答えが一つでない世の中で最適解を見つけたい。 組合も自分も、人と出会いながら変わり続ける。

【全国中小企業団体中央会提供】「八百屋であることをもっと誇りに思って欲しい」と話す佐々木さん。都内の八百屋さん約1500人が所属する東京都青果物商業協同組合の事務部長を務めています。人のつながりの強い組合という組織の中で、佐々木さんが大事にしていることとは。お話を伺いました。

佐々木 順平

ささき じゅんぺい|東京都青果物商業協同組合事務部長
1968年、東京生まれ。大学在学中に、インドネシアへのゼミ旅行やアフリカのチャドで活動するNGOを通してボランティアを経験。現在は、東京都青果物商業協同組合事務部長として、八百屋の地位向上に取り組む。100年続く組合を次世代に引き継ぐため、日々奮闘している。

強くなくても不条理に立ち向かいたい


東京都葛飾区で生まれ、町田市で育ちました。子どもの頃は、『明日のジョー』のアニメをよく見ていました。ヒーローって普通は、絶対的な強さを持っているじゃないですか。でも、ジョーは決して強くないのに、必ず起き上がって立ち向かうんですよね。何回倒れても立ち上がるところが、かっこよくて好きでした。

入学した小学校では、校内暴力が横行していました。先生に反抗的な人も多く、私が5年生の時には、クラスみんなで授業をボイコットしたんです。学校側も収拾がつかなくなり、クラス担任が年配の先生に変わりました。

以前の先生は上からモノを言う人で、強硬派ではない私も反発していました。でも、新しい先生は面白くて、「明日は授業を止めてみんなで散歩に行こう」って。学校の近くの田んぼの上をぐるっと回って、給食の時間に戻るように帰ってくる、そんなのを年に数回やる先生だったんです。授業は当然遅れるし、他のクラスには「あのクラスは馬鹿だから」って言われていましたけど、私は楽しかったんですよね。その先生になったら、ボイコットもピタッと止まりました。先生が嫌いなんじゃなくて、上からものを言われるのが嫌だったんです。

中学校に入ると、今度は先生ではなく、クラスメイトと大げんかになりました。威張っている人がいて、面白くなかったんです。相手は校内でも有数の不良で、ボコボコにされて顔中血だらけに。向こうは体も大きいし、勝てるわけがないんですけど、それでも戦いました。

自分は明日のジョーみたいに強くないけれど、媚びへつらうのは違うと感じて。どんなに強くても、ダメなものはダメ。「それ違うじゃん」と思ったものには立ち向かっていました。

想いだけでは足りない


高校生になると、父親から仕事の不満をぶつけられるようになりました。家に帰ると喧嘩になるんです。なるべく当たり障りないようにやっていましたが、それでもきつくて、高校を辞めて家を出て行こうかと考えました。

ただ、自分の中に、熱い自分と冷めている自分がいて。冷めている自分が「これで本当に家を出たら、どうするの?」って問いかけてくるんです。そのまま結論が出ませんでした。深夜ラジオが唯一の心の支えでしたね。夜中の1時から始まるラジオ番組を聴いている時だけ、心から大笑いできました。

高校は成績がかなり低迷してたので、1年間の浪人を経て、大学に進みました。3年生になると、インドネシア政治のゼミに所属。ゼミ旅行でインドネシアにいき、初めて異文化に触れました。異文化に興味が湧き、帰国するとアフリカのチャドで砂漠化防止活動に取り組むNGOの講演を聞きに行き、ボランティアをすることにしました。

NGOの活動に参加すると、努力をしている周りのスタッフと比べて何もやっていない自分に気づき、愕然としました。

他のスタッフは、青年海外協力体隊で外国に行ったり、外国の大学に行って研究したり。自分の関心に真っ直ぐ行動していく姿を目の当たりにして、「俺は何もやってないや」と思ったんです。興味があるなら、何かをやりたいと思うなら、それを達成するために行動をしなければいけないと気がつかされました。

答えは一つじゃない


子供の頃から地理が好きだったので、卒業後は地図をつくる会社に入りたいと考えていました。しかし、試験に落ちて就職留年。もう1年就職活動をしましたが、様々な会社を見ても「この会社に入りたい」という明確な理由が見つかりませんでした。 とにかく手に職を、と思って、最終的にソフトウェアの会社に入社したんです。

しかし、1カ月ほど経った試用期間中、早々に解雇されてしまいました。理不尽な解雇だったので周囲に相談もしましたが、あの会社はやめたほうがいいと言われ、別の就職先を探すことにしました。その間、大学時代に出会った、アフリカの植林を行うNGOでの活動も再開しました。

NGOの活動は、木を植えるだけでなく、現地の人の生活改善まで広く活動していました。現地の女性たちが自分の手で石鹸を作ったり、動物を育てたりして、市場に売りに行けるよう女性組合を作って。 稼いだお金を等分で分け合い、お互い助けあって生きていける仕組みを構築していました。

でも、ボランティア活動を続ければ続けるほど、支援として一体何が正解なのか、悩むようになりました。最初は砂漠化を問題視して、それを食い止めるために木を植えていましたが、木を植えるだけでは解決に至らないと気付かされたんです。現地には、貧困など様々な問題があって、それらが複合的に絡み合って砂漠化が進行しています。知れば知るほど、混沌として答えを一つ出すのが難しいと感じました。

ただ、答えが一つ出なくても、現状を少しでもよくするための解決策を考えたい。そう思い、問題と向き合いながら何が最適解かを考えるようになりました。

会社ではなく「家庭」と向き合う感覚


一方で、生活資金も底を尽きてきたので、就職先を探し始めました。公共の職業紹介所に行くと、東京都青果物商業協同組合を紹介されたんです。面接に行くと、第一声で「君、みかん箱持てるか?」と聞かれて。変な会社だなと思い、興味を持ちました。面接官がユニークな人で、インドネシアに行った話などで盛り上がり、気がつくと採用されていました。

