どんな時もサッカーが好きだった。 人の縁に支えられ、切り拓くサッカー人生。

高校卒業と同時に日本を飛び出し、ブラジル、ドイツ、カンボジアでサッカー選手としてプレーしてきた影山さん。人の縁に支えられながら、サッカー人生を切り拓いてきました。 日本とは全く異なる国、文化の中で生活するなかで、サッカーだけではなく人生観の面でも大きな影響を受けたそうです。海外でのサッカー経験や今後の展望についてお話を伺いました。

影山 玲乙

かげやま れお|サッカー選手
茨城県古河市出身。鹿島アントラーズつくばJr.ユースに中学3年間所属。岡山県作陽高校卒業後、ブラジルに渡りECヴィトーリア(当時1部のU20のカテゴリー)など2年間で様々なチームに所属。その後ドイツに渡り、SF köllerbachで1年間プレーし日本に帰国。EDO ALL UNITED (旧:ONE TOKYO)に所属後、カンボジアのチームでプロサッカー選手として活動。

ブラジルサッカーへの強烈な憧れ


茨城県古河市で生まれました。その後、母の実家・軽井沢に移って暮らしました。父母は働いていたので祖父母に育ててもらっていて、おじいちゃんっ子でしたね。ゲームよりも友達と外で遊ぶ方が好きな、かなり活発でやんちゃな子どもでした。

小学校1年生の時に古河市に戻り、サッカーを始めました。野球かサッカーで迷ったのですが、古河市はサッカーが盛んな地域だったんです。

小学校3年生の時に、ドイツワールドカップが開催されました。その時にブラジル代表の試合を観て、「ブラジルで必ずプレーしたい」という強烈な感情が芽生えました。楽しそうにサッカーをするそのプレースタイルにも憧れましたし、しょうもない理由ですが外国人のサポーターを見て「すごい美人だな。外国に行ってみたい!」と思ったんです(笑)

中学に入ってからはJリーグ強豪チームのジュニアユースチームに所属しました。母が送り迎えをしてくれて、車で片道2時間かけて練習に通いました。夜帰ってくるのが遅かったので、朝はギリギリまで寝て登校する生活でしたね。

勉強は好きにはなれませんでした。でも、チームには学校の成績や素行があまりにも悪かったら練習に参加できないというルールがあったので、最低限の勉強はしていました。サッカーがなかったら道を逸れてしまったかもしれません。「自分にはサッカーしかない」と子供心に思ってました。だからサッカーだけは休まず、意地でも練習に通っていました。

僕が所属していたユースのチームでは、中学3年次に必ずブラジル遠征があります。3週間という短い期間でしたが、本場のブラジルサッカーと文化を肌で感じることができ、「必ずブラジルに行く」と決心しました。

高校に進学するも、怪我に苦しむ


このような状況だったので、進路を決める時はブラジル留学一択でした。しかし、母とジュニアユースチームの監督に「高校だけは行ってほしい」と強く背中を押され、最終的に高校進学を決意します。

ただ、そこから高校進学までの道のりは簡単ではありませんでした。元々、高校のサッカーチームからいくつかお誘いはいただいていたのですが、ブラジルに行くつもりだったので全て断ってしまっていたんです。僕はサッカーしかやってこなかったので、勉強で高校に行くのは厳しいと中学生ながら分かっていました。

最終的に、12月頃に学校長推薦で高校入学が決まりました。本当に色々な方に助けていただいたと感謝しています。「高校に進学したら、Jリーグに入ることを目標に3年間頑張ろう」と、強く心に決めました。

高校に入学して、最初はいいイメージでプレーができていました。悪くないスタートだったと思います。しかし、怪我をしてしまい8カ月ほど練習を離脱、高校2年生の海外遠征で一時復帰しましたが、その後復帰して怪我をしてを繰り返し、高校生活を終えてしまいました。公式戦は3年間で、ほとんど出ていません。

でも、腐ってしまったり、ネガティブな気持ちになったりはしませんでした。試合に出れなかったとしても、サッカーが好きだったからです。「自分だったらこうプレーするのにな」と考える時間になりましたし、周りの人の気持ちに気づくことができました。

僕は中学まで、ずっとピッチに出ていて、サポート役をしたことがありませんでした。その時初めて試合に出てない選手の気持ち、ベンチに下げられた時の選手の気持ちを考えるようになったんです。

ただ、怪我でほとんどサッカーができなかったので、日本でプロサッカー選手の道に進むのは厳しいと感じていました。だったら、ずっと行きたかったブラジルに行こうと、高校2年生の時に決意しました。

ブラジル現地に知り合いがいなかったので、中学の時にお世話になっていたコーチに連絡して、ブラジルにコネクションを持っているJリーグの方に繋げてもらいました。そこから現地のブラジル人を紹介してもらったんです。渡航費はバイトして片道分、自分で用意しました。1年間色々と準備して、卒業後すぐに飛び出しました。迷いはなかったです。

ブラジル生活がターニングポイントに


ブラジルでは、チームの寮で生活することになりました。入ったチームは、育成年代の選手が無料で寮に住むことができたんです。でも、場所にもよりますが、日本みたいに綺麗なところばかりではありません。ネズミも出ますし、お金を盗られることもあります。盗られたと訴えても「失くしたヤツが悪い」と一蹴されました。

