島にある“大切な風景”を失くさないために。ヒト・モノ・場所をリデザインする。
鹿児島にある離島「甑(コシキ)島」にて、豆腐屋を営みながら、今の時代に適したまちづくりに取り組む山下さん。山下さんが残したい風景・暮らしとはどんなものなのでしょうか。お話を伺いました。
山下 賢太
やました けんた|今の時代に適したまちづくり
鹿児島県にある「上甑島」にて、東シナ海の小さな島ブランド株式会社を経営する。
やんちゃ盛りだった少年時代
鹿児島県の離島、上甑島(かみこしきしま)最北端の里村で生まれ育ちました。人口2000人ほどの小さな島です。
4人兄弟の長男として育った僕は、小さい頃「今どき流行らん子」と呼ばれていました。田んぼを泳ぎまくるような、島でも変わり者の子どもだったんです。田舎の子でも今どきなかなかいないですよね、そんな子。周りの子たちがゲームやスポーツで遊ぶ中、僕は祖父母が持つ小さな田んぼや畑で遊んでいましたね。
元気のいい子どもでしたが、小柄なことにコンプレックスを感じていました。いじめを受けたとかではないんですけど、自分の中で気にしていたんですね。体が小さいことに対して前向きに考えられるようになったのは、競馬のジョッキーという仕事を知ってから。小学5年生のとき、天才ジョッキー福永洋一さんのドキュメンタリー番組を見たんです。
落馬して半身不随になり、そこからリハビリを必死に行う姿が映し出されていて、僕はその映像に釘付けになりました。番組では奥さんのインタビューも収録されていて、ジョッキーを支える家族の覚悟にも驚きました。万が一の事故があって大怪我をすることも想定しながら一緒にやって、それさえも乗り越えていける想いがある。人にそこまで大きな影響を与えるジョッキーやその家族は、どんな世界を見ているのか。僕も同じフィールドに立てたら嬉しい。そう考えて、将来ジョッキーになることを決めました。
ジョッキーは体重制限があって、小さい体だからこそできる仕事。小さいことは強みだと考えられるようになりましたね。
1グラムとの戦い
ジョッキーになると決めてから5年間、トレーニングを続けました。移動の時は常に走っていましたし、夜中の学校で筋トレもしました。その結果、千葉にあるジョッキー養成学校に入学できることになりました。
ただ、体重上限が43キロの中、僕は42.9キロで通過とギリギリだったので、合格してからも減量との戦いが続きました。毎朝4時に起きては減量トレーニングの繰り返し。体脂肪率は5.2%。口の中の唾液に嫌悪感を抱いて、ティッシュを口にくわえて寝るような心身共に追い込まれているような生活でした。
毎日のように体重測定があって、1グラムでも超えていたら馬に乗れないんですよね。それでも、体格や成長期ならではの問題もあって、制限を超える日が何日も続いてしまったんです。つらかったですね。もちろん、自分だけがそんな目にあってるわけではないんですが「なんで自分だけ」と思うこともありました。やめたいと言ったり、やめたくないと言ったり、自分でもよくわからないことを口走っていて、完全に情緒不安定でした。
結局、半年も満たない期間で学校をやめました。極限の状態までやったんですけど、そのときの自分には乗り越えられませんでした。
学校をやめても、地元には戻れませんでした。島を出るとき、地元のみんなが後援会まで立ち上げ、盛大に送り出してくれたことを思い出すと、合わせる顔がありません。しばらくは鹿児島の親戚の家に身を寄せていました。
親戚の家で僕の顔を見た祖母は「落馬で大怪我する前に元気で帰ってきてくれてよかった」と言いながら涙を流しました。僕を一番応援してくれる人たちが、僕に対して「頑張れ」と言いたいけど言えない気持ちを考えると、なんと言えばいいかわからないんですけど、ここで逃げ続けていてはダメだと思いました。そんなとき、中学校の先生から電話があり「これからどうするんだ?自分の人生なんだから自分で決めろ」と言われました。それがきっかけで、島に帰ることにしました。
その後、特例で中学に通わせてもらい、翌年には鹿児島の高校に進学しました。しかし、ジョッキーの夢を諦めた僕は、何をやりたいか分かりませんでした。人生をやり直すにしても何をしていいかわからず、惰性で生きている感じでしたね。
人の豊かさを中心にしたまちづくり
高校2年生になったある休みの日、久しぶりに甑島に帰ることがありました。すると、父親が港の近くを工事している現場に出くわしました。そこは、僕のいちばん好きな風景があった場所でした。
