中高年にもっと自由なセカンドキャリアを。 本音で生き続けてきたからこそ感じること。

昼スナックのママとして、キャリア支援をする会社の代表として、中高年をはじめ多くの人の背中を押し続ける木下さん。これまで様々な仕事体験、人生経験をする中で、どのようにして「紫乃ママ」が誕生したのか。じっくりと“本音”を訊きました。

木下 紫乃

きのした しの|株式会社HIKIDASHI代表取締役・昼スナックひきだしママ
新卒で株式会社リクルート入社。その後転職数社の中で、主なキャリアとして大手企業中心に研修設計・運営や人材育成などを経験。2016年、中高年のキャリアデザインを支援する株式会社HIKIDASHIを設立。企業研修やミドルシニアの個人向けコーチングを行う。また2017年より「昼スナックひきだし」を開店。紫乃ママとして、これまで延べ2000人以上の来客を迎える。著書に『昼スナックママが教える 「やりたくないこと」をやめる勇気』(日経BP)。

叔母から学んだ、挑戦する女性の姿


和歌山県和歌山市で生まれました。育ったのは商業地域。お菓子屋、トロフィーを売っているお店、学生服屋さんなど、多くの人が何かしらの商売をやっているような場所です。私の家も建築系のガラス屋をやっていました。学校で親の職業の話をしたら、職業が“会社員”という子がクラスにひとりしかいなかったんですよ。いろいろな職業の人がいるのが当たり前な環境でした。

小学校や中学校のときは、クラスで目立つタイプではなかったですが、関西人らしく面白いことを言って人を笑わせることが好きでした。父も母も仕事で忙しかったので、弟のご飯をつくって子どもたちだけで食べるなど、わりと自立した生活を送っていましたね。早くから自分のことは自分でやるという感じでした。

ただ、高校生のとき、家業が破産してしまったんです。父のギャンブルが原因で、夜逃げしなきゃいけないような状況でした。家族みんなで、別の県に引っ越すことになったんです。

親に反抗するような子ではなかったのですが、このときだけは「ごめんなさい、それは嫌だ。自分は和歌山に残りたい」とはっきり家族に意志を伝えました。自分で選んで入った高校でしたし、意地やプライドがありました。親の状況によって翻弄されるのも嫌だったのかもしれません。それでひとり和歌山に残って、遠い親戚の叔母さんのところで高校生活を送ることになったんです。

叔母さんは、旦那さんを早くに亡くしてから、喫茶店や雀荘を経営し、最終的には占い師になっていましたね。女の人がひとりで仕事する背中を見せてくれました。バリバリのキャリアウーマンという感じではないけれど、働くしかないから働いている、という自然体な姿が素敵だなと思っていて。いろいろな事業に挑戦している叔母さんが身近にいてくれたことで、チャレンジすることは怖くないんだと感じていました。

野生児のように行動し続けた日々


その後、大学への入学を機に上京しました。音楽が好きだったので合唱団サークルに入り、キャンパスライフを楽しんでいたんです。3年生の後半くらいから就職活動の時期になりましたが、会社へ入るイメージは湧きませんでした。

なにせ私の職業観は、小さい頃からお店屋さんだったので、会社員になる想像がつかなかったんです。それでも見よう見まねで就活し始めたときに、ちょうど友だちから大手人材会社のアルバイトの誘いがあって。その会社は、バイトに来る面白い人たちをリクルーティングしていたんです。私も一緒に働きませんか、と誘いを受けてそのまま入社しました。

最初の配属はシステム開発の部署でした。4年くらい経つと違う仕事をしたいと思い始め、異動の希望を提出。本当はその時社内で募集が出ていた、社員用のバーの店長をやりたかったんですが、配属は広報部でした。ちょうど会社の不祥事の後の時期で、仕事は激務。3年ほど働きましたが、心身ともにボロボロになってしまい、退職することにしました。

しばらくぶらぶらしていたんですが、同じく退職した同期だった人から声をかけてもらい、小さな広告代理店にバイトで入りました。同時期に結婚しましたが、3年ほどで離婚することに。その後転職し、知人の紹介を受け、コンサルティング会社で働きました。数年たった頃、その時お付き合いをしていた男性から「海外赴任が決まった。結婚してついてこない?」と言われたんです。行き先はドイツ。一度破綻しているので、再び結婚することにためらいはありました。でも、一緒に暮らしてみないと彼との関係も決着がつかないなと感じて、行くことに決めたんです。

ドイツでは、様々な国の友達がたくさんでき、様々な生き方があるということを学びました。でもビザの関係で仕事ができなかったこともあり、「私って何者だろう?」という所在無さはずっとありました。夫ともなかなかうまくいかなくて、3年ほど経った時、結局スーツケース一個持って、ひとりで日本に帰ってきてしまいました。

