医師として、人として、子どもたちのために。「ペイ・フォワード」の言葉に込めた思い。

医学部を卒業し、研修医としてキャリアをスタートした古東さん。中学生の時に医師に憧れを持ち始めるものの、「医師を仕事にする」と決断するまでには様々な葛藤がありました。そんな古東さんにお話を伺いました。

古東 麻悠

ことう まゆ|研修医
小児科医を目指し研修医として働きつつ、食育など、子どものための活動に従事する。

アメリカで主張することに慣れて育つ


私は日本で生まれ、1歳からニューヨークで過ごしました。通っていた現地校は、大統領選挙など世間の注目が集まることが起きると、小学生ながらディベートも始まるような環境でした。そのため、自分の意見を主張することを怖がらない性格に育っていきました。

父は「社会のために」と一生懸命仕事をする人で、母は募金活動を行ったり、家でドキュメンタリー番組をよく見るような人でした。そんな両親のもと、私は自分がやりたいと思ったことは何でもさせてもらい、塾、日本語学校、英会話、水泳、油絵、バイオリン、バレエなど、習い事をたくさんしていました。周りに影響され、すぐに自分でもやりたくなってしまうんです。

そして、10歳の時に日本に帰国して、公立の学校に通い始めました。ところが、それまでとは違い、自分の意見を主張すると浮いてしまう日本の環境に、戸惑いを隠せませんでした。アメリカにいた時は、「日本人だ」という感覚を強く持っていましたが、帰国してからは、「日本人っぽくないのかもしれない」と感じてしまったんです。

また、アメリカ同時多発テロが起きた時、父の職場の近くだったこともあって私は強い危機感を覚えていました。ところが、周りの友達はあまり興味がなさそうで、社会に対する問題意識がアメリカとは全然違うと感じてしまったんです。

その環境に違和感を持ってしまったので、中学受験をして、帰国子女が多い私立の中高一貫校に行くことにしました。ところが、実際にその環境に入ってみると、小学校卒業時まで海外にいた周りの友人とは英語力に差があり、劣等感を感じてしまったんです。日本人でもなければ外国人でもないと悩むようになり、英語の勉強からも目を背けるようになってしまいました。

人の命を救う意味


「自分とは何者なのか」と悩みつつも、中学生になると、尊敬していた友人の影響で「発展途上国などで活躍する医師になりたい」と思うようになりました。その友人は、自分の芯を持ちながらも周囲の人とは柔らかく接するバランス感覚を持っていて、周りと摩擦を起こしてしまいがちな私にとって、理想を絵に描いたような人でした。そんな友人が紛争地域で医師として貢献したいと話していたので、漠然と医師に憧れを持つようになったんです。

しかし、ある時、幼馴染に、「人間いずれ死ぬのに、救う意味があるの?」と聞かれ、私は何も答えることができませんでした。この時、私には覚悟が足りなかったと実感しました。そして、医師になりたいとは軽々しく口には出せなくなり、将来どうしたらいいのか悩むようになったんです。

ただ、悩みながらも様々なことを経験するうちに、少しずつ自分の考えを整理できるようになっていきました。

高校生になって友人と行き始めた「世界報道写真展」では、紛争地域や戦争での悲惨な瞬間や、スポーツの世界大会でのワンシーン、宇宙の光景など、様々な写真が展示されていました。1年という短い期間の中で、世界中ではこんなにたくさんのことが同時に起きているのかと驚きましたね。そして、自分の見ていた世界がいかに小さかったか気づき、私の悩みなんてちっぽけだと感じるようになってきました。

また、2年生の夏休みには、学校のボランティア授業の一貫で、病院にお手伝いに行くことがありました。出産を終えた女性が退院するまでのお手伝いをしていたのですが、片足が義足の患者さんがいました。その人は、数年前に交通事故で片足を失ってしまい、事故当時はショックが大きくて、もう生きている意味が無いと思っていたそうです。しかし、「赤ちゃんを抱いている今は、生きていてよかった」と話してくれました。

その瞬間、「命を救う意味」に答えを見出すことができました。長く生きることで、出会いがある。その出会いを作れるならば、命を救う意味があると確信できたんです。

また、私は人格を形成する上で、幼少期の体験から強く影響を受けたと感じていてので、子どものために何かしたいと考えていました。特殊な環境で育ててもらった経験を子どもたちに還元していくことが、両親への一番の恩返しにもなると思っていたんです。そこで、改めて覚悟を決め、発展途上国の子どもに手を差し伸べられる医師を目指し始めました。

インドの孤児院で感じた、求められていない感覚


それからは必死に勉強し、一浪の末、順天堂大学の医学部に進学しました。大学に入ってからは絶対に行きたい場所がいくつかあり、ドイツ国際平和村もそのひとつでした。その村はアフガニスタンなどの紛争によって苦しめられている子どもを連れてきて、医療援助をしている場所でした。

