人生は、言葉によって創り出されている。生きる上で一番大切なのは生涯の友。

ニューヨーク・宮崎県で飲食店を経営しながら、様々なプロジェクトに関わり活動するヒミ*オカジマさん。「全ての現象は言葉が創り出す」と語る背景にはご自身が経験されてきた、奇跡のような体験がありました。人生で一番大切なものは何か気づかせくれる、そんな話を伺いました。

ヒミ*オカジマ

ひみ おかじま|会話人、レストラン経営、行政アドバイザー
ニューヨークのHakata Tonton、宮崎の燈巳家枇(HIMIYABI)を経営しながら
世界中飛び回り様々なプロジェクトに関わっている。

【クラウドファンディングに挑戦中】無農薬循環型農業で作られた幻の牛・尾崎牛。宮崎からNY、世界へ!
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Words Energy 言葉の旅 | ヒミ*オカジマ | TEDxFukuoka

料理人を志す


私は福岡で生まれ育ちました。デザイン制作会社を営む父は魔法使いみたいに何でも作ってしまう人で、お酒も飲まずお金にも無頓着。それとは対照的に、母は父が稼いだお金をザルのように全部使ってしまい、お酒ばかり飲んでいるような人でした。どちらも子育てには放任で、何かを禁止されたりすることはなかったので、私の中に「できない」「危ない」「止めなさい」という言葉は一切ありませんでした。

また、母の料理が驚くほど不味かったので、小さい頃から自分で料理を作るようになり、「フランス料理」というモテそうな響きに惹かれ、高校卒業後は大阪のフランス料理専修学校に進むことにしました。

それと同時に、父が家族解散を宣言しました。母はしばらく前に男を作って家を出ていて、父も疲れてしまっていたんです。

専修学校を卒業してからは色々な人に「料理人として一人前になるのは10年かかる」と言われていたので、それを半分の期間にしたいと考え、人の2倍働くことを決め、レストランに就職して朝から晩まで休まず働きましたね。

また、元々人と話すのが好きだったことから、21歳の頃ホールをやってみないかと言われ、23歳の頃には支配人として働くようになりました。キッチンの頃と変わらず、いかに忙しい時に力を発揮してうまく仕事をこなすかを考えて働くことが、楽しくて仕方ありませんでした。

その後、26歳で退職し独立することにしました。

女性向けのレストランで大成功


お店のコンセプトは、お客さんの10割が女性になるような店舗づくり考えました。気軽に入れる価格に設定して、まだあまり使われていなかったインターネットによる予約システムを導入し、インターネット経由の予約を割引くことも始めました。そして、オードリーヘップバーンの名作にちなんで「ダイニングキッチン・サブリナ」と名づけました。

するとこれが大当たりして、いわゆる女子会層にウケたんです。画期的だったFネット(FAX)やiモードを駆使してリピートしてくれるお客さんも増え、働きたいと言ってくれるお客さんまで出てきて、採用の募集なんてする必要がありませんでしたね。

ただ、彼氏ができると来なくなってしまうお客さんがいると分かったので、カップル向けに「秘密基地」をコンセプトにした2店舗目を出しました。
これも予想通りの大繁盛。そして次は、結婚して家族ができた人向けに料理教室も始めると、NHKで料理番組に出ていたこともあり、これまた絶好調でした。

そんな順調な生活を送っていた2004年、独立してからというもの、しばらく行っていなかった健康診断に行くことにしました。

すると医師に、「すい臓に影があります」と言われたんです。

「この影はこのままの生活を続けたら形になり、そして癌(ガン)になると余命は半年です」

突然そんなことを言われ、改めて自分自身が生きている意味はなんだろうと考えるようになりました。35歳、残りの人生で自分は何をしたいんだろうかと。

食べて美しくなる、コラーゲンを流行らせる


そして考えついたのは、「世界をびっくりさせたい」ということでした。世界が驚くような何かを残したいと思ったんです。

ただ、世界で勝負するため、まずは自分の武器になるものが必要でした。そこで、「食べて健康になる」ものはあるのに「食べて綺麗になる」ものが無いことに気づき、「コラーゲン」に注目し、美容のための豚足料理をふるまう「新美肌促進食堂」をオープンしたんです。ただ、一過性のブームでは終わらせたくないと考え、レシピは全て公開することにしました。これは、明太子を最初に発明した方が「よかろうもん」と言って、レシピを隠さず周りに教えていったことで明太子が食文化になった、という話にヒントを得ました。

