ポートランドで学んだ、持続可能なまちづくり。 循環型社会を実現し誰もが挑戦できる道を拓く。

アメリカのポートランドで得たノウハウをもとに、サステナブルな都市デザインを手がける山崎さん。高校時代に挫折を経験するも、アメリカの大学に進学、就職して挑戦を続けてきました。様々な自治体でまちづくりを行うまでには、どのような想いや経験があったのでしょうか。お話を伺いました。

山崎 満広

やまざき みつひろ|サステナブル都市計画家
1975年東京・赤羽生まれ。米・ 南ミシシッピ大学卒。アメリカで大手ゼネコンに就職し、経済開発財団やコンサルティング会社勤務を経て2012年、ポートランド市開発局入局。国際事業開発オフィサーを務める。現在は都市計画事務所 Mitsu Yamazaki LLCの代表を務めるかたわら、つくば市まちづくりアドバイザーのほか、複数の自治体や企業に携わる。横浜国立大学客員教授。

部活が唯一の居場所


東京の赤羽で生まれ、茨城県の水戸市で育ちました。6歳の時に両親が離婚してからは、母と兄と三人暮らし。周囲は田んぼしかないような田舎でしたが、友達とサッカーをしたりして楽しんでいました。

小学校5年生の時、洪水にあい隣町の勝田市に引っ越しました。水戸市ではサッカーチームのキャプテンをやっていて一番上手いつもりだったのですが、勝田市のチームに入ると自分が一番下手で。ショックでしたね。新しいチームは全国大会に出場するような強豪で、月謝も高い。母に気を遣ったのと、自分のサッカースキルが通用しないということで、6年生のときにサッカーをやめてしまいました。

中学校では、勧誘時期にたまたま誘われたバレー部に入りました。キャプテンをやったり地区大会でいい成績を残したりして、楽しかったです。私にとっては、部活だけが心の拠り所でした。

中学生の時に母が再婚したのですが、相手は暴力を振るうような人だったんです。母は半分ノイローゼになり、私も隠れてグレていました。そんな状態なので、家では進路の話もできません。「バレーボールがやれれば高校なんかどこでもいいか」と思っていました。

進路の先生に「バレーボールで推薦を受けてみないか?」と言われて、バレーの強豪である工業高校に申し込む事に決めました。荒れていましたが、希望通り入学できたことで「人生捨てたもんじゃないな」と感じ、一生懸命バレーボールに取り組みました。部活は唯一自分を受け入れてくれる場所であり、ストレスが溜まっていた私にとってのセラピーでした。

卒業間際に掴んだセカンドチャンス


バレーボールの推薦で高校には入れたものの、思うように身長が伸びず、補欠のままで大きな大会には出場できませんでした。これではチームの役に立てない。3年生になった時、「もうバレーボールに自分の将来はない」と感じ、バレー部を辞めました。その時は自分のアイデンティティをごっそり捨てる感じで、めちゃくちゃつらかったですね。

やめたものの、バレーばかりしていたので勉強にはついていけません。次にやりたいことさえ決まればなんとかなると思うものの、それが見つからなくて。人と話す時も、自分には話せる内容がないんじゃないかと感じるくらい、自信喪失していました。

そんなとき、英語の先生が僕のことを気にしてくれて、校長先生と話し合ってスピーチ・コンテストに出るよう勧めてくれたんです。出場した結果、地区大会で6位に入り、県大会の出場権を得ました。「良い成績を残したい」ということだけを目標に、本腰を入れて1カ月半ほど朝から晩まで英語のスピーチを聞いて繰り返し特訓しました。こんな風に学問に対して真剣に取り組むのは、その時が生まれて初めてでしたね。

結果として県で2位になり、茨城県の派遣団に選ばれてイギリスとフランスに2週間行けることになりました。数カ月前までバレーも勉強もできなくてお先真っ暗だったのに、チャンスをもらって頑張ったことで、いつの間にか認められていたんです。「目標に対して真剣に時間をかければ、できないことはない」と思えました。

