「ロスゼロ」を文化にする。 もったいない が無くなる社会を目指して。

食品ロス・フードロス削減を目指したプラットフォーム「ロスゼロ」を運営する文さん。根底にあるのは「もったいないものを活かしたい」という想いだといいます。なぜ今ロスゼロ事業に取り組むのか、そこに至るまでの背景と想いを伺います。

文 美月

ぶん みつき|株式会社ロスゼロ代表取締役
1970年生まれ。在日韓国人3世として育つ。のちに日本国籍を取得。同志社大学経済学部を卒業後、日本生命保険相互会社入社。韓国留学・結婚・出産を経て有限会社リトルムーン(現リトルムーンインターナショナル株式会社)設立。2010年から、使われなくなったヘアアクセサリーを日本中で回収し、アジアの途上国の少女に贈る活動を開始。2014年、NPO法人同志社大学産官学連携支援ネットワーク理事就任。2015年、株式会社ビューティフルスマイル(現株式会社ロスゼロ)設立。2018年、食品ロス削減事業「ロスゼロ」を立ち上げ。

名前とアイデンティティ


奈良県奈良市で、在日韓国人の3世として生まれました。父は厳格な人で、在日韓国人であることから「人の何倍も頑張って、ようやくスタートラインに立っていると思え」「誰とでも結婚できるわけではない」「希望の会社に就職できるとは限らない」などとよく言っていました。一方で、「自分に誇りを持て」とも。

どういうことなのか、私にはよくわかりませんでした。周りの日本の子と同じ黒い髪と目。日本語を話して日本の学校に通い、日本姓を使っていたので、周囲は私が韓国人だと知りません。「自分が韓国人だと言っちゃいけないのかな」と感じ、韓国姓を明かすことはありませんでした。

学校では、バスケットボールに打ち込み、快活に過ごしていました。でも、名前を明かしていないことでどこか本当の自分ではないような気がしていて。自発的に生きているというより、生かされている感覚でした。

大学に進学するとき、父から姓を変えろと言われました。「これから就職や結婚などライフイベントが出てくるから、本名で堂々と生きたほうがいい」と。私自身は変えたい気持ちはありませんでしたが、父はやると言ったら絶対に実行するタイプ。これは本気だと思い、「文」という姓に変えました。

名前が変わったことで、すごく楽になりました。友達が去っていくことも、誰かに文句を言われることもありませんでした。私個人を見て判断してくれているんだと感じました。自分がちゃんとしていれば、ちゃんと見てもらえる。だから、私は私として背筋を伸ばして生きていけばいいんだとわかったのです。18歳で文という名前になって、初めて自分の人生が始まった感じがしたのです。

ルーツと向き合う


20歳になっても父は変わらず厳しく、門限は絶対でした。女は家にいるのが当たり前という価値観だったので、大学には自宅から通える範囲で進学させてもらえましたが、何もできないと批判されることもありました。そんな扱いに対して反骨心が芽生え、自分でやってみるまではわからない、自分で切り開いていこうと考えていましたね。

一方で、同じ年の頃の父を考えるようになりました。父は20歳の頃には、数人を雇って自分で事業をしていました。9歳で両親を亡くし、小学校すら卒業できずに働いて、やがて事業を始めたのです。今よりもずっと差別のある時代に、日本社会でなんとか生きてきたことを思うと、めちゃくちゃなことを言う父のことが少し理解できた気がしました。

父も本当は、もっと勉強したかったかもしれない。母も親戚もそうだったかもしれない。そう考えると、今この時代に生まれて大学までいかせてもらった自分は、感謝しなければならないと思いました。同時に、「大学を出ただけの、ただの女の子で終わっちゃあかんな」とも思ったんです。普通に卒業して普通の人になったのでは両親に悪い。もっと勉強を頑張って、しっかりスキルを身につけようと。

熱心に勉強しました。しかし就職活動になると、就職部の先生から「韓国姓で大企業に入れた文系の学生は一人もいない」と断言されたんです。思わぬ壁でしたが、「これは去年までの実績であって、自分で動くまではわからない」と思いました。そこで大企業に応募してみると、大手生命保険会社から総合職として内定をいただくことができたんです。その頃はまだ同志社から女性総合職を採用していなかったので、私が第一号でした。誰かに無理だと言われても、その選択肢を潰すことはないんだと学びましたね。

晴れて大手生命保険会社で働き始めることができました。収入もよく充実していました。その後、日本人の男性と結婚を考えるように。しかし両親に話すと、相手が日本人であることを理由に反対され、破談になってしまったのです。

