反骨精神で叶えたプロレスラーの夢。 悔いない人生のために全力で戦う

DDTプロレスリングに所属し、プロレスラーとして活動する樋口さん。幼い頃レスラーに憧れて格闘技を始め、高校卒業後は「北道山」という四股名で幕下の力士として土俵に上がっていたんだとか。樋口さんがプロレスラーの夢を叶えるまでには、どんなことがあったのか。そしていま、どんな想いで戦うのか。お話を伺いました。

樋口 和貞

ひぐち かずさだ|プロレスラー
1988年北海道生まれ。2013年12月まで大相撲の八角部屋に所属し、北道山の四股名で活動。プロレス転向後はDDTプロレスリングが新たに立ち上げた若手団体『DNA』をトップとして牽引してきたが、2017年7月の後楽園大会を最後に卒業し、DDTへ移籍。坂口征夫、赤井沙希とともに『イラプション』を結成している。

諦めずに戦う姿に心を打たれた


北海道紋別市で生まれました。もともと身体が大きく、活発でやんちゃな子どもでした。親曰く、興味があることに対しては実際にやってみないと気が済まなかったみたいです。じいちゃんの家に遊びに行った時に、塗装用のスプレーを見つけて「これを口に入れたらどうなるんだろう?」と本当にスプレーを口に吹きかけてしまい、怒られたこともありました(笑)。

小学校では部活で野球をやっていました。体を動かすのが好きで始めましたが、全然上手くなりませんでした。球技のセンスがなかったんですよね。才能がないなと感じていた小学6年生の頃、たまたま親が録画していた深夜のプロレス番組を一緒に観ることに。二人一組で戦う年末の世界最強タッグ決定リーグの優勝決定戦で、いざ観てみると「なんだこれは」と。すごく面白くて驚いたんです。

一方のタッグは強くて注目されていた若手のチームだったのですが、僕はなぜかもう一方のタッグに惹かれて。そのうちの一人は、たぶん年齢的にも体の状態が万全ではなくて、思うように動けない。それをもう一人のレスラーが必死にサポートをしながら二人で諦めずに戦う姿に心を打たれてしまったんです。その強烈な印象から「自分もこんなすごい人たちみたいなりたい」と思い、プロレスラーに憧れを持つようになりました。

しかし具体的にどうしたらプロレスラーになれるのかはわからず、「格闘技をやっておいた方がいいだろうな」という単純な思考で、地元の少年団で柔道を始めることにしました。

努力が実を結ぶことを知った


それから週に3回、柔道の練習をするようになったのですが、毎回ズタボロになって泣かされていましたね(笑)。投げられ、潰され、押さえ込まれ、動けと言われても動けずにまた潰されての繰り返しで、とにかく悔しかったです。すごく弱かったし、最初の1~2年は本当にずっと泣いていましたが、「いつか見てろよ」という気持ちで頑張って通い続けましたね。

中学でも部活には入らず、同じ少年団で柔道を続けました。相変わらず練習でも大会でもボコボコにされて、何度も辞めようと考えましたが「ダメだ、ダメだ」と思って。「プロレスラーになるには柔道をやっておかないと」という気持ちで、いつも踏みとどまっていました。すると中学3年になってようやく人を投げられるようになり、少しずつ勝てる大会が増えて自信が付き始めたんです。たまたまだとは思いつつも、諦めずに練習を続けた成果が実を結んだのがうれしかったですね。

自分の住んでいた紋別市には高校が二つあって、一つは柔道が弱いけれど偏差値的に入りやすい高校。そしてもう一つは、少年団の先輩がいて柔道が強い高校でした。悲しいことに、柔道が強い高校の方が偏差値が高かったんです。自分の学力を考えると、柔道が弱い高校に行かざるを得ないのかなと思っていましたが、「お前、こっち来てくれよ」と先輩から誘ってもらえたこともあり、後者の高校を受験。すると奇跡的に合格して、上手いこと柔道の強い高校に行けることになりました。選択問題の勘が当たったんだと思います(笑)。