海には江戸時代の石の堤防があり、大きなアコウの木がそびえ立っていて、周りには漁師さんの網小屋や小さな畑、ベンチがある場所。昼間は、漁師さんたちが裸で破れた網を黙々と直していて、奥さんたちは魚を干している。その横では猫が戯れ、畑ではばあちゃんたちが仕事をしている。夕方、ベンチで涼んでいると、自然と友達が集まってくる。なんてことのない島の日常の風景ですが、僕にとって故郷の原風景と呼べるような大切な場所でした。
それほど大切な風景が壊される現場を見て、何が起きているのか分かりませんでした。みんな大事にしていた場所なのに、なんで壊すのか。子どもには理解できない世界で何かが起きていることに、憤りを隠せませんでした。
ところが、どうしてそんなことをするのか父を問い詰めると一言。「あんがためだ(お前のためだ)」と言われました。
ショックでした。僕は人生をやり直すため、自分のわがままのために島外の学校に通わせてもらっていました。そのためにはお金が必要です。目の前の工事で自分が生かされているという事実を知って、何も言い返せませんでした。
そこで初めて、父に対しての怒りというよりも、時代や世の中全体に対する怒りのような気持ちが湧いてきました。もちろん、工事によって便利になる一面があることは分かります。でも、世の中は、その工事が引き換えにしているもの、そこで失ったものをちゃんと見ているのかなと感じたんです。失われたものは二度と取り戻せません。その大切さに気づけていないこと、それを仕方ないとする世の中に対しての憤りでした。
その時から、将来はまちづくりを仕事にしたいと思い始めました。具体的にどんな職業で実現できるかは分かりませんでしたが、空間デザインが大事だと考え、高校卒業後は京都の大学に進み、建築を基盤とした地域デザインを学びました。
大学で色々学ぶ中で、恩師に言われた言葉をよく覚えています。「地域デザインというのは、ただの建築や都市計画ではない。地域にとって必要なことをするのが地域デザインの役割なんだ」と。
この時、地元の港のことが頭に浮かびました。もし、あのなんでもない港の風景を取り巻く経済がうまく循環していれば、あの場所は取り壊されることはなかったかもしれない。政治や都市開発のように経済だけを指標とするのではなく、人の豊かさを中心とするまちづくりをしたいと考え始めました。
ただいるだけでできることがある
大学卒業後は、京都で和装小物の製造卸をしている会社に就職しました。その会社は、得た利益を地域に還元すると掲げ、景観計画などに力を入れていました。ここで、まちづくりのやり方を学ぼうと思ったんです。本当はすぐに甑に戻って何か始めようと思っていたんですが、自分が経営者になった時に雇われる側の気持ちも分かった方がいいと感じたのも就職した理由のひとつです。
その会社は、景観計画の中でも京町家の再生に力を入れていました。単純に古いものを再生して昔の景観に戻すわけではなく、今の時代に合ったカタチでヒトとモノと場所をつないでデザインし直すという考え方を学べたのは大きいですね。
ただ、僕のように、京都で生まれ育ったわけではない外部の人間が町の景観計画に関わることに対して、違和感もありました。僕らが作った計画に基づいていろんな事業が行われ、この先何十年も続く景観ができあがるけど、それは本当にこの町で生まれ育った人たちのためになるのか。この町で生まれ育つ人の顔を思い描くことができない。正直言って、怖くなったんです。
地元で暮らす人が、自分たちのまちづくりのことを真剣に考える必要があると感じましたね。当然、僕もいつかは甑に戻って島のために働こうと決めていました。ただ、まだ何の力もないと思っていたので、帰るのは数年先だろうと思っていたんです。
それでも、大学時代から甑でイベントを始めていたので、就職してからもイベントの度に島には戻っていました。すると、ある時、近所のばあちゃんが「向こうで頑張ってる賢ちゃんも好きだけど、ここで頑張っている賢ちゃんも好きだな」と言ってくれたんです。
なんてことのない一言だったんですけど、「ただここにいてくれるだけでありがたい」と言ってもらえているようでした。何かできなきゃ島に戻れないと思っていましたが、何もできない今の自分でも、ただいるだけで島のために何かできるかもしれない。そう思い、1年ほどで会社をやめて甑に戻ってきました。
米ではなく「米づくり」を買ってもらう
島で最初にはじめたのは農業です。島であたりまえにある暮らしをしている人が、まちづくりを考えることに意味がありますから、島の日常にある仕事をしようと思ったんです。また、この島では農業が産業として継続的に成り立った歴史がほとんどないので、あえてやる価値があると考えました。
自分でつくった米と野菜を無人販売で売り始め、最初の収入は800円。それが僕のスタートでした。
