世界へ発信するアートを、500人の島から。「離島に住む自分」だから得られた機会。

【広島県提供:「広島移住で始まった、新しい人生」特集】広島県尾道市の百島(ももしま)で、廃校となった中学校の校舎を再活用したアートセンター「ART BASE MOMOSHIMA」のマネジメントを担当する大橋さん。染織作家を目指して進んだ大学院でアートマネジメントの道へ大橋さんを方向転換させた出会い。アートのために500人の島に移り住んだ先に訪れた機会とは。

大橋 実咲

おおはし みさき|現代美術のアートマネジメント
廃校になった尾道市百島の旧中学校校舎を再活用し、アーティスト柳幸典と恊働者達による創作活動を通して、離島の創造的な再生を試みるアートセンター「ART BASE MOMOSHIMA」のマネジメントを担当する。
写真:Takahisa Fujikawa

※本特集は、広島県の提供でお届けしました。

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他の人と違うことをしたい


京都府京都市に、4人きょうだいの次女として生まれました。父は美術史や建築に関わる仕事をしていて、あまり家で会うことがありませんでした。たまに帰ってきたかと思うと、「お土産だよ」と、小5の私にカナダのお土産で木でできた粋なピアスをくれたり、突然学校を休ませて気功を習いに北京に連れて行ったり、とても変わった人でした。
著名な作家の絵画が家にあふれていたり、自分に似合うお洒落な服を選んでくれたり、父が与えてくれたそんな環境で育った影響で、お洒落に興味を持ち、アートに憧れるようになりました。

学校では浮いてましたね。周りに合わせる意味が分からず、攻撃されることもありました。どうせ飽きるだろうと、全く気にしていませんでしたけど。

高校生になり部活で薙刀(なぎなた)を始めました。小中と強豪のバレー部にいたんですが、高校のバレー部は強くなかったので、他校よりも強かった薙刀部に入りました。小さい頃から負けず嫌いでしたね。4人きょうだいで歳が近くて、ピアノも水泳も英語もスケートも、全て一緒に習い始めて、いつも自分ときょうだいを比べていました。きょうだいには勝てないことが多かったので自分だけ違うことをやれば勝てると考えていました。

高校生活は部活に全力を注ぎました。毎朝5時に起きて朝練・昼練・夜練・そして道場の稽古と、一日中薙刀でした。国体や全国大会にも出場して自信につながり、卒業後は、薙刀の推薦で体育系の大学に行くことに決めていました。

ところが、3年生の夏「このまま薙刀を続けていて大丈夫なのかな。スポーツ選手って怪我も多く、本当に大変なんだな」と感じたんです。将来、万が一ケガをして引退した後、次に何の仕事ができるのか想像できなかったんです。それまで3年間夢中でやっていたの、そんなこと感じたことなかったのですが、3年生の夏の大会が終わった後にやめようと決めました。

実家で小学校の卒業文集を読み返して、デザイナーを目指していたことを思い出しました。色々考えた末、美大を目指すことに変えました。周りからは「お前絵かけるの?」と馬鹿にされましたね。

父にその話をすると、画塾に行くことを薦められました。画塾でもボロボロに言われました。「こんなんで受かるわけがない」って。「朝の5時から夜中まで描き続けるので付き合ってください」と先生に頼み込み、毎日ひたすら絵を描き続けました。絵を嫌いになりそうなくらいでした。

なんとか地元の大学の芸術学部に進学することができました。

アートマネジメントの道へ


大学ではテキスタイルを専攻しました。授業は本当につまらなかったですね。みんな一緒に机を並べて、同じものを描くんです。入学してからもずっとこれが続くのかと幻滅し、バイトをしたり先輩と遊び歩いたりしていました。

3年になり、型染めという染織技法を知ってから、大学が面白くなりましたね。特に和紙という素材を用いての型染めは日本でほとんどやっている人もいなくて、やっと、自分しかできないことを見つけられた気がしていました。卒業後は広島市立大学の大学院に進みました。