今までは週3回の練習でしたが、高校の部活に入ったことで強い先輩や同期たちと土日も含めて毎日練習ができるように。もちろんしんどかったのですが、やればやるだけ上達するのを感じていましたし、たとえ自信がついてきても油断しているとやっぱり負けることもあるんですよね。だから弱かったときのことを忘れずに、常に気を張っていないとダメだと気づいたんです。それからは練習も含め、一試合一試合に集中して全力でやるという気持ちになりました。

そんな努力の甲斐もあって、最後の地区大会では個人3位に。準々決勝では相手に骨を折られそうになりながらも勝ち抜いて、次の準決勝で僅差で負けてしまいました。「公立高校をなめるなよ」という反骨精神があったので、柔道の強い私立高校の中である程度の結果を残せたことはよかったなと。優勝できなくて悔しい気持ちもありましたが、納得感がありましたね。

思いがけないスカウトで角界入り


その高校最後の大会が終わったとき、試合を見ていたとある人に「相撲をやらないか」と声を掛けられました。それが、北勝海という横綱だったんです。全国区で有名な横綱だったのですが、自分は全く相撲について知らなかったので「なんかでっかい人が来たな」と(笑)。急にスカウトを受けて驚きましたね。

でもインターネットもない時代に、北海道の田舎からどうやったらプロレスラーになれるかずっとわからずにいました。6年続けた柔道も最後の大会を終えてひと段落したタイミング。単純に相撲部屋に入れば東京に行けると思って、すぐに「やります!」と答えました。相撲出身のプロレスラーが多いというのも知っていたので、チャンスだと思ったんです。

家族や学校の先生をはじめ、周りの大人たちはすごく盛り上がっていましたね。「頑張れよ!頑張れよ!」と激励を受けて、高校卒業後に上京することが決まりました。高校の卒業式の日にそのまま飛行機に乗って大阪場所へ。バタバタと地元を離れ、何もわからないまま八角部屋に入りました。最初の2週間は手取り足取り教えてもらいましたが、本場所が始まる頃には新弟子の検査を受けて本格的に相撲の稽古が始まりました。

とはいえ、最初の頃は四股踏みをはじめとした基礎の繰り返しでした。しばらくすると前相撲と言って、番付に載るために新人同士で相撲をとるんです。実際にまわしを締めて、本場所の土俵で相撲をとったのですが、中卒で入ってきた3歳下の中学生に負けてしまいました。その瞬間、野球から柔道に転向したときの感覚がよみがえって「嘘だろ?」と思いましたね。ショックだったし、また一からやるのかという気持ちでした。

相撲人生は悔しいところからのスタートでしたが、しばらくして晴れて番付に載って「序ノ口」に。地道に稽古を重ねつつ、八角部屋の力士の一人として雑用もたくさんこなしました。朝早く起きて、同じくらいのレベルの人たちと稽古をして、先輩方の稽古が終わったらちゃんこの用意や飯の支度をしたり、洗濯や掃除をしたりする生活でしたね。一人で生きていくために必要なことをこの相撲部屋で学んだと思います。

そして調子も上がり、ついに幕下に上がれるかどうかの自分にとっての大一番を前にしたある日、膝をケガしてしまったんです。膝が逆に曲がって靱帯が断裂し、しばらく稽古は無理だと言われるほどのケガ。一番大きかったのは「ふざけんなこの野郎」という反骨精神でした。やっと強くなってきたところだったからこそ、「こんなのたいしたことねえ」と悔しさをバネにしようと思ったんです。

そこで、安静にするのではなく動いて治すことにしました。ケガから2カ月で体を動かしはじめ、そこからさらに2カ月後に復帰。精神的にも「これに勝てば幕下だ」というのもあったし、ケガを経たことで逆にかなり集中していて、無事に勝ち越して幕下に上がることができました。やりきった気持ちが大きかったですね。

夢を叶えたことで新たにできた目標


幕下に上がった頃にはもうすっかり東京にも慣れ、自分の中で相撲に一区切りついていたのもあり、一度格闘技から離れて今後のことを考えたいと思うようになりました。そこで八角部屋をやめて、しばらく違う分野でアルバイトをしていたんです。

でも一度離れてじっくり考えるなかで、「やっぱりこれはダメだ」と。何のために東京に来たのかと言えば、やっぱりプロレスをやるためで、相撲もその足がかりだったわけで。結局、プロレスラーをやるために東京に来たんだから、プロレスラーにならなきゃおかしいだろという気持ちになりました。

