九十九里の塩と海を守りたい。 選べなかった道の先で見つけた、自分の想い。

「九十九里海の塩プロジェクト」の代表を務め、九十九里の海水を100%使用した塩を、昔ながらの製法で手作りしている山路さん。高校や大学、就職先など、自分の意志で選べないことが多かったと話します。そんな中で出会った塩づくりを、一人続ける想いとは。お話を伺います。

山路 由美子

やまじ ゆみこ|九十九里海の塩プロジェクト代表
1964年千葉県生まれ。短大卒業後、千葉の銀行に入社し窓口業務を行う。結婚と同時に退職し、3人の子どもを育てながら地元の新聞での記事執筆や、小中学校非常勤講師を経験。山武(さんむ)市の観光協会にて、行政との3年間のプロジェクトで塩づくりに関わったのち、独立。機械を使わない昔ながらの方法で塩を手作りし、販売までのすべての工程を一人で担う。看板商品は「山武の海の塩」。

元気いっぱいで活発な少女時代


千葉県東金市で生まれました。身体の弱かった2つ上の姉とは対照的に、元気いっぱいで踏まれてもめげないような子どもでした。

両親は姉には甘いけれど、わたしにはずっと厳しくて。何でこんなに違うんだろうと思う一方で、入院を繰り返したり精神的に不安定になったりする姉を可哀そうにも思っていました。わたしは健康な身体をもらったぶん、両親の期待に応えなきゃなと。

小学校高学年からは、毎年学級長をやっていましたね。頼まれるとつい引き受けてしまうんです(笑)。いざみんなの前に立ってみると楽しいし、褒めてくれる先生がいたので苦ではありませんでした。

学校が終わると、習字や剣道、そろばんなど毎日いろいろなお稽古ごとに通いました。両親ともに機械工具を販売する自営業をやっていたので、学童クラブに行くような感覚で友達がたくさんいるお稽古場に通う日々を送っていましたね。中学でも部活で剣道やバレーボールをやっていて、活発な生徒でした。

高校は、親に言われるがまま姉と同じ学校に入学。自分の希望した高校を受験して落ちるのも嫌だったので、従ったんです。両親は身体の弱い姉の代わりに、わたしに家を継いでほしいと考えていたんですよね。わたしもそれは仕方ないと思っていました。だから大学を選ぶ時も、親に言われる通り経営を学べる東京の短期大学に進学することになりました。

就職先も結婚相手も決めたのは親だった


短大進学とともに上京し、4年制の大学に通っていた姉と一緒に暮らし始めました。近くに有名なお店がたくさんあり、きらびやかな世界を見て驚きましたね。人気のデザイナーズブランドの服が好きになって、よく着ていました。進路を決める頃には好きな洋服に携わりたいと思い、アパレル関係の仕事に就くことを考えるようになりました。

しかし、両親は反対。「千葉の銀行にしなさい」と就職先も親に決められてしまったんです。その頃姉は、「先生になる」と言って大学に行っていたはずなのに、卒業してすぐに結婚。好きなように生きる姉と自分を比べてもやもやしながらも、わたしは20歳の時に千葉の銀行に入社しました。

それから、松戸市にある銀行の寮で生活をしながら必死に働きました。すると、窓口業務で社内の賞をもらったんです。望んだ場所ではなかったけれど、頑張れば結果が出るんだとわかった瞬間でした。頑張りの成果として、自分で自分を認めてあげようと思ったんです。

順調に仕事をこなし、20代半ばを過ぎた頃。付き合っている恋人との結婚を考えるようになりました。一方で、両親にはお見合いするように言われており、親の顔を立てる意味で何度か出席していたんです。もちろんお見合い結婚するつもりはなく、恋人との将来を考えていました。しかし、「婿にならないなら」という理由で両親は大反対。「山路」の名前を継ぐ以上、お婿さんに来てもらうしか方法がなかったんです。

結局、親の決めた人と26歳でお見合い結婚しました。正直、悲しみや怒りでやるせない気持ちでしたね。しかしやむをえず、銀行を寿退社して地元に戻ることになりました。

車椅子の少年に教わった楽しむ姿勢


その後、第一子の長男を出産。子育てをしながら、合間に地元新聞で記事を書くアルバイトを始めました。少し期間を空けて、さらにふたりの男の子を出産。3人の子どもを育てるために、短大での経験を生かして小学校の非常勤講師をすることにしました。

