職したばかりの頃は自信がなくて、結構きつかったですね。でも、一年目の終わり頃に、得意先の社長から、「佐藤さんが担当してくれて良かったわ」って初めて言ってもらえたんです。その一言で「あ、やっていけるな」って思いました。
それからは自信を持って、全力で仕事に打ち込めるようになりました。一番大きなモチベーションは、仕事ができるようになりたいという気持ちでしたね。自分自身で「良い仕事ができてるな」と思えるようになりたいという一心でした。
自分で道を切り拓く
社会人4年目からは、事務所がやっていたコンサルティング業務も担当するようになって、得意先の経営企画書まで作るようになりました。30代を前にして部下を持つようにもなり、起業について真剣に考えるようになりました。
また、税理士事務所での仕事にやりがいを感じる反面、10年後の自分の成長が見えなかったんです。会社が成長していなかったので、新しい雇用が生まれないから、前からいる社員も昇格できない。ポジションにも給料にも満足していたのですが、このまま変わらないのは嫌だったんです。
税理士の資格を取得することも考えていました。しかし、税理士業界は競合が多く、競争が非常に激しい業界です。そこで生き残るための戦略を考えるよりも、新しい業界にチャレンジしたいと思いましたね。
結婚もしていたので、安定と挑戦の間で迷いましたが、やっぱり成功したいという気持ちが勝り、独立を決意しました。
独立する業界として選んだのが、農業コンサルティングでした。就職して8年、色んな業種を見ていく中で、農業専門のコンサルティング会社がないことに気づいたんです。
医療や飲食、コンビニなどの業界には専門のコンサルティング会社があるのに、農業には無いんですよ。農林水産省なんて機関もあるくらい巨大な一次産業なのに、誰も手をつけていない。その穴を埋めようと思いました。
農業に関しては全くの素人でした。でも、今までの人生の中でも、ゼロから飛び込む経験はたくさんありました。中学から全寮制、大学での一人暮らし、無勉強での税理士事務所。全て順応してきたので、自分が努力すればどうにかなる自信がありました。自分が切り拓いていくという環境に慣れていたと思います。
失敗を乗り越えて
最終的なゴールを農業コンサルティングをすることとして、まずは農業を知るため、生産から流通まで手がける会社を作ることにしました。
最初は農地探しから始めました。色々探す中で最終的に国税庁の競売ホームページで、長崎県の五島列島にある農地を見つけました。妻の祖父が五島出身だったこともあり、家族も賛成してくれました。
ゴールデンウィークに初めて下見したときは、荒れ放題の土地でした。こんなに荒れた場所で農業ができるのか少し不安も感じましたが、最初はこんなものかと納得しました。お膳立てされたものをもらうのではなく、自分でイチから作っていくことに魅力を感じました。
それで、島の農家を紹介してもらい、彼が元々得意としていたサツマイモを会社の商品として育てることにしました。また、農協以外の流通先の開拓も並行で行いました。畑は社員に任せて、僕は大阪の小売店を中心に販路開拓をしました。
ところが、営業先は確保できたのに、収穫量が追いつきませんでした。野菜づくりに関しては素人だったので、完全に人任せにしていたんです。肥料を卸してくれる会社の方からおすすめの肥料と量だけを教えてもらって、それを社員に伝えるだけで、実際の畑の世話は社員に任せっきりでした。
パートさんなども雇ったので、人手が増えると新しい作物にも手を広げました。技術がないのに手を広げたので、それも赤字。結局、3年間は何をやっても赤字ばかりで、満足な収穫ができず、味も良くありませんでした。
でも、撤退は一度も考えませんでした。農業が軌道に乗るまでにはある程度時間がかかると覚悟していたんです。それに、失敗している一方で、自分の中で改善策は見えていたので、やめる理由はありませんでした。負けるもんかという気持ちでした。