東京都青果物商業協同組合は、都内の市場で八百屋さんが野菜を仕入れた代金の決済をする団体でした。私は総務として入社し、所属する組合員の方々とのやりとり、総代会の開催のほか、八百屋さんの価値向上のための国や関係各所への働きかけなど、様々な業務を担当しました。

やっていくうちに、組合という組織の特殊性を感じるようになりました。例えば民間企業に入社した友達と飲んでいると、売上の数字が上がらないとか、顧客を取られたとか、そういった話題が多く出ます。でも組合では、組合員のあの人がどうしたとか、個人の話題が多いんです。

実際の仕事でも、お店まで足を運んで、八百屋さん一人ひとりと話をすることが多かったです。ときには、国から勲章をいただいた際の祝賀会など、プライベートなことのお手伝いまですることもありました。会社というよりも、家庭に近いと感じましたね。人とのつながりが強いこその難しさもありますが、魅力もあると考えるようになりました。

組合員の方々はとにかく個性豊か。皆さん社長で、自分を持っている人が多いんです。基本的に「俺が言ったことは間違いない」と思っているのに対して、時には、他の視点で見て間違いを指摘するのも自分の役割と考えるようになりました。もともと、立場に関係なく、間違っていることは間違っていると言いたい性分なんです。

ときには、上司と対立することもありました。やめようと決意して、組合員の方に止められてなんとか思いとどまることも。それでも、媚を売ることはしない代わりに、ちゃんと仕事で返そうと思って、組合員の方一人ひとりと向き合っていきました。

その後、組合の周年に合わせ、100年史をつくる事業を担当することになりました。そこで、組合の歴史を紐解くことに。当時を知っている人はみんな亡くなってしまっていましたが、書籍などを調べていくと、生々しい記述が残っていました。

もともと、東京都青果物商業協同組合は、大正10年2月にできたと言います。八百屋だった初代理事長が20代のとき、八百屋の地位向上のため、問屋に立ち向かって行ったことが始まりでした。その時代は、問屋さんが横柄で、「お前に売る野菜はない」と言われることもしょっちゅう。八百屋は部外者だからと、市場での決め事にも参加させてもらえなかったそうです。

そこで八百屋の地位向上のために、組合を立ち上げたんです。都内の八百屋約2500人が団結して、その頃東洋一と言われていた神田市場からは一切野菜を仕入れませんとストライキ。脱落者は数人しかいなかったと言います。そんな闘争の末に、権利を勝ち取って行ったんです。歴史を知り、純粋にすごいなと思いました。今の組合員の皆さんは、そうやって権利を勝ち取って行った人たちの末裔なんですよね。そのことを組合の方々にも伝えて、プライドを持って欲しいと感じるようになりました。

八百屋であることを誇りに思えるように


現在は、東京都青果物商業協同組合の事務部長として、都内の市場で仕入代金の決済をする支所を束ねる本部の職員として、引き続き八百屋の地位向上に取り組んでいます。今は、組合員が1500名ほど在籍しています。

人と人とのつながりの強い組織なので、意見を聴きながら調整していくのはなかなか大変です。でも、基本的には皆さんが嫌な気持ちにならないよう配慮しつつ、八百屋さんのためになることははっきり伝えられるよう、気をつけています。

少子高齢化が進む中、私たちの組合でもどんどん組合員が減っている現状があります。組合員も高齢化しており、後継者がいない店も多い。まずは八百屋さんが儲かるようにすることが重要だと考えています。

今は、八百屋に買い物にいく消費者が少なくなり、特に若い人はほとんど足を運ばなくなっています。まずは若者に足を向けてもらう方法を考えなければいけません。八百屋さんは店頭でのおしゃべりを楽しむ方が多いですが、若い人は話しかけられることなく買い物をしたい人も多い。消費者目線に立った取り組みができればと思います。

ただ、高齢化が進んでいることもあってか、組合員の方は変化を嫌う人も多くて。プライドもあるでしょうし、今まで通りが良いと考えるんですね。でも、今まで通りやっていても先はないんです。新しい施策を提案してもらっても、本人にやる気がなければうまくいきません。消費者に来てもらえる店をつくるため、八百屋さんの意識をどう変えていくかが重要だと考えています。

長年続いてきた組合だからこそ、変えていくことの難しさを感じています。なかなか変わらない現状はありますが、この組合は過去の八百屋さんたちの努力の末できたもの。その思いや取り組みを次の世代に引き継ぐためにも、変わることに前向きになれるように取り組んでいきたいです。

個人では、アフリカでのNGOの活動にも関わり続けています。現地の様子を見ていると、元々の組合の姿を垣間見れる気がするんです。助け合わなければどうしようもないから、人と人がつながり、一緒に事業をしていく。そんな風にして組合が生まれたなら、私たちの組合もそうあるべきだと。

組合も、ずっと関心のある環境問題も、「これが唯一の答えだ」という解決策はありません。取り組むことに難しさを感じます。でもだからこそ、いろいろな人と出会う中で新しい考え方を知ることに意味があると思うんです。様々な人との出会いの中で、自分自身が形作られ、変わっていく気がしています。一歩ずつでも歩みを進めて、現状が少しでもよくなるように最適解を見つけていくのが、今の私にできること。今後も、100年続く組合や、次世代にも誇れる八百屋さんのあり方を作っていきたいです。


※この記事は、全国中小企業団体中央会の提供でお送りしました。

2021.03.31

インタビュー | 粟村 千愛
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