いろいろな学校に行って勉強を教える中、地元の小学校に配属された時に心の教室の相談員として働くことに。それと同時に、筋肉がだんだん動かなくなってしまう筋ジストロフィーの4年生の男の子の介助をすることになったんです。

彼はとっても前向きで明るい子でした。車椅子でダンスもするし、字も力強く書く。上級生を見て「僕も生徒会長をやろうかな」と言っていたこともありました。日に日に筋肉が衰えていくため、不自由なことがたくさんあるはずなのに、全く悲観的にならずに志を持って生きている。自分ができることを精一杯やって楽しむ姿を見て、彼に教えられましたね。

わたしは、今までずっと自分の意志で選べないことが多くて、ついいろいろなことに悲観的になりがちだった。でも、その中でもできることはあるし、もっと前向きに楽しんでいきたいなって。彼との出会いのおかげで、そう思うことができるようになりました。

それからもいくつかの学校を転々としましたが、子どもがまだ小さかったので、離れた地域の学校に行くことは難しいと判断し、辞めることに。もともと働いていた千葉の銀行に戻ることにしました。

銀行ではフルタイムで働きましたが、一度退職しているため正社員にはなれなかったんです。長男も大きくなり、大学に行かせてあげたいという思いから、正社員の仕事を探し始めました。千葉県山武市の観光協会で採用していただけることになり、働くことに決めました。

期限付きだった塩づくりが個人事業に


入社後は観光客向けにガイドをしたりイベントを実施したりして働いていました。今までとは違う業種だったので、いろいろなことを教わりましたね。

そんな中、2011年に東日本大震災が発生。失職した被災者の方々を緊急で雇用する政策のもと、山武市観光協会でも1人受け入れることになりました。それに伴い、3年間という期限付きで、国からの補助金で九十九里の塩づくりを観光客に体験してもらうプロジェクトが発足。わたしは担当の一人として塩づくりに関わることになりました。

プロジェクトの目的は、九十九里の海の美しさを再認識してもらい、美しいまま後世に残していくこと。その一つの手段として、塩づくりを取り入れることになったんです。具体的には、地域で行われていた海水を100%使い、機械を使わない昔ながらの製法での塩づくりを実施。観光客や近所の小学生たちに、一般的な塩との粒の大きさや味の違いを体験してもらうことをメインにやっていました。

塩づくりは機械を使うことが多いのですが、私たちは地域に伝わる昔ながらの製法を再現し、すべて手作業でやっていました。ミネラルが豊富な九十九里の海水を汲んできて、薪から火を起こしてその海水を蒸発させる製法で作ります。一粒一粒が海水の結晶なんです。1週間で1トンの海水から20キロほどしかとれませんが、その分味も粒の大きさも、全く違った塩ができました。

最初は販売していませんでしたが、「これはどこで買えるの?」という声が多く聞かれるようになり、2年間をかけて商品化と販売まで漕ぎつけることができました。

そうして3年間を終えましたが、補助金は底をつき、観光協会としても続けられないという結論が出ていました。しかし、中心メンバーとして塩づくりに関わっていた方に「俺は続けたいから、一緒にやってほしい」と頼まれてしまって(笑)。「ようやく塩づくりや九十九里に興味を持ってくれる人が増えたのにもったいない」ということで、熱意に押されて4年目からはふたりでやっていくことになりました。

しかしその方が高齢だったため、結局1年ほどで続けることが難しくなってしまったんです。ひとり残されて、どうしようかすごく悩みました。でも、私自身販売用のパッケージデザインを手掛けたり、塩を購入して下さるお客様がだんだん増えてきたりと、この仕事への思い入れは強かったんですよね。お客様とのご縁を大切にしたいし、注文いただいたら精一杯それに応えたい。そんな思いで辞めるに辞められず(笑)。