そこからプロレスに関わる方法を探していたときに、たまたま知り合いの繋がりでプロレス団体の「DDTプロレスリング」に辿り着き、紹介をしてもらいつつ履歴書を送りました。相撲の経験のおかげで体力テストはいい成績で、さらに選手が見ているリング上でやる一芸でも「一人ぶつかり稽古」をやったらかなりウケて(笑)。無事、入門テストをクリアできました。

正直、相撲もやっていて体も丈夫だし大丈夫だろうと思って入ったのですが、いざやってみるとまあ受け身はしんどいわ、ロープワークは痛いわで、ショックを受けました。柔道や相撲を始めたときとまた一緒ですね。「これは真面目にやらなければダメだ」って。ちょうど自分とほぼ同時に入ってきた若手の同期3人と一緒に、また一から練習を始めました。

そんななか、若手が増えたこともあって『DNA』という若手だけの新しい団体を旗揚げすることになりました。タイミングよく、入団から半年でデビューできることになったんです。デビュー戦は1日に2試合あって、たくさんの観客がいるなかで戦うというのは体力的にも精神的にもかなりしんどかったです。すごく緊張しましたし、わけもわからないまま戦って勝っちゃったみたいな感じで、勝利をした喜びというよりは「あぁ…無事終わった」という安堵の気持ちが大きかったですね。でもそれと同時にプロレスラーになった実感が湧いて、子どもの頃からの夢がやっと叶ったなと感動しました。

その後はほぼ負けなしで、デビュー半年のタイミングで初めてKO-D無差別級選手権でチャンピオンに挑戦。勢いのままに挑んだのですが、結果負けてしまいました。そのとき、自分の中では体力的に限界を超えていたのに負けたので、「ああ、やっぱりプロレスラーって凄いんだな」って。やっぱり一筋縄ではいかないことを相手の選手から教わって、むしろ火がついたんです。今までは漠然とプロレスラーになりたいと思っていて、デビュー戦がゴールだった。でもそこから、KO-D無差別級のベルトを取りたいという新しい明確な目標ができました。

燃えカスすら残らない試合を


それからベルトを取るために試行錯誤を続け、3回目のKO-D無差別級選手権で石川修司さんに挑みました。お互いに体力に限界が来て、途中から人間としての強さの勝負になったんです。苦しくなると、自分の一番信頼している技が出ます。味付けをしていない素の勝負という感じがして、苦しいとか痛いとか辛いとか、そんな感情を超えた戦いでした。

本当に無我夢中でしたね。結果は負けてしまったけれど、すごく楽しかったんです。極限まで燃え尽きて真っ白になって、何も残りませんでした。相手の石川さんに対しても、敵ながらあっぱれという気持ちでしたね。

30歳になって再び大きなケガをして、もうプロレスを辞めようと思ったこともありましたが、周りの仲間に叱咤激励されて復帰。そのとき力になってくれたメンバーと『イラプション』という新しいユニットも組みました。それを機に肉体改造にもチャレンジして、もともと白くてぽちゃっとしていた体型も変わりました。

プロレスの道で悔いなく生きる


現在は引き続き、プロレスに打ち込んでいます。日々のほとんどが、プロレス中心の生活ですね。石川さんとの戦いの後も何度かKO-D無差別級選手権に挑みましたが、まだ勝てていないので負けるたびに、まだまだ足りないなと教えられています。だからやっぱりKO-D無差別のベルトを取るのが、自分の中の第一目標ですね。引き続き『イラプション』としてもプロレスを盛り上げていきたいなと思っています。観に来てくれるファンの方にも、入場料以上のものを観せられるように頑張りたいですね。

勝っても負けても試合が終わったあとに立てないくらい、全部を出し切って燃え尽きて、燃えカスすら残らないような試合がしたいんです。「あの時こうしておけばよかったな」とか「あれはなんかもうちょっとこうできたな」とか今でも思うところはあるけれど、本当に歳を取ったときにそう思わないために今はやりきりたいなと。悔いなく生きるためにプロレスの道を選んでやっているので、続けられる限りプロレスラーを続けていこうと思っています。

2021.10.25

インタビュー | 粟村 千愛ライティング | むらやま あき
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