派遣先では英語が通じなくてボロボロでしたが、帰国すると「この先10年20年、何か真剣に取り組んで世の中の役に立つなら、何がしたいか?」と考えるようになりました。アルバイトで皿洗いをしながら「何か見つけよう、何か見つけよう」と思っていました。

そんなある日、たまたま読んだ新聞の記事に、スーダンの内戦で倒れた兵士の遺体を、国連軍の兵士が運ぶシーンが写っていて、「外国に乗り込んで、大変な思いをしている人を命懸けで助ける人がいる」と感銘を受けました。それから「そもそも国連って何?」と関心を持ちました。

調べた結果、国連職員には誰でもなれるけれど、要件が決まっていることがわかりました。高い目標でしたが、国連職員を目指して努力すればたとえ実際に職員になれなくても何かしらの国際関係の仕事につけるかもしれないと考え、せっかくなら国連職員になってニューヨークかジュネーブの本部で働くと目標を立てたんです。

国連職員になるためには、まず大学に行く必要がありました。しかし高校での必須科目が足りず、大学のセンター試験が受けられない状況だったんです。校長先生が「推薦でいくつか受けてみろ」と申し込んでくれたのですが、勉強していなかったのでかすりもしません。そんな中で、アメリカの大学は英語さえできれば当時の僕の高校の成績でも入れると知りました。

そこで高校卒業後18歳からの約2年間、アルバイトをして貯金しながら英会話教室に通い、20歳の時に渡米しました。英語集中過程に入学後は死ぬほど英語を勉強し、6カ月後に晴れて大学に入学できることになりました。高校まで全く勉強ができなかった僕に、先生たちがセカンドチャンスをくれた。そのおかげで、本当に大学にまで行けたのです。

メキシコの村で気づいた幸せの秘密


大学には入れたものの、英語はズタボロでした。本気で勉強したテストが40点で、図書館のトイレで泣きじゃくったことも。でも、アメリカの大学は留学生に対して手厚いサポートがあり、アドバイス通りにを素直に頑張っていたら、大学3年生の時にはようやく普通のアメリカ人くらいに授業についていけるようになりました。

国連の公用語を2カ国語話せないと国連職員になれないため、スペイン語を勉強することに。スペイン語圏のメキシコの大学への交換留学なら学費も抑えられると知り、留学しました。

メキシコの大学では、語学に加え他の授業も受けられたので、以前から興味のあった人類考古学の授業を取りました。あるとき、民俗学の研修で、キャンパスから2時間離れた村に2週間滞在することになりました。人口200人ぐらいの集落で、現地の公用語はマヤ語。集落は、木が多い場所に道が数本通っており、中央にお店や広場があるだけのシンプルな作りでした。住民は木の枝と藁でできた簡易な家に住み、外で焚き火をして食事を作り、夜はハンモックで寝るといったとてもシンプルな暮らしをしていましたね。

彼らの生活を研究する中で、彼らは自分達にとって本当に必要なものだけを大事にしていると気づきました。彼らと話をしてみると、底抜けに明るくてカッコイイんですよね。物質的に豊かではなく車も電話もテレビも無くても幸せを感じられている彼らと出会い、日本からやってきて際限なくいつも次の何かを求め続ける自分に対して、「自分は何のためにこんなに頑張ってるんだろう」と感じました。彼らといると、こんな生き方もありなんだ、自分たちが幸せならそれでいいんだと感じられたんです。

この体験がきっかけで、「本当に幸せなライフスタイルの実現」やそれを演出するまちづくりへの興味を持つようになりました。

アンダードックでも成功できるはず


メキシコから帰って最後の学期を終えて無事に大学を卒業したのですが、その後の就職はうまくいきませんでした。日本に戻れば就職口はあったかもしれませんが、僕はアメリカに残って働いて経験を積みたかったのです。でも国内でアメリカ人と競り合って仕事を勝ち取るのは至難の業でした。国連職員を多くの輩出している大学院にも複数応募してみましたが、唯一受かったプログラムも学費が高いので進学出来そうにありませんでした。