日本でみんなと一緒に過ごしているのに、就職や結婚など人生の節目になると、明らかに壁ができるんです。「あなたはみんなと一緒じゃないから、ここで立ち止まって」とでも言うかのような。それは、私が韓国人だからでした。でも、私は韓国を知りません。思考も感性も日本的。言葉も、家の中に残る文化の意味もよく知らない。「誇りを持て」という父の言葉の意味もわかりません。過去を押し付けられている感じがして苦しく思いました。

いろいろなことを考え、だったら一度自分のルーツを知ろうと決めました。韓国に行って自分のルーツを知った上で一つの軸ができたら、スッキリ生きていけるだろうと思ったのです。せっかく入った会社だという思いもありましたが、退職して韓国に留学しました。

言葉や文化を学ぶ中で、これまで知らなかった自分のルーツを理解できました。それを知った上で、日本で生きていこうと決めたんです。軸は日本。でも両国の視点があるのは私の強みになっていくはず。同じく韓国に留学に来ていた男性と出会い、結婚。日本に戻りました。アイデンティティ探しの旅が終わった気がしました。

自分を活かせないもったいなさ


結婚後は2人の子どもに恵まれ、4年ほど専業主婦として過ごしました。20代後半から30代にかけては、様々な道を選ぶ人がいます。大学の友人たちはまだ結婚していない人が多く、海外に行ったり大学院に行ったり転職したり、キャリアを築いていっていました。みんなが輝いているように見えて、強い孤独感がありました。

仕事には一生懸命取り組みましたが、これといったキャリアがないまま専業主婦になって。何かやりたい気持ちはあるのに掴めない自分に悶々としました。もう一度働きたいと思って面接を受けましたが、全く受からないんです。待機児童問題もあり、すでに働いているならいざ知らず、就職活動をするために預かってくれる保育園は見つかりませんでした。

お母さんが働くためには、実家や周囲のサポート体制が整っていて、本人に体力があって、子どもが健康で、パートナーに理解があって家事を手伝ってもらえて…などなど、かなりの条件が必要です。いくら本人のモチベーションが高くても、そんなに条件が揃うことはなかなかないんですよね。男性は何人子どもがいても働き続けられるのに、理不尽さを感じました。好きな相手と結婚して子どもも授かることができた。それは幸せなことのはずです。なのに、どんどん社会性が欠けていく自分にショックを受けていました。

働きたい気持ちはあるのに雇ってもらえない。社会に潜って、誰にも見つけてもらえない。そんな私がもったいないと思いました。そして、同じ思いをしているもったいない女性たちが、この世界にはたくさんいるはずだと。

この時、私は30歳。バイトという選択肢もありましたが、バイトではなかなかスキルが身につけられません。40歳50歳になった時、30歳の今と同じスキルしか持っておらず同じ仕事をしている自分を想像すると、笑っている姿が描けませんでした。

ではどうするか。今、私には何もできないけれど、とりあえず今日が人生で一番若い日だと思いました。待っていても変わらない。誰も雇ってくれないなら、自分で自分を雇おうと決めたんです。自分が雇い主だったら、二度と誰も私をクビにできませんから。

ほんの少しのディスアドバンテージで働くというスタートラインにすら立てず、自分を活かせず悲しんでいる、もったいない状態のお母さんたちが世界にはたくさんいるはずです。いつか私が、そんな人たちを雇えるようになろうと思ったのです。

自分で売った3千円の喜び


追い詰められて起業という選択肢を選び、事業を考えていた矢先、ラジオで二泊三日の韓国旅行が当たりました。何かしようと思っている今当たったのは、「絶対に行け」と運命の神様に背中を押されている感じがしました。そこで親に頭を下げて子どもを預け、夫に会社を休んでもらい、2泊3日で2人でソウルへ。ソウルで韓国雑貨を仕入れ、それを元に、ネットショップを立ち上げました。

わからないことばかりの中、なんとかページを作り販売を開始しました。なかなか商品は売れませんでしたね。しかし1カ月経った時、初めてお客さんが商品を購入してくれたのです。3980円の商品を買った東京のお客さんから、「ありがとう」とメールが来たんですよ。それがすごく嬉しかったんです。

生命保険会社で働いていた時は、融資部にいたので数億単位のお金を貸し出す仕事をしていました。でも、会社のお金を3億円動かすよりも、自分で稼いだ3千円が私には響いたんです。金額は大きくなくても、自分の力で人のお役に立てて、しかも「ありがとう」と言ってもらえることが、社会に戻りたくて仕方なかった私にとってどれだけ嬉しかったか。自分で仕事をするってこういうことなんだ、と知りました。

その楽しさを知ってからは、どうやったらもっと人の役に立てるだろうか、どんな商品だったら喜ばれるだろうかと考え工夫しながら、ショップを拡大していきました。

最初はなかなかうまくいきませんでした。ビジネスなんてわからないので、粗利と売上の違いがわからず騙されたこともあります。でも、失敗を重ねながらも実践を繰り返していったんです。