最初は米を作って普通に売っていたんですけど、しばらくして、僕が売るべきものは「米」ではなく「米づくり」だと気づきました。普通に米を販売した場合、島の水田全部をひとりで耕しても、自分ひとりが食べられる程度の収入にしかなりません。それでは後継者が現れず、いつか甑島の米作りは途絶えてしまいます。実際、僕も米作りをやめようとしたこともあります。
でも、食卓から米がなくなると、何気ない島の日常の食卓が失われてしまうんです。米と漬物と味噌汁と魚の干物。何気ない朝ごはんですが、米がなくなったら途絶えてしまう。それはイヤだと感じましたし、魚や野菜が美味しく食べられるのは、米があってこそなんじゃないかって思ったんです。野菜や魚だけで食べても美味しいかもしれませんが、米が他のものを引き立ててくれるというか。米づくりをやめてしまったら、野菜や魚の美味しさ、さらにはその裏にある野菜づくりや漁業といった暮らし自体も崩れてしまうんだなって感じたんです。
それから「米があるからこそ美味しくなる暮らし」と掲げて、米と一緒に地元の干物や農産物をまとめて送るようなサービスに変えました。
また、米作りのプロセスや、背景にある島での暮らしや人々の想いを伝えることも始めました。離島なので、島外に売るにはどうしても輸送コストがかかり、販売価格も上がってしまいます。単純に「お米を買いたい」という気持ちの人にとっては、他のお米を買ったほうが安いのは事実です。だったら、島の出身者だったり、島と何らかの関係性を持つ人に「島を応援したい」という気持ちで米づくり自体を買ってもらおうと考えたんです。甑島の暮らしや風景を守り、次世代に残していくために買ってもらおうと。
離島は「一周遅れのトップランナー」
農業から始めた島での取り組みですが、現在、僕が経営する東シナ海の小さな島ブランド株式会社では、農業、豆腐屋、観光ガイド、宿泊施設の運営、通販による特産品の販売など、様々なことをしています。
色々なことをしているように見えますが、やっていることはシンプルにひとつ。人の豊かな生活を中心としたまちづくりをしているだけ。やり方が違うだけで、全て、住んでいる人が幸せに暮らし続けるための仕組みづくりなんです。
自分たちが良くなるだけではだめです。というか、島みたいな狭いコミュニティで生きていたら、自分たちだけが幸せになるなんてありえないんです。結局、自分たちが幸せに暮らすためには、関わる人や一緒に暮らす人たちみんなが幸せにならなきゃだめなんです。
それを考えた時、あるひとつの事業・ビジネスをするのでは島全体も自分たちも豊かにならないと思うんです。「島の暮らしの豊かさ・良さ」とは何かを理解して、今の時代にあったかたちでヒト・モノ・場所をデザインし直していく必要があると考えています。幼いころ実家の二軒両隣が豆腐屋だった僕にとって、豆腐屋というのは島の原風景そのもの。そういった残したい景色、住む人が豊かだと思う暮らしを中心に、生態系というか、つながりを作り直せたらと思うんです。
特に、僕は今の時代だからこそ、ハコモノを再編することが大切だと信じています。人が集まる「たまり場」のような場所がきっかけになると考えています。現在は、豆腐屋兼コミュニティスペースの「山下商店」に加え、宿泊施設「island Hostel 藤や」、カフェ「コシキテラス」、鹿児島市に展開する「KENTA STORE」というセレクトショップの4箇所を拠点としています。今後は島内にコワーキングスペース「しまとりえ」を作る予定です。
また、島内の人たちだけでなく、島外の人を巻き込むことも大事だと考えています。それも、交流人口の増加ではなくて、関係性がある「関係人口」を増やすことですね。交流はその場限りで終わってしまうものですが、関係はその後も続くもの。これまで、島を出た人はある意味では悪者で、島を守るのは島のコミュニティに残った人だけだったのかもしれませんが、それではもう成り立ちません。島に住んでいる人も、そうでない人にも役割がある。その関係もうまく作っていきたいですね。
ここ数年、世間では地方に目が向き始めていますが、離島は課題の最先端が集まる場所です。高齢化率50%の上甑島。人口減少時代の日本が、今後進んでいくであろう課題がすでにこの島にはあります。いわば「一周遅れのトップランナー」のようなものですよね。そういう見方をしたときに、離島での豊かな暮らしを紐解くことは、これからの日本を考える上でとても重要なのではないかと思います。
これまでは、まちづくりと言えば行政主導で行うイメージがありましたが、そうではなく、まちづくりを暮らしている人たちの手に取り戻す必要があると考えています。だからこそ、僕のような町の豆腐屋がまちづくりを考えている。そこに価値があるんじゃないかと思います。
これからも、町の豆腐屋として、自分たちのまちづくりに真剣に取り組んでいきたいです。
2017.07.27