それに、わたしが辞めたらこの塩づくりをする人がいなくなってしまうという状況だったので、独立して一人でやっていく決意をしました。

辞めたい、でも失くしたくない


いざ起業してみると、一人でやっていくことの厳しさを感じましたね。女性だからなのか、様々な嫌がらせをされることもありました。

何度も辞めようと思いました。儲かる仕事でもないので、「続けていく意味ってあるのかな」と。続ける理由を見失いかけていたんですよね。

でも、塩づくりをする中で、他の地域で作られた塩にはない特色があることは、強く感じていました。丁寧に火の加減を調節して平窯でゆっくり炊いているので、粒が大きい結晶になるんですね。それに、他の地域の有名な塩に含まれているカルシウム量は80~300mgほどなのに対して、わたしが作る塩は1300mg。桁違いに多いぶん、甘味や旨味が強くて、まろやかなしょっぱさになるんです。この塩の良さを認識しながら作り続けてきたので、やはり失くしたくないという一心で続けました。

仕事が大変な中、家では長男が下の弟たちの面倒を見てくれました。「今日学校でどうだった?」と聞いたり、弟たちの部屋の掃除をしてくれたり。家族には苦労をかけましたね。本当に助けてもらっていました。

家族の協力を得ながら塩づくりを続けていくうちに、だんだんと協力してくれる人が増えていきました。ボランティアの方が薪割りなどの力仕事を手伝ってくれたり、この塩をいろいろなところに紹介してくれたりするようになって。信念を持って続けてきたぶん、認めてもらえたのがうれしかったですね。力を貸してくれる人たちを信じて、「大変なことは多いけれど、それでも生き抜いていこう」と思えるようになりました。

九十九里の海と塩を守りたい


現在は、引き続き九十九里海の塩プロジェクトの代表として、「山武の海の塩」の製造と販売をしています。塩づくりから、その後の検品や袋詰め、経理なども、すべて一人でやっていますね。

千葉県内で塩づくりをしている会社は他にもありますが、「山武の海の塩」は県内で唯一審査に合格して、千葉県優良県産品に認定いただいた商品です。県内の食品コンテストでも審査員特別賞をいただき、たくさんの方に喜んでもらえました。

若い世代の方にも手に取っていただくことが増えました。他の塩との違いを感じて「おいしい」と言ってもらえるとうれしいですね。最近では千葉県の手作り塩として、いろいろな商品とのコラボ企画のお話をいただけるんです。ブッセや羊羹、おせんべいなど、様々な商品にわたしが作った塩を使っていただけています。コラボ商品の先に、また喜んで食べてくれる人がいると思うと、本当にやっていてよかったなと思いますね。

他にも、地元の小学校の給食に使ってもらったり、授業でも塩づくりを取り上げてもらったりしていて。子どもたちにも、自分が口にする塩を通して九十九里の海の美しさを認識してもらえたらと思いますし、美しい海をこのまま後世に残していってほしいですね。

自ら望んだことばかりではなかった人生で、ここに来るまで本当に苦労が絶えなかったけれど、その中でも精一杯やってきました。おかげでたくさんの方に応援してもらえるようになりましたし、塩事業に対する愛着も湧きました。今では、この「山武の海の塩」のおいしさに確信を持っているので、できる限りのことをやっていこうと思っています。

とはいえ、ほとんどお休みがない状態なので、今後は後継者も探しつつ…(笑)。どうにか休みを取れた時には、2歳の孫に会いに行くのが楽しみです。もう可愛くて可愛くて。孫が大きくなった時、私の塩づくりを見て、おばあちゃんの塩を夏休みの絵日記に書いてくれたら嬉しいなと思っています。

2021.05.20

インタビュー | 粟村 千愛ライティング | むらやまあき
ライフストーリーをさがす
fbtw

お気に入りを利用するにはログインしてください

another life.にログイン(無料)すると、お気に入りの記事を保存して、マイページからいつでも見ることができます。

※携帯電話キャリアのアドレスの場合メールが届かない場合がございます

感想メッセージはanother life.編集部で確認いたします。掲載者の方に内容をお伝えする場合もございます。誹謗中傷や営業、勧誘、個人への問い合わせ等はお送りいたしませんのでご了承ください。また、返信をお約束するものでもございません。

共感や応援の気持ちをSNSでシェアしませんか?