何もかもが日本と違いました。手続きや契約も日本みたいにすぐに進まないし、契約書を書いても最後の最後でひっくり返ることもあります。

日本人は金持ちだと思われていて「金でチームに入ったんだろ」と、言葉をぶつけられることもありました。そんな環境だったので、日本から来た選手の中には、帰国してしまう人も少なくありません。厳しい環境でしたが、続けられたのはサッカーが好きだったからです。意地悪なことを言われても、ゴールやアシストなど結果を見せれば仲間として徐々に認めてもらえました。

上手い選手たちとプレーするうち、「自分はまだまだだった」と思うようになりました。僕は中学校までは良いチームでプレーさせてもらっているという自負があって、自意識過剰で生意気な奴でした。高校で先輩に怒られても素直に言葉を受け取れず、迷惑をかけることもしょっちゅうでした。

でも、ブラジルでさまざまな人と触れ合うなかで、コーチや先輩、同期のチームメイトたちに言われていたことが腑に落ちるようになったんです。僕には、サッカー以外で足りないことが多かった。だから高校時代に試合に出られていたとしても、そういう至らなさが、ピッチの上で出てしまっていたはずです。たとえ怪我をしていなくても、主力選手として活躍できなかっただろうと思いました。

ブラジルでは、「こんな酷い環境で生活してるんだ」「こんなに少ししか、ご飯を食べられないんだ」という場面に何度も遭遇しました。日本では考えられないですが、銃を持っている人も身近にいました。そういうことを経験していくうちに、「日本は安全でいい国なんだ、恵まれた場所でサッカーができていたんだ」と実感するようになったんです。

ブラジルでは、サッカーは家族を助けるための仕事の一つです。「今日ダメだったら明日はない」という場所でサッカーをしていて、日本人にはない覚悟を感じました。でも、貧しい環境に暮らしている人たちでも楽しく過ごしているんです。日本には、多くのゲームや娯楽がありますが、僕が見てきたブラジル人たちは、ボールひとつで本当に楽しそうに遊んでいるんです。彼らは、純粋に楽しく生きていると感じました。18歳でそういう世界を知った経験は自分にとって大きく、人生観にも大きな影響を受けました。

大きなカルチャーショックを受けた反面、子供の頃感じたブラジルサッカーへの憧れは正しかったと確信もしていました。また、ブラジル人はオープンで上下関係もなく「喋ったら友達」という気質だったので、自分の性格に合っていました。

ドイツ、日本を経てカンボジアでプロに


ブラジルでは、プロの登竜門とも言われる、育成年代の大きな大会に出場することを目指していました。しかし結局、その大会に出場することは叶わず。ビザの関係で帰国しなければならなくなりました。

その後は、ドイツに渡りました。僕の2つ上くらいの人たちがドイツに行くことが多かったのですが、ブラジルと比較すると豊かで環境的にも良さそうだと感じたんです。1年目はワーキングホリデービザを取得し、アマチュアリーグのチームに所属しました。その後、ドイツのチームと契約する話もあったのですが、就労ビザを取得するのに給料の金額がわずかに足りず、日本に帰国することになりました。

帰国後は、高校の監督をはじめ、いろいろな方が縁を繋いでくれてJ1の練習に参加できることに。ドイツのセミプロ以下のチームでプレーしていた選手が練習に参加できることはほとんどありません。そのような経験をさせていただいた方々には本当に感謝しています。

Jリーグのトップの練習はすごかった。代表選手もいて「ほんまのプロってこうなんや」と衝撃を受けました。この時に、プロ契約するために必要なレベルを強く認識し「これだけは自信がある」というストロングポイントを見つけないとダメだと痛感しました。

いくつかJリーグのチームのトライアウトを受けたのですが契約できず、2020年から本田圭佑さんが発起人の社会人チームに所属しました。

アマチュアからJリーグの練習参加は難しいと思っていた頃、「カンボジアでプレーしてみてはどうか」と、お世話になっている方に声をかけてもらい、チームを紹介してもらいました。「社会人でやるよりもプロのリーグでプレーしたい。とにかく1年間やってみよう」とカンボジアに渡ることを決意しました。

カンボジアは、予想していた環境と全然違いました。チームメイトたちとは、お互いの認識を共有するのに時間がかかったし、彼ら一人一人の特徴を理解しつつ、僕自身のプレースタイルを発揮しなければならない。僕にとっては難しいことも多い一年でしたが、カンボジアで活動できたことは本当に良かったと思っています。

どんな時も好きなことを貫いてきた


現在は、カンボジアでのプレーを終え日本に帰国しています。来年は日本でチャレンジしたいと考えていて、いまはその準備期間中です。

よく「どうしてそんなにサッカーが好きなの?」と聞かれることがあるのですが、子どもの頃から、ただただずっと好きで一度も嫌いになったことがないんです。どんな環境だったとしても、サッカーが楽しくて仕方ない。

ただ、思い描いている場所には全然辿り着けていません。年齢的にも、一般的に考えると厳しいことも分かっています。でも、チャンスはいつ来るかわかりません。

社会人としての経験はないけれど、海外で様々な経験をした中で、この国でなんとか生きていく方法はいくらでもあると思うんですよ。でも、サッカーができるのは今しかありません。諦めなければ形になると信じて、後悔のないサッカー人生を送りたいです。

2021.11.22

インタビュー | 粟村 千愛ライティング | 佐藤 まり子写真 | 小山 大志
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