1年半が経ち、試行錯誤の中でヘアアクセサリーに特化して販売するようになると、売上が伸びていきました。徐々に社員を雇えるように。さらに自社商品を作れるよう、韓国や中国に工場を探しにいき、自分たちでオリジナルのアクセサリーの開発もするようになりました。

しかし、苦しいこともありました。韓国姓であることを理由にネット上で誹謗中傷を受けるようになったんです。根も葉もない噂が書き込まれ、インターネットが怖くなってしまいました。これまで一生懸命やってきたのに、どうしてこんな結果になるんだろうと辛くて。机の前に座れなくなり、仕事ができなくなりました。

その間、いろいろなことを考えました。私が韓国にルーツがあることは、名前を見ればわかる事実。でもだからこそ、それを理由にされないようにもっと胸を張って真摯に仕事をしようと思えるんですよね。いろいろな人が見ている分、批判されないように人より良くあろうと思えるんです。だから絶対、より良くなれる。自分のルーツを力に変えて、もう一度頑張ろうと思いました。人と違うことは、きっと自分の強みにもなるはずだと考えられるようになり、半年後、仕事を再開しました。

もったいないを解決したい


再開後、「もっと良い会社になるためにはどうしたらいいか」を真剣に考えました。ちょうど世の中でも、企業も社会的責任を果たすべきという考えから社会貢献活動が生まれてきたころでした。利益を追求するだけでなく、社会に対して還元できる活動ができないかと思ったのです。

まずは私たちが扱っているヘアアクセサリーで何かできないかと考えました。綺麗なものや可愛いものを身につけると元気になれることもあるので、発展途上国の女の子たちにヘアアクセサリーを送ったらどうかと思い浮かびました。

ただ私は、途上国の現状をよく知りません。まず知人に相談して、中学校に通えない東南アジアの子どもたちへの奨学金制度を教えてもらい、お金を送るところから始めました。すると折良く、奨学金を出している人向けに、現地の子どもたちと触れ合えるツアーが始まったのです。子どもたちに会って、ヘアアクセサリーをつけてあげたい!と思いました。行き先のラオスの村に女の子が何人いるか確認して、トランクいっぱいに、自社で作っていたヘアアクセサリーのサンプルなどを詰め込んで現地に向かいました。

村につくと、女の子たちはヘアアクセサリーをすごく喜んでくれました。可愛くなって嬉しい気持ちは世界共通。たとえば本がなくて困っている村でも、別の次元でヘアアクセサリーは役に立てると感じました。うちの会社の事業との親和性を生かして、やっていけると手応えを持ったのです。

ただ一方で、課題もわかりました。たまたま高級なアクセサリーを手に入れた子どもが、親にアクセサリーを売り払われて泣いていて、値段に差があってはいけないんだと学習しましたね。そして何より、続けていくための仕組みが必要だと思いました。

まずたくさんのヘアアクセサリーが必要なので、いろんな人を巻き込む形にして集めようと思いました。ちょうどネットショップにクーポン機能ができたところだったので、使っていないヘアアクセサリーを送ってくれた人に、割引クーポンを発行する仕様にしたのです。うまくいき、回収の仕組みができました。その後いろいろな人に紹介をお願いして繋いでもらい、途上国の女の子たちにヘアアクセサリーを送れるようになりました。翌年には、10ヶ国に届けられるようになったんです。

数年続けていくうちに、このモデルを使っていろんなことができるのではないか?と考え始めました。回収しているヘアアクセサリーは、髪を切ったから、子どもが大きくなったから、などのさまざまな理由で使われなくなったもの。そのままだともったいないから、必要としている人に届けて再度使ってもらう仕組みを作ったのでした。

専業主婦のときに働きたいけれど働けなかった私のように、世の中に「もったいない」ものはたくさんあるはずです。それを必要としている人に届ける仕組みを作れば、もったいないを解消できるかもしれないと思ったのです。

売り手と買い手の橋渡し


世の中で一番もったいないものってなんだろうと考え、食べ物ではないかと思いました。そこで、フードロスを解決できるビジネスを作れないかと思いついたのです。

ただ、その頃の私は40代後半。仕事に加え、全国での講演、女性起業家のサポート、大学での講義をする立場になっており、新しいチャレンジに尻込みする気持ちがありました。最初の起業は何も知らなかったから怖くなかったけれど、失敗も様々見てきて以前より保守的になっていたんです。「先生」と呼ばれる私が今失敗したら、周囲に笑われてしまうんじゃないかという気持ちもありました。