どうして良いか悩んでいたところ、以前からお世話になっていた大学の教授から声をかけてもらったんです。地域経済開発を専門にした新しい学部を作るから来ないかと。さらに、研究をしながら学費が免除になるプログラムもあると教えてもらい、「なんでもやります!」と二つ返事で入れてもらいました。

大学院で学んだのは「地域経済をどう盛り上げるか、持続可能にするか」。日本語で言うと都市経営といったほうがピンとくるかもしれません。最初の頃はちんぷんかんぷんでしたが、授業を取っていくうちに段々と面白くなってハマってしまい、2年目にはこの分野の仕事をしたいなと強く感じるようになりました。

早く就職したかったので、夏休み返上で1年半で大学院を卒業。就職前にインターンシップで働いていた電力会社に、そのまま就職する予定でした。しかしそのとき、ニューヨークで9.11のテロ事件が発生。アメリカ政府がしばらく就労ビザの発行を休止したため、卒業1カ月前で就職できなくなりました。

困っていたところ、たまたまその時の上司が地元の大手建設会社の副社長を紹介してくれたんです。政治力のある人だったため、あの手この手を尽くし無事にビザが取れ、その人の元で働けることになりました。それからは営業マンとして、在米日本企業の案件を中心に任せられ、1千億円という規模の大きなプロジェクトにも携わることができました。

このような経験を通してアメリカの、アンダードッグというか、不利な状況にある人を応援してくれるような文化がとても好きになりました。困ったときに自分自身が手を差し伸べてもらったから、そんな文化を世界中のみんなにも知ってほしいなと思うようになりました。自分自身が、アンダードッグでも成功できることを体現して、道筋を作りたいと思ったんです。

その後はテキサスに移り、自動車工場やデータセンターの開発など大きな建物を建てる案件に携わりました。でも、給料は安く、出張続きの生活の疲れも出て、「このままだと身体を壊すな」と感じて。建設会社の営業ではなく大学院で学んだ経済開発専門の仕事をしたいという思いもあり、サンアントニオの経済開発財団にバイスプレジデントとして転職しました。

「本当の幸せ」への疑問


財団では、まちの営業戦略を作って、それに沿って産業や企業を誘致することが仕事でした。会社の移転や拡張を考えているアメリカ各地の経営陣とのネットワークを作ったり、地元の不動産デベロッパーとの関係性を築いたりと、下準備から土地選定、設計から開発、そして事業開始後の雇用や社員研修まで様々な企業支援をしましたね。

当時、まちの経済がガラッと変わるようなっプロジェクトをいくつも経験して、地元でも脚光を浴び、新聞に載ったり、賞をいただいたりしました。とにかく大きな目立つ仕事ができてハッピーな時期でしたね。

ただ一方で、違和感もありました。子どもが生まれたこともあり、「年々建物が大きくなっていく自動車工場を作るのは地球環境によくないな」とか、「自分の仕事がうまくいった結果、森を切り拓くことになってしまっては、何のために仕事をしているのだろう」とか、矛盾感じで先行きに不安を覚えるようになったんです。このままで人間らしい生活が続けていけるのか、次はどうしようか。

そんなことを考えていた時、リーマンショックが起きました。状況が一変しましたね。それまでの僕は経済を発展させることでしか仕事の成果を見出せなかったんです。世の中もそうでしたし、僕の働いていた財団もそうでした。でもリーマンショック以降、メディアでも「本当の幸せとは、お金を増やすことや経済の成長以外にもあるのでは?」と報じられるようになり、世の中の価値観が急にシフトしたんですね。経済開発を進めるよりも持続的な価値、地球に寄り添った生き方に注目が集まってきたんです。そして僕自身も、そちらの方が大切なのではないかと感じるようになりました。