大学院では2年間、作品を作ることに没頭し、大作を作り、他の学生達は制作を課題以外ですることはなかったので工房を占領して、黙々と作品作りに打ち込みました。出来上がった作品で個展を開催し、色々と賞をもらうことができ、思った通りに進んでいました。

大学院1年目に、柳幸典さんという世界的に有名な現代美術作家が、大学に着任されて、すぐに研究室に相談に行きました。

その時にちょうど、染織業界の派閥などのことで将来について悩んでいて、そんな話も柳さんに話しているうちに、大学院を卒業、そして研究員として現代美術の研究室へシフトしました。もっと広い世界があるのではないかと思ったんです。

柳さんはなんでも知ってる人でした。ものすごく頭が良くて、まぁでも怖くて挑戦的でした。遊休施設の再活用や、廃墟を使ったプロジェクトを行ってきて、広島でも旧ゴミ処理場をアートセンターにするというとんでもない構想のもと、アート・プロジェクトを立ち上げていました。それがすごく良い展覧会で、毎日新聞でも全国ベスト5に入る展覧会として紹介をされましたね。そういう展覧会作りの現場に立ち会えたことは幸運でした。

現代美術の世界に入ってから出会った沢山のアーティストは、社会を捉えて作品化しているんですよね。私が作ってきた作品は本当に薄いなと思ってしまいました。現代美術作家は世の中にとってこんなに重要な作品を作っているのか、と衝撃を受けましたね。

アートマネジメントと言っても、少人数でプロジェクトを回しているので、アーティストが作品を作る行程のゼロから完成までの手伝い、事務作業から事務所の会計決算、会場の設営やデザイン、Webサイトまで、何から何までやらなければいけません。アーティストにつきっきりで何日も徹夜するような大変な仕事です。でも、作家がすごい作品を完成させてくれた時の喜びや達成感が、自分がアーティストとして活動する時よりも大きいんです。

アーティストって孤独だという人も多いんですよね。一人で悩んで、一人でやりきって。それに比べて、マネジメントスタッフは色々な人と関わっていくので、やりがいも大きかったです。人や社会と関わるプロジェクトがあまりに面白くて、スパッとアーティストとしての作品作りをやめました。

それまではアーティストとしてやっていけるかもしれないという手応えはありましたが、出会ったことのない新しい作品を作る支援をしたいという思いのほうが強かったんです。

本格的にアートマネジメントの仕事をしようと、卒業後は東京の画廊に就職しました。

アートのため、500人の島へ移住


画廊は、作品の二次流通を中心としたセカンダリーのギャラリーでした。一度売却された作品の価値が上がることで、以前より高額で転売される市場です。しかし、頭上でお金が飛び交う感覚で、自分が何かできている手応えはありませんでした。

その頃、柳さんが、岡山県の犬島で銅の精錬所廃墟をアートによって再活用する壮大なアート・プロジェクトが完成し、その二期工事が始まっていました。柳さんが犬島をライフワークとして見出してから15年間、場所の意味や重要性、魅力を伝え続けて協力者を募り、ようやく長年の構想が完成に至ったプロジェクトでした。

犬島のプロジェクトの一期・二期が完成すると、柳さんは次の場所を探していました。柳さんの作品のコレクターである実業家の方が尾道出身だということもあり、その方を通して広島県尾道市の平谷市長を紹介してもらい、またこれが素晴らしい出会いで、市長はすぐに広島県の百島(ももしま)を紹介してくれました。

百島は瀬戸内海のほぼ真ん中にある、人口約500人の小さな島です。2010年の秋、実際に柳さんと視察に行ってみて、良い島だなと思いましたね。Uターンで農園を営んでいる方や社会福祉協議会の会長は一日中視察に付き合ってくれました。

アート・スペースとして提案してもらったのは、しばらく使われていない廃校でした。廃棄物や動物の死骸もたくさんあり、あまりに荒れ果てた環境に、「さすがに柳さんはここは断るんだろうな」と思っていました。

しかし、柳さんは「是非やらせてください」とその場で答えて、その廃校を拠点にアート・スペースを作ることが決まりました。驚きましたが、アーティストが決めたからにはやるしかないと、覚悟を決めました。

