孤独なお祭り男が目指す、賑やかな漁港。 日本の海の縮図「琵琶湖」の課題を解決したい。
漁業者の数も、資源である魚も、価格も、すべてが激減して厳しい状況におかれる漁業の世界。なかでも特に課題が進み、「日本の海の縮図」と例えられることもある琵琶湖で漁業を営む中村さん。同じ世代の仲間もいない孤独な環境のなか、中村さんは何を拠り所に、どんな未来を目指すのか。お話を伺いました。
初めての挫折
滋賀県の大津市に生まれました。多少負けず嫌いだったものの取り立てた特徴もなく、ごく普通の毎日を、ごく普通の町で過ごしました。しかし小学3年生の時に両親が離婚。5年生の時に母が再婚し、その相手が漁師の家系だったことで琵琶湖の港町へ引っ越すこととなりました。
中学に進学すると、親への反抗心からグレてしまいました。早く一人前になりたいという気持ちもあって、中学を卒業したら大好きな車関連の仕事に就こうかなんて考えていました。
親に高校だけは行って欲しいと説得されて、なんとなく地元の高校へ進学。しかし、やはり勉強に興味が持てなくて、学校をサボり、友達と遊んでいることも多かったです。そうしたら案の定、1年生の末に担任の先生が家に来て「進級できません」と。母は悲しみましたが、僕は学校や勉強に興味がないし、早く独り立ちしたいので、あっさり退学しました。
退学した後は高校の生徒指導の先生が紹介してくれた土木系の仕事に就きました。一人暮らしも始めて、やっと自由になれた…なんて思ったのですが、この職場が本当に大変で。先輩には怒鳴られるし、仕事内容はめちゃくちゃキツい。初めて社会の厳しさを痛感して、「付いていけません」と、すぐに退職しました。人生で初めて味わった挫折でした。
2度目の退学と、2度目の退職
土木の次は、ハローワークで紹介された工場へ。二度と挫折したくないという気持ちから、朝から晩まで懸命に働きました。何人もが列に並んで同じ作業をするラインの仕事です。やがて努力が報われて、ラインの先頭を任されるようになりました。そうすると自分の作業だけでなく、ライン全体の効率を考えなくてはならないので、ますます工場にこもって練習をしたり、段取りのシミュレーションをしたりするように。太陽が昇る前に出社して、陽が沈んでから帰るのが毎日になって、「うわー。僕、蛍光灯の中で死ぬのか」なんて思うようになりました。
そんな時に、高校を卒業した元同級生をはじめ、何人かの後輩が僕のラインに入ってきたんです。もちろん僕は先輩だしラインを仕切っているので、彼らに仕事を教えるんですが、学歴が違うので彼らの方が給料が良いんですよ。それがどんどん理不尽に感じてきて。上司に直訴したんですが聞いてもらえなかったので、それならばと働きながら通信制の高校に入り直しました。しかし、工場の仕事だけでもパツパツだったのに、学校の勉強まで入ってくると、寝る時間さえなくなっていって。すごく悔しかったですが、どうしても続けられずに2度目の高校退学を選択しました。
その後も何度も職場の上司たちに給与面などを相談しましたが、取り合ってもらえず。ある日、何があったわけでもないんですが自分の中のスイッチが急に切れて、「辞めます」と言って退職しました。高校を2度も辞めて、仕事もどんなに努力しても報われなくて。心がバキバキに折れた状態で、20歳の時に実家へ帰りました。
漁師ではなく、漁業者
実家で何をするでもなく毎日ゴロゴロしていたところ、見かねた母に父の仕事を手伝えと言われ、初めて漁業の仕事に携わりました。まずは父が獲ってきた魚を、網から外す作業。作業自体は面白くもなかったのですが、この年は大漁が続いて、手伝いをするだけで工場の何倍も給料をもらえました。金額に驚いたのと、漁業の世界ならば自分の努力が報われるかもしれないと少し期待が出てきて、そのまま手伝いを続けました。そうは言っても、天候が悪くて漁がない日には「よっしゃあ、休める!」と喜ぶ程度の気持ちでした。