そこで、大学1年の夏休みに村を訪れ、現場でどのようなことが行われているか体験させてもらいました。3週間ほどの滞在でしたが、目指していた世界に一歩近づいた感覚を持つことができましたね。

また、2年の夏にはインドに行き、マザーテレサの建てた孤児院「マザーハウス」でボランティアをすることにしました。しかし、そこは孤児院なので、医療よりも食事などのお世話が中心で、将来、「医者としての私」はここに必要なのか疑問に思ってしまったんです。

そもそも、インドは私が事前に想像していた以上に衝撃的な国でした。驚くほど強烈な匂いがする混沌とした環境の中で、子どもたちは遊んでいました。また、物乞いの子どももたくさんいるし、その子どもたちに物乞いをさせている「雇い主」が、ものをもらってこなかった子どもを叩いている姿も見ました。こういった環境に置かれている子どもたちには、医療よりも、綺麗な水、食料、そして愛してくれる人が求められているんだと感じてしまったんです。

私は、「求められていること」をするのが役目だと思っていたので、途上国では医療以前にクリアしなければならない課題が山積みであることに、ショックを受けてしまいました。昔からマザーテレサを尊敬していて、私なら同じようなことができると思っていました。しかし、求められていないのであれば、仕事として続けるのは難しいと感じてしまったんです。

ライフワークとして子どもに関わる活動を


その後、「私は何で医師を目指してしまったんだろう」と、悩みながら過ごすようになりました。ただ、「すぐには結果が出ないものだから」と言ってくれる人もいて、目の前のことはしっかりやろうと思っていました。

そんな生活を1年ほど送っていると、次第に、たとえ医師としてでなかったとしても、人生を通して何かしらのかたちで子どもに関わりたいと考えるようになっていきました。

自分の気持ちを書き綴った日記を読み返したり、まぶしいくらいに笑っている現地の子どもたちの写真を見返していると、やっぱり子どもの人生に関わる何かをしたいと感じられたんです。環境は違えど、そこには命がある。医療でないとしても、その子たちのために何かできるはずだと。

そこで、医師の仕事としては日本で小児科医をしつつ、ライフワークとして世界中の子どものためになることをしようと決めました。そして、医療以外で子どものためになることは何かと考えると、自然と普段の健康を作る「食育」や、未来を作る「教育」にも関心を持つようになっていったんです。

医師になるための勉強の合間を縫って、野菜ソムリエの資格を取ったり、料理教室で栄養に関して学ぶようになりました。また、アルバイトをしてお金を貯め、長期休みにはカンボジアでのボランティアもしていました。

そうやって6年間の医学部生活を過ごしていき、2015年4月、研修医としてのスタートを切りました。

自分の経験を子どもたちに還元していく


小児科医になるための研修をしているので、子どもと触れ合う時間は多く、この仕事をできて嬉しいですね。私は、子どもは無邪気だけど、意外に大人だと感じています。どんな気持ちで接しているのか、すぐにこちらの心が見透かされてしまいます。だからこそ、子どもと一緒にいると自分自身素直になれるし、そんな自分の状態も好きなのかもしれません。

小児科医にはジェネラリストとしての様々な知識が求められますが、小児科の中でも病気ごとに複数の病棟に分かれています。その中で、個人的には血液腫瘍の専門医になりたいと考えています。血液腫瘍の病気は、治療が難しいことも多くあります。そのため、深い死生観を持つ子どもが多く、それはある意味インドにいる子どもたちにも近いものを感じています。この子たちの人生に貢献できるよう働きながら、私自身、自分の生き方を見つめていきたいと考えています。

まずは医師として100%の仕事ができるように、目の前のことをしっかりと学んでいきたいと考えています。そして、自分のキャパシティを広げていき、100%の仕事をしながらも、ライフワークとして子どものための活動をできるようになりたいと考えています。

日本では、多くの人にとって「健康」は、あたりまえと思われていることなので、まずは医師として、病気になってしまった人を健康な状態に戻すために働きたいと考えています。その上で、その健康な生活を支えている食育や教育の分野でも価値を出していきたいですね。願わくば、発展途上国での「水準」を上げていくようなことができればと思います。

今でも、食育を学ぶ一貫で、休日は料理教室に通ったり、栄養バランスを整えた離乳食を友達の子どもに食べてもらったりしています。教育の分野も、今後は一から勉強していきたいと考えています。

将来に関しては、制限を設けないで色々な選択肢を考えていけたらと思います。目の前のことをしっかりと続けていけば、自分では想像もできなかったところまで行けると、これまでの経験からも実感しているんです。そのために、自分で限界を作らずに、今やるべきことに集中していきます。

医師としても、個人的な活動としても、根底にあるのは子どもたちへの「pay it forward(ペイ・フォワード)」の気持ちです。私がしてきた様々な経験を、子どもたちに還元していけるよう、日々挑戦していきます。

2015.08.14

インタビュー・執筆 | 島田 龍男
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