突き詰めるとサステナブルな生き方へ


そんな風潮の中、アメリカではポートランドがサステナブルなまちとして注目を浴びはじめていました。その頃たまたま出張でポートランドに行く機会があり、まちなかを歩いてみたら、噂以上に緑豊か素敵なまちだったんです。車は少なく歩行者や自転車、公共交通で移動する人が多く、そして何よりヘンテコなファッションや結構目立つタトゥーをしていても堂々としている人たちを見かけて、この街は人々が自由に生活を楽しんで生きている感じがして、「こんな街に住んでみたいなぁ」と感じました。そんな時にポートランド開発局のマネージャーのポジションに空きが出たと聞き、申し込んでその仕事を勝ち取りました。

住んでみると、ポートランドは本当にいろんな意味で想像以上にサステナブルな街でした。たとえば、住む場所を選べば、わざわざ車を持たなくても自転車と電車を駆使すれば生活には事足りる。これはアメリカのいわゆる地方都市ではほぼあり得ない事です。また、スーパーには地域で作った有機栽培の地元野菜が当たり前に販売されていて、それを買うことで地域にお金の循環を生みますし、 また地元の職人達の手で丁寧に作られた靴や鞄などの革製品や、オーガニックビールやワインなど 地域にも地球に優しい商品を選ぶことができるんですよね。

そしてここに住む人々が長い間かけて生活を作ってきたことで、今のポートランドのまちの文化がある。そんな歴史を学び、サステナブルに生きる事を良しとしている人達が集まり、本当にまちが変わるのだと感じました。ただ、あくまでまちを作っているのは一人ひとりの住民。サステナブルな生活を良しとする、地球に生かされてるという意識と価値観が重要なのだと知りましたね。

僕のポートランドでの仕事は、そんな風にポートランドでうまくいっている持続可能な都市開発の手法や取り組みを、日本をはじめ世界に広めることで、僕にとっては夢のような仕事でしたね。仕事に対する正義感とライフスタイルが合致するって、精神的にこんなに気持ちいいんだと感じました。世界の最先端のサステナブルな知見に触れながら仕事をさせてもらい、やりがいを持って取り組んでいました。

しかし、市の組織には多くの制約があり、リーマンショック以降続く財政の悪化で予算や人員はどんどん削減されていきました。自分もいつクビになるかわからない状況が続きいつもストレスを感じていました。

そして段々と、組織に縛られずにもっとサステナブルな都市づくりを広めたいと、独立を考えるようになりました。周りの友人に相談すると、「お前は自分でやるべき、俺たちがサポートするから自分を信じて起業しなさい」と背中を押してくれました。そして2017年に、5年間勤めたポートランド市開発局を離れ独立。2年間はポートランドを拠点に日本とアメリカ西海岸で多くの企業や自治体の持続可能な事業の企画開発のアドバイスをし、2019年の夏に家族ともども帰国し拠点を東京に移しました。

誰もが生きやすい循環型社会を


帰国して半年後にコロナで海外のプロジェクトは全てストップし、今は国内を中心に様々な自治体や企業と連携し、主にサステナブルな都市デザインや地域の活性化の企画作りなどを行っています。都市計画といえば大型のインフラ整備や建設という時代もありましたが、人口が減少して経済成長が横ばいの今は、ただ建物を作っても将来の維持費にばかりお金がかかり、負の遺産になってしまう可能性が高い。だったら既存のインフラや建物を上手く活かして新しい価値を生むことが、持続可能性に繋がると考えています。もちろん新しい建物も必要に応じで建てても良いと思います。

私が関わるプロジェクトでは、駅前や商店街、公園や道、空き家などの遊休資産など、すでにあるものに注目します。例えば、古い建物をリノベーションして新しい活動の拠点にしたり、稼働率の低い駐車場を公園やイベント会場にしたり。空間を生かすことで経済的にも恩恵が返ってきて、住民の生活の質が上がるような取り組みができるよう心がけています。