船に乗っての手伝いもするようになり、約6年。父が湖に網を仕掛けて魚を揚げる姿を見る中で、徐々に湧き上がってきたのが「自分でも網を入れてみたい」という感情でした。網入れは、場所や入れ方、操船、網の選択など知識・経験・技術が必要な作業で、とても奥が深いです。実際にやってみると想像していた以上にうまくいかず、少し風が吹くだけでもまともに船が操れないし、船に網が絡んでしまい危険な目にもあいました。
しかしそこで辞めたいとは思わず、むしろ好奇心が湧いてきました。天候や波をはじめ、向き合う環境は毎日変化します。そのなかで少しずつ経験を踏んでいくことが重要です。自分はまだまだ漁「師」とは名乗れない。「師」は真のプロになってこそ名乗れる称号だ。そう思って、自分を漁師ではなく「漁業者」と名乗ることにしました。
「井の中の蛙」の決心
父の手伝いをしながら、自分でも網入れなどの鍛錬を繰り返す日々。そうして30歳の時に、たまたま聞いた三重県桑名市にある赤須賀漁協の取り組みに興味を持ち、現地視察に行かせていただきました。
赤須賀漁協は若い漁師も多い活気のある港で、資源管理のために様々な活動を行なっていたんです。例えば名産であるハマグリを守るために、漁は週3日間と決めて獲り過ぎを防ぎ、稚貝というハマグリの赤ちゃんを生産する施設を建てて、量を増やすことにも力を入れていました。
さらに密猟を防ぐために当番制でパトロールを行い、審議会のような部会をつくって魚屋との折衝まで行なっていたんです。例え魚屋が「買うからもっと獲ってきて」と言っても、「資源を残していくために、これ以上は獲らない」と断るそうで。目の前の稼ぎよりも、未来の資源を大切にする姿に感銘を受けました。
視察を終えた夜、赤須賀漁協の若手漁師たちが飲み会に誘ってくださり、漁協の専務も来てくださいました。そして僕の隣に座って、僕たちの足りていないところ、見えていなかったところを、諭すように丁寧に話してくださいました。
琵琶湖に戻った後、赤須賀漁協青年部の方々が「琵琶湖も見てみたい」と視察に来てくれました。しかし、一通りの視察が終わった飲み会で、専務に「これでもう、お前たちとの付き合いはいったん終了だ」と言われたんです。今回、琵琶湖に来たのは僕が赤須賀まで視察に行ったお返しだった。視察したらレベルが違いすぎて、次に来るなら琵琶湖が面白いことをやれた時だ、と。
悔しくて、悔しくて。そしてそれ以上に、とても羨ましかったです。彼らは実際にすごいことをたくさん実践していて、成果も出している。僕たちも資源管理を少しは気を付けているつもりでしたが、本当に井の中の蛙だったと思い知らされました。そして「海に比べて人の生活や資源管理の結果がダイレクトに出やすい湖こそ、海の模範になるべきだ」と思い至り、日本の海の縮図とも言える琵琶湖を変えていこうと決心しました。
日本一と、お祭り男の誕生
同年、全国の魚が集まる「魚の祭典Fish-1グランプリ」の噂を聞きました。東京の日比谷公園で毎年数万人の動員がある大きなイベントで、来場者と審査員が全国から集まる魚料理を食べ、投票をして日本一を決めるというもの。この話を聞いて思ったのが「琵琶湖の魚が日本一をとったら面白い」でした。
琵琶湖をはじめ、淡水魚に関係する漁業者たちはみんな「海の魚の方が美味しい」と言われ続けて、悔しい思いをしているんです。だからこそ「日本一」というタイトルで世の中をひっくり返してやりたい。ちょっとした悪ノリ精神も湧いてきて、僕がこのメンバーならやれると思った料理人、魚屋、流通業者などに声をかけ、チームを作りました。そして料理人さんからレシピの提供を受けて作戦会議や試作を繰り返し、「天然ビワマスの親子丼」を開発したんです。当日使う魚は全て試食しましたね。
自信満々の完成度になったビワマス丼は、大人気でした。他のお店がまだ販売している中、僕たちだけ先に売り切れてしまって、コーヒーを飲みながら待つという状態。結果は、見事一位でした。