すると、日本中から取材やメニューを教えて欲しいという企業が来て、2ヶ月もしない間にコラーゲンは日本全国に知れ渡るようになったんです。そして、美容に効果のある豚足料理という武器を持ち、2006年、36歳でニューヨークに行くことに決めました。

実際に現地に行くと、それまでの常識が通じず、苦労することも多くありました。しかし、逆にそれは「自分の中の常識」を勝手に作ってしまっているだけで、「非常識の世界」に生きている事実を受け入れる必要があるのでは、と考えられるようになりました。

また、様々な日本人の繋がりができるようになり、気づけば「一緒にやりたい」と言ってくれる人たちから、オープンのための資金も集まりました。材料も、送料と加工工賃のみで豚足を譲ってくれる人を見つけ、後は実際にお店を作ってオープンするだけの状況になったんです。

人間にとって大切な、生涯の友達


その時ある人に、「ヒミさん、ビザどうするの?」と聞かれたんです。正直、「ビザって何?」という程無知な状態だったので、ビザの取得のプロフェッショナルである、デービット・シンデル弁護士を紹介してもらいました。

そして、シンデル先生の元に行き、豚足料理のお店を開きたいからビザを取りたいということを話すと、最初は、豚を食べないユダヤ人の彼には全く相手にされませんでした。しかし、話し終える頃には彼も「出資したい」と言ってくれていて、気づけば、ビザではなくビジネスの話でその日は終わってしまったんです。

そして、シンデル先生はフランスに持っている別荘に家族旅行に行くと言っていたので、「料理を作りますよ」と、その家族旅行に付いて行くことにしたんです。(笑)シンデル先生は大成功を収めたいわゆる大金持ちで地位も名声もありました。そんな彼に、人生で一番手に入れたいものは何か聞いてみることにしました。

すると、「何でも素直に話し合える、生涯の友が欲しい」と彼は答えたんです。そんなことを言うもんだから、「じゃ僕が生涯、何でも話し合える友達になるよ、デービット」と答えると、シンデル先生は「本当に!?」と目に涙を浮かべて喜んでくれました。

この時、人間はどこまでいっても寂しさを感じる生き物で、一人では生きていけないんだと感じたんです。また、自分自身、生涯を通した仲間を作りたいし、レストランを仲間作りの場にしていきたいと、改めて人生でやりたいことが明確になったんです。

全ての現象は、言葉が創り出す


その後、オープンしたニューヨークの店も順調で、忙しい生活を送っていました。すると、1ヶ月で6キロも体重が落ちた時期があり、検査のために日本に緊急帰国することにしました。正直、いよいよすい臓がダメになってしまったのかと不安でしたね。

そして日本で2年ぶりに診てもらうと、「すい臓の影が消えている」と言われたんです。こんなの奇跡だと。

この2年間を振り返ると、自分が他の人とする会話や使う言葉はだいぶ変わっていて、この時に、「人は言葉でできているんだ」と強く実感することができたんです。

そう思えたのは、その少し前に父と再会したことも大きく影響していました。TVに出演していた時の私を観て、親戚から連絡をもらって会いに行くと、父は危篤状態で集中治療室に入っていました。もう言葉も分からない状態だったので、画用紙に「産んでくれてありがとう、愛しています」と今までの感謝の気持ちを書いたのですが、その瞬間に呼吸が突然荒くなり、その後集中治療室から出られる程回復したんです。

その後父は「免許さえあれば俺はいくらでも人生をやり直せる」と免許の更新に行こうとしていて、その姿を見て、元々「頭の中に智恵さえあればどこでも生きていける」と考えていた私は、父の影響を強く受けていたんだと感じましたね。

昔から「言葉が先か、現象が先か?」と考えていたけど、全ては頭の中で考えた言葉が先にきて、その通りに現象が引き起こされること。イメージしたことに、やっぱりできないことなんてないんだと実感したんです。

震災対応で見つけた、自分が生きてきた意味


そして、それからはニューヨークに飲食店を出した経験を武器に、国をまたいだ行政の仕事にも携わるようになりました。商工会議所での講演会から始まり、福岡県の仕事や、観光長長官や佐賀県武雄市長のお手伝いをするようになり、ニューヨークで日本文化を伝えるストリートフェアなんかも開催しました。