プロジェクトの中では、まちに関わる人々が本当に求めているものを理解するために、対話を重視していますね。コミュニケーションが複雑にはなりますが、民間の事業者も、自治体の担当者も、地域に住む人々も、様々な人を巻き込んでミーティングやワークショップを何回も繰り返し開催し、みんなが地域で必要としているもの、欲しいものを話し合ったり、描いたりします。一緒に作れば将来のビジョンが共有できるので作った後にハズレないですし、まちを作る側と使う側が欲しいものを一緒に考えるから、使われないこともない。そうして地元に愛される場所や環境をいくつも作っていくと、まちが住みやすくなります。

今後は、さらに持続可能な世界を目指していきたいですね。特に、現在の日本の大きな問題はエネルギーだと思っています。原油や石炭をわざわざ買って電気を作っている。遠くから買っているので、移動の無駄も多いです。外国の資源に頼らざるを得ない状態はリスクが大きく、何か起きた時に融通が効きません。外からの資源に頼らず、もっと地域で循環する仕組みを作れればリスクを軽減することができます。

僕はこれに対し、里山の木の資源をもっと利用すべきだと考えています。日本は国土の約3分の2が森林で、先進国の中で最も森林を保有している国です。この大きな資源である森林をもっと上手く活用すれば、エネルギー問題も、そのほかの産業も、もっと持続可能なものにできるはずです。

例えば、木の繊維が直角に交わるようにして何層にも重ねた素材、CLT(cross laminated timber)は、鉄筋コンクリートの代わりになる強度を誇ることが既にわかっています。耐火試験や耐震試験もクリアしている。切った木をデジタル機器で加工して設計図通りの形に作れるので、建設現場ではクレーンと金具を使って組み立てるだけで済み、鉄筋の入った木枠にコンクリートを流し込むよりもかなり早く建物を建てられますし、出来上がりは木の素材をそのまま活かした立派なインテリアにもなります。また、日本には東大寺を作ったように、木材建築に関する世界一の技術があります。国をあげて本気を出せば木の建物ばかりでまちが作れるのです。

自然素材で街を作ると、メンテナンスに使うのも当然自然素材。切ったり削ったりして余った木片はそのまま木屑として燃やすか、ペレットにして熱源にもできますし、自然素材に囲まれて生活することは精神の落ち着きや子どもたちの成長にも良い効果をもたらします。更に木を構造材として使うことにより、耐震、耐熱、断熱、保温、抗菌効果といった恩恵もあ受けられるのです。日本は国中にある森林という資源の可能性を見つめ直し、国産の木材とエネルギー源を作り出すことで、循環型のもっと豊かな経済を作れるんじゃないかと思っています。僕はそのような循環型のまちをいつか開発してみたいと思っています。

加えて、自分が力をつけて循環型の社会を実現していくことで、「アンダードッグでもできるんだ」と多くの人々に伝えたいという思いがあります。日本は身分の違いがないように見えますが、実際は学歴で収入が決まります。中学や高校の受験で人生のほとんどが決まり、そこで失敗すると人生につまづいてしまう。

能力が開花するタイミングは人によって様々です。しかし、たとえ何かに関しては誰にも負けないというものを持っていたとしても、その能力を発揮する機会さえ与えられない場合も多いんですよね。

僕は、高校のバレー部で挫折してお先真っ暗だった時、先生たちにチャンスを与えてもらった。アメリカで就労ビザが取れなくて就職先が見つからず帰国を考えていた時に、手を差し伸べて様々なことを教えてくれる人がいた。不利な状況にある時に、いつも誰かに応援してもらったんですよね。何人もそういう人たちがいて、それに救われて今の自分があるんです。

だからこそ、不利な状況にあるアンダードックでも応援してもらえるような社会を作りたい。言い換えれば、敗者復活戦のある日本にしたいんです。まだまだ僕にできることはかぎられているけれど、その道筋を作っていくことが、今までお世話になった方々への恩返しだと思っています。

2021.04.07

インタビュー | 粟村 千愛
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