壇上で賞状を受け取ったとき、大人になって初めて嬉し泣きをしちゃいました。壇上から降りたら、魚屋の社長もボロボロ泣いていて。他のメンバーも僕と合流する頃には平然としていましたが、実はボロ泣きしていたらしくて(笑)。みんな共通で持っていた「淡水魚なんて」と言われる悔しい思いを払拭できたのが、本当に嬉しかったんです。
「淡水魚で初の快挙」なんてメディアでも取り上げられ、滋賀県の飲食店さんにも呼びかけをしたことで一部のお店がビワマス丼を出してくれるようになりました。この頃から周囲の友人たちに「お祭り男」なんて呼ばれるようになりました。変なことを企んで、周りを巻き込んでいくのが好きなやつだと。そして僕自身、自分の原動力は「楽しい」なんだと気付くことができました。
変わった魚屋との出会い
どうすれば琵琶湖で「資源管理をしながら稼げる漁業」を実現できるか考え、地域の外にもアンテナを広げだした頃、東北の漁業を視察させてもらうため宮城県石巻市の先輩漁師さんを訪ねました。すると、「すごい魚屋さんがいるから見に行こう」とある魚屋さんに連れて行ってもらったんです。
琵琶湖は昔から多くの魚屋たちが魚屋同士で連携して、魚の買取価格などを調整していました。他の地域でもこうした動きは多いです。そうなると買取価格が上がりにくくなり、漁師の収入が増えず、とにかく数を獲るしかなくなって資源管理も難しくなります。
しかし連れて行ってもらった石巻の魚屋は、価値ある魚をいかに高値で買い取り、漁師に還元できるか、そして地域の魚の価値を上げられるかに尽力していました。魚の質を上げるための技術「神経締め」などにも力を入れており、漁業関係者の価値観を「量より質」に変えるべく、本気で取り組んでいたのです。
市場で良い魚を高値でどんどん競り落としていく気迫や、1匹1匹の魚と真摯に向き合い、神経締めなどの手当てをしていく姿に感銘を受け、「琵琶湖にもこんな魚屋が現れてくれたら…!」と心から願いました。まずは自分にできることをしようと、本格的に神経締めの勉強をはじめました。
賑やかな漁港を目指して
現在は「こんな人が現れてくれたら」と待つのを辞めて、中村水産で魚の販売も始めました。それというのも琵琶湖では、漁師の数も、資源も売り上げも激減し、漁業が立ち行かなくなるギリギリのラインまできているのです。だから別に魚屋がやりたいというわけではないのですが、誰かが琵琶湖の魚に価値をつけて流通させないと、本当に琵琶湖の魚が食べられなくなってしまうのです。
そうならないために、新型コロナウイルス感染症の流行で支給された持続化給付金も全て投資。周りの漁師たちの魚を高く買い、みんなで使える製氷機も購入し、使われなくなった作業場の整備も始めました。
自分だけ、中村水産だけ稼げれば良いのなら、正直ここまでしなくても何とかなるかもしれません。でも、自分はそうはしたくないのです。「お祭り男」なんて呼ばれるように、楽しいことが好きなのですが、同じ漁協には若い世代の仲間がいなくて、正直すごく寂しいんです。
天候が悪くて漁に出れない日には「仕方ないな、飲みにいくか」なんて誘い合いたいし、SNSで他の地域の漁師たちがワイワイ楽しそうにしている写真を見ると、羨ましくなります。それに、僕よりもっと若い世代が漁師をやりたいとなったときに、自分と同じように寂しい思いをさせるのも嫌なんです。
今は確かに厳しい状況です。自分だけでも余裕があるわけではないのに、周りの漁師の分まで高く買って売ろうというのは大変なチャレンジだと思います。しかし、そうして流通が増えることで漁協に入るお金も増えて施設が整い、良い魚が出せるようになれば、地域外の魚屋がわざわざ買い付けに来てくれる…なんて未来もあるかもしれません。
僕が作業場を整備してガチャガチャやっているだけで、漁師のおっちゃんたちがフラリとやってきて、一緒にコーヒーを飲みながら話すなんて機会も出てきました。この小さな集まりが大きくなっていき、たくさんの人が笑っていて、魚があがって、外から魚屋や観光客なんかも遊びに来て…。そんな賑やかな漁港を目指して、できることから積み重ねていきたいです。
2021.04.15