そんな時に、東日本大震災が起こりました。大変なことが起こってしまったと、イベントや募金集めをして支援しましたが、どこか自分ごととして感じられない違和感もありました。よく考えると、東北には友達がいなかったので、どこかホッとしている自分がいたんです。

そして震災から2ヶ月程経った5月5日、被災地陸前高田市の戸羽市長と、全国から集まった10人ほどの市長で今後の対策を考えるための場が持たれ、その会議に参加することになりました。しかし、戸羽市長は大変落ち込んでいたし、他の自治体から人を派遣しても住む場所すらないことが問題で、革新的な策が見つからないまま会議は終わろうとしていました。

それまで全く発言のなかった私は、「最後に何かありますか?」と聞かれ、「戸羽市長には、何でも話し合える友達はいますか?」と聞きました。会場は静寂と化しましたが、私は続けました。

何でも話せる友達がいたら、この場は必要なかったかもしれないこと。でもこの場に来てくれた皆さんは、友達になりたいと思っているかもしれないということ。そして何ができるか分からないけど、友達になり被災地に行くことを伝え会議は終わりました。

しかし、実際に被災地の状況を目前にすると、自分がどうにかできる問題ではないと思い、そのことを正直に市長にも伝えました。ただ、その後もニューヨークから毎月陸前高田にお弁当を届け、市長と一緒にご飯を食べながら話すようになり、九州に来て欲しいと伝えました。九州の人と心の距離が縮まったら、必ず力になってくれると思ったし、その人同士を繋ぐことが自分のできることだと感じたんです。

そして、市長を福岡へ迎え多くのイベントを開催しました。すると、「市長が九州に来てくれたから」と、その後述べ3万人以上の九州の人々が陸前高田にボランティアに行ったんです。

この時、これまで自分が九州で行政の仕事も含めて色々な活動をしてきたのは、このためだったんだと感じました。また、自分は仲間のために役に立つことができるし、智慧を生み出せることも分かったんです。

言葉で創り出される人生を楽しんでいく


このように、現在も様々なプロジェクトに関わっています。ニューヨークのお店は、宮崎に2店舗目を出店をしました。宮崎は日本で一番不景気な場所と言われているので、この地を盛り上げるために挑戦したいと考えたんです。想像以上に苦戦を強いられていますが、やったからこそ見えてくるものも多く、どんどん新しいことを知れるのが面白いですね。これを乗り越えたら一回り成長するだろうと、困難を楽しんでいます。

また、武雄市でパクチー産業を興そうと画策しています。近年、猪による農業被害が多発しているのですが、猪が嫌いなパクチーを柵代わりに育てることで安価に対策ができるんです。パクチーに医療効果があるんじゃないかと調査もしていて、それも分かればもっと展開が増えるんじゃないかと考えています。

さらに、日本を海外に本当に知ってもらうための日本物産館を海外各地に作るプロジェクトにも携わっています。日本文化を知ってもらう「イベント」だと一過性で終わってしまうので、常に日本の生活を知ることができる「場所」として、ビルを一棟まるごと使いイベントスペースや物販スペースなどを設けるんです。また、場所を作ることで、そこで働く人向けにビザのハードルを下げたいという思いもあります。海外で働くための一番高いハードルであるビザの障壁をなくすことで、日本人の目がより海外に向くようになればいいと。

これからも色々なプロジェクトに携わっていきますが、自分の役割は、あくまでもアイディアを出すことだと考えています。その頭の中にあるアイディアを言葉にすることで、いくらでも実現していくことができます。

そして、その時々でどんな言葉を使っているか、それが人生なんだと思います。

実は、母にもTVのおかげで30年ぶりに再会しました。その時も父と同じように感謝の言葉を伝えると、「あんたが世界で戦えるのは、私がちゃんと調教したおかげだよ」って言うんですよ。(笑)なんて都合の良い人だと思いましたが、私の物事を都合よく解釈する性格は母親譲りなんだって気づけましたね。

私の人生は父や母、今まで出会った友達と交わした言葉でできている、そう思いますね。今後も自分の言葉を大切に生き、自分自身の人生の物語を創っていきます。

2015.02.16

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