まずは廃校の掃除から始め、島の方への説明会を何度も開きました。小さな島ですが意見は賛否両論。しかし、沢山の外部からの応援もあり、ようやく工事着工に至りました。

工事が始まったころ、誰かが島に住んだ方がいいなと思いましたね。外部の者がただ説明会を開いているだけじゃなくて。

柳さんが、誰も価値を見いださなかった離島の廃墟に芸術的可能性を見いだして、15年かけてライフワークとして取り組んで、プロジェクトを完成させたのですが、最終的にメディアに脚光を浴びたのはプロジェクトを発案し行動を起こした芸術家ではなく、建築物の方だったんです。柳さんの手伝いをする私としては、大切なことが伝わっていないと思い、とても残念に思いました。

アーティストがゼロから場を見い出して、コンセプトを考えて長きに渡ってその可能性を説得してプロジェクトを動かしたのに、最終的に人が注目するのは形に見える箱で、中身のご本尊とゼロからプロジェクトを起こした芸術家の思想と行動では無いんですよね。メディアも形に見える箱は伝えやすいけど、形に見えない芸術家の行動の中身は伝えにくいのでしょう。その時に、次は自分が現場に入り込みプロジェクトをマネージメントし、芸術家の仕事をきちんと世の中に伝えて行く役割を担おうと心に決めました。

私は全然その言葉を信じていなかったんですが、柳さんからも、「ここに住んだ方が良いよ。たくさんいい人に出会えるから。都会だったら大勢の中に埋没するだけだけど、こういう田舎だったら必ず目立つだろ」と言われていました。絶対騙されているなと、疑っていましたね(笑)。でも、その柳さんの言葉が後押しになりました。

2011年6月、29歳の時、百島に移住しました。

「世界に発信するアートを、500人の島から。」


現在は、広島県尾道市にある百島で、廃校になった中学校校舎を再活用したアートセンター「ART BASE MOMOSHIMA」を運営しています。柳さんと恊働者による創作活動を通して、「離島の創造的な再生を試みる」というのがテーマです。私はアーティストのマネジメント全般を担当し、プロジェクトで発生する事務作業は全て引き受けています。

柳さんの作品を見るために、日本だけでなく海外から様々なコレクターが島に訪れます。作品の販売だけでなく、現代美術を広く知ってもらうため、展覧会も行っています。美術史の中でどう作品が残っていくかを大事にして、あえて日本の原風景ともいえる瀬戸内海の離島から海外に発信をしています。

島に移住してから、それまででは出会えないような人とつながる機会が、本当に増えました。国内外の著名なアーティストやコレクター、大企業の会長や社長、地域で行動する仲間達など、東京では絶対に会えないような方に、ここにいるから島のゆったりとした時間と空間で贅沢に会えるんです。最初は信じていませんでしたが、柳さんの予言がどんどん当たっていくんですよね。今では、本当に移住してよかったなと思っています。

島ではみんな顔見知りなので、道で挨拶したり野菜を分けてもらったり、一緒に暮らしている感覚です。東京の時よりも生活費が下がって、海外へ行ける回数が増えたのも嬉しいです。

2019年に瀬戸内国際芸術祭という、瀬戸内に国内外から人が集まる芸術祭があります。そこに広島県も参加し、百島や尾道市からより大規模にアートの発信をできるようになればいいと思っています。元々、香川県、岡山県から始まった芸術祭なのですが、広島も参加する流れを作りたいと考えているんです。行政も巻き込んで、プロジェクトを進めていきたいです。

その他にも、百島町のwebサイトを作ったり、島の案内看板を作ったり、山の清掃や植樹など、アートセンター以外に島の住人としての仕事もしています。地域での活動を応援してもらうためにも、地域のためにできることをやっています。消防団にも入ってますよ。(笑)

これからも、アートマネジメントを通じて、世界に発信するアートを生み出すことに関わりたいですね。そのために、他の人がやっていないようなこと、見たことがないようなものを大切にしたいです。

好きなアーティストを招聘して、「なんでこの島にこんな作品があるの」と、驚きを与えるような作品を、この島から作っていきたいですね。

2016.03.07

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