状況を変えるために、4年目からは僕も畑に出るようになりました。人員配置を変え、栽培する作物も10種類から2種類に減らしました。また、農薬や化学肥料を使わない自然農法を取れ入れました。五島で自然農法をやってる農家の方の畑を見に行ったのがきっかけです。自然農法なら、収穫量が安定し、味も良くなるし、土にも優しい。農家の方の説得力のあるお話を聞いて、取り入れることを決めたんです。
加工食品の製造も行うようになりました。元々は加工まで手を広げることは考えていなかったのですが、加工も不可欠だと考えるようになりました。
というのも、サツマイモは土から掘り出して収穫する野菜なので、どうしても規格から外れた大きさのものができてしまうからなんです。トマトやきゅうりのように、育っている様子が見える野菜と違って、イモは「この大きさになったら収穫しよう」というコントロールができません。
どうしても、2割程度は規格よりも大きいイモができてしまいます。味が変わらなくても、規格から外れていたら売れません。調理しづらいし、一度に使い切れないからです。
大きすぎる2割のイモを活用するために作ったのが、「おしゃぶー」という加工品です。長崎県の特産品である「かんころ餅」をヒントにした、さつま芋から作った幼児向けの歯固め食品です。自然農法でできた野菜という強みを活かして、子どもも安心して食べられる商品を作りました。
農家の野菜の出口を作りたい
現在は、サツマイモとブロッコリーを作りながら、おしゃぶーの販売を行っています。有機農法を取り入れてからは収穫量も安定し、去年は100トンのサツマイモを収穫できました。今年は倍の生産量を目指しているので、取引先をもっと増やせるように頑張っています。
今、会社として一番大切にしているのは、生産技術です。取引先がうちのイモを買ってくれてるのも、量を切らさないことを評価されてるからだと思っているので、安定した収穫を支える技術は不可欠なんです。
そのためにも、自然農法の技術をしっかり持ちたいです。今年からは肥料に光合成細菌を取り入れて、玄米酢と海水を混ぜた液肥も作っています。
生産技術と販路確保はもちろん、将来的には加工設備も自社で所有できるようになるのが目標です。やっぱり商品をつくるなら、とことんこだわりたいんです。委託してしまうと、痒いところに手が届かなくなってしまうんです。
例えば、ドレッシングの製造を委託するとして、味の決め手になる塩をどうしても入れたい。でも、委託した業者に塩を入れるための機械はありませんと言われたら、諦めるしかないんですよ。他社の商品作るために、新しい機械の導入なんて頼めないですから。
そういう意味で、本当に自分のこだわりや想いが強い商品なら、自社じゃないと作れないと思うんです。だからこそ、自社で加工商品を作れるような設備を入れるのが将来的な目標ですね。
生産力の強化と同時に、もうひとつ力を入れていきたいのが、農作物の販路の拡大です。僕は前職の経験が活かして自社商品の販路を開拓できましたが、今農家の方々が一番困ってるのは、まさにその販路の確保なんです。農協以外の販路を作ろうと思っても、営業まで自前で手を回せる農家は少ないのが現状です。
農家のみなさんが作った農作物を、しっかり売れる場所を用意したい。その想いで作ったのが「旬の駅ならやま」という農産物直売所です。僕らのような営業の視点を活かして、野菜をしっかり売れる「出口」を作るために、グループ会社と共同で立ち上げました。この旬の駅を、一年に一店舗ずつ作って全国展開していきたいと思っています。
「旬の駅」というブランドをしっかり定着させて、フランチャイズ展開していきたいです。名前だけのフランチャイズではなくて、営業の技術もしっかり教えていくことで、新しい農業の仕組みを作っていけたらいいですね。
将来的に農業コンサルティングの領域に入れたらと思いますが、今は自社の農業でやれることがまだまだたくさんあります。10年後20年後の農業の活性化に繋がるように、無理せず、目前の農家の仕事と丁寧に向き合っていこうと思います。
2017.11.14