しかしある人に話したら、「失敗して思いっきりコケたら、それが後輩の良い教材になるよ」と言われたんです。その言葉で気が楽になりました。誰かが学びにしてくれるなら、コケてもいい。失敗したと指をさされても、もう1回立ち上がるところまで含めて見てもらえれば、それはそれでいいのかなと思うことができたんです。新しいことに挑戦しようと決めました。

まず、食品メーカーからロスを無くせないかと考えました。例えば売り場がなくなり大量に在庫が発生してしまったとき、規格外品ができてしまったとき。付加価値の高いものを作っている企業ほど、ブランド毀損を恐れて訳あり品を市場に出すのが難しい現状があります。一方で、訳あり品であっても、良い商品であれば買いたいという消費者はいるはず。両者を繋げられないかと考えました。

フードロス削減のためという旗をしっかり振ることができれば、企業はブランドを毀損せずに商品を市場に出すことができるし、消費者も社会に対して良いことができると知った上で気持ちよく買い物ができると思ったのです。

そこで、あるクラウドファンディングで検証をしました。カンボジアの子どもたちにトイレを作るプロジェクトのリターンに、フードロスを解決する商品として京都の高級菓子の規格外品を出してもらったのです。このクラウドファンディングに参加してくれる人は、カンボジアの支援、フードロス解決に関わりながら高級菓子を購入できるので、両者に対してwin-winなのではないかと仮説を立てたのです。

企画はうまくいき、かなりのシェアを獲得しプロジェクトを成功させることができました。食品メーカーと消費者との間の橋渡しがうまくいった、と手応えを得られましたね。

同じ状況や悩みを抱えた食品メーカーは他にもあるだろうと考え、営業していきました。賛同してくれるメーカーさんが増え、食品ロス、フードロスを解消するサービスとして「ロスゼロ」を立ち上げることができたのです。

「ロスゼロする」を文化に


いまは、株式会社ロスゼロの代表として、主に食品メーカーさんの在庫の余剰や規格外品などを中心に、ウェブで販売しています。加えて、未利用のまま捨てられてしまう野菜や果物、製菓材料などを組み合わせたお菓子の開発、販売もしていますね。

日本では年間600万トンのフードロスが発生していると言われます。生み出された食品は、廃棄するにもお金がかかります。そんな現状に対して私たちの役割は、作り手と買い手の間に橋を架けることだと考えています。メーカーさん、生産者さんの事情をしっかりお客様にわかっていただき、せっかく生まれた商品を美味しく、納得して食べていただけるよう、つないでいきたいですね。

他社とのさまざまな共創も生まれています。大企業の若手中堅社員の実践コミュニティ「ONE JAPAN」との共創プログラムでは、2つのコラボができました。一つは株式会社マッキャンエリクソンとのサブスクリプションサービス。これまでもサブスクに関心はあったのですが、食品ロスは不定期に生じるので、どうしても定期便を作るのが難しいという課題がありました。しかし、それをむしろ特徴として知っていただき、不定期便として始めれば良いではとアイデアをいただいたのです。そこで、食品ロスを体感できるサービスとして「ロスゼロ不定期便」を開始しました。11月から一般販売を開始したところ、開始1カ月で900人からお申し込みがあり、好評をいただいています。

もう一つは、東急株式会社とのコラボレーション。これまでロスゼロはオンラインで展開していたので、オフラインの拠点がありませんでした。オフラインでフードロスについて知っていただく機会を創出しようと、東急が運営する大井町のカフェ「PARK COFFEE」で販売体験会を実施しました。そこでロスゼロを知っていただいた方には、不定期便の受付も行うようにしています。この共創プログラムではさらにアイデアも生まれているので、これからに生かしたいですね。

今後は、食品だけに止まらず範囲を広げて、服や人材などいろいろな領域で「もったいない」をなくす取り組みができればと考えています。そういった活動を広げることで、もったいないをなくす=「ロスゼロする」という動詞ができたらいいなと思っているんです。グーグル検索することを「ググる」というように、考え方や行動が根付くと動詞になると思うんですよね。だから、最後にはロスゼロするという動詞を浸透させて、もったいないものをなくす行為が文化に根付くといいなと思っています。

個人的には、60代でアメリカに留学して、若者と一緒に経営学を学びたいと思っています。今まで実践の中で経営を学んできましたが、体系的に勉強したいなと。言語も文化も違う人と出会いたいという好奇心がいつもあります。いくつになっても失敗を恐れず、今の自分と全然違うところで挑戦し続けたいですね。帰国したら、無理しない範囲で3回目の起業をして、70代になったらおばあちゃん起業家になることが今の夢です。

2021.12.20

インタビュー・ライティング | 粟村 千愛
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