ただ、帰ってはきたものの、自分には何もありませんでした。でも、家でずっと泣いている訳にもいきません。次の仕事を探さないといけないと行動を始めました。

3年も専業主婦をしていたし、まともな転職活動もしたことがない。とにかく「ちょっと今こんな状況なんだけど、何か仕事ないですか?」と、知り合いに恥も外聞もなく助けを求めました。そのあたりのプライドは1ミリもありませんでしたね。ただ誰かに頼めば何とかなるのでは、という根拠のない自信はありました。

その結果、知人から紹介してもらい、ITベンチャーに就職が決まったんです。何をやるかも聞かないまま、「何でもやります」と言いました。背に腹は代えられないですからね。小さな会社だったので、自分のやれる範囲でなんでも手伝いました。

振り返ると、なかなかうまくいかないことも多かった。でも、仕事もパートナーも、まるで野生児のように、“違うな”と感じたら自分の気持ちに正直に軌道修正して進んでいたんです。ちゃんとキャリアの積み上げを計画して動く人もいますが、私はそうじゃなかった。たとえ失敗したとしても、自分で決めたのだから、落ち込んで泣いていてもしょうがない。またアクションを起こせば次につながる、という想いがありました。

会社の外へのドアが開いた


とりあえず入った会社は期限付きだったので、次を探さなければならないと、36歳で初めて一般的な転職活動をしました。「職務経歴書って何?」 という状態から始めて、なんとか企業研修を設計して売る会社に潜り込みました。最初は営業のアシスタントという話だったのですが、上司が産休に入り、いきなりメガバンクや大手航空会社などのクライアントを担当することに。最初は大変でしたが、人材を育成するという新しい世界が面白くて、この頃は夢中で仕事をしました。

まったく同じ研修を受けても、人によって吸収度合や成長度合は全然違います。その感じ方の違いを知るのが面白かったですね。クライアントごとに課題を見つけて、研修を提案することも楽しかったです。マーケティングのセンスが足りないなと思った会社には、その分野を強くするようなトレーニングを入れるとか。かなり自由度があったし、提案営業で研修や人材教育の中身をいくらでも設計できたので、本当に面白かったです。

5、6年経った頃、ニュースでプロボノという活動を知りました。社会人が自分の専門性を活かして、非営利団体のために行うボランティア活動のことです。それを知って、今いる自分の組織の中で与えられた役割だけやるのではなく、他の組織で腕試しすることが、リーダー育成の役に立つのではないかと考えました。

まずは自分がやってみなければと思い、私自身プロボノに挑戦しました。始めてみたら、いろいろ気づきがあって。社外のつながりによって視野が広がり、自分が提供できる価値や能力、どんな考え方の人がいるかなどを知ることができました。自分の会社の仕事の外にも広がりがある。そのことを知って、新しいドアが開いた感じがしたんです。

そこで、クライアントに向けてプロボノを取り入れた研修企画を提案しました。しかし、どの会社にもことごとく受け入れてもらえませんでしたね。玉砕でした。私の提案も未熟だったし、新しい研修企画は突拍子もなさすぎたんだと思います。

そんなこんなで、企業研修の世界の予定調和的な感じにモヤモヤしていたとき、50歳を過ぎた前の会社の先輩が、大学院で学んでいるという話を聞きました。「未来のことを勉強してる」と言われて、俄然興味が湧きましたね。プロボノを通していろいろな人と触れるなかで、自分をブラッシュアップするために何かやりたいな、と感じていたんです。

入学を迷っていたら、その先輩に「行くかどうかは受かってから考えたら」とアドバイスされまして。確かに、受験もしない前から入学するかどうか迷うなんてナンセンスだと気づき、思い切って応募。怒涛の勢いで準備した結果、合格したんです。騙されたような気がしながらも、入らないと損だと感じ、入学することに決めました。

45歳で大学院入学、そして起業へ


45歳のとき、大学院へ通い始めました。入ったのは、様々な専門家の知恵を集めて、世の中の課題を解決していこうとする研究科です。社会人向け大学院ではなくて、学生は20代が中心の大学院。私は高校生ら若い人へ向けた、起業教育の研究をしました。

20代の学生に混じって学ぶうち、彼らにとって40代や50代が楽しそうに見えていないということに気づいたんです。24歳の女の子に、「紫乃さんみたいな人がいるなら、40代になるのもそんなに悪くないかもって、初めて思いました」って言われたんですよ。それはうれしかったのですが、同時に「どんだけ40代がつまらないと思われているんだよ」とも感じました。

若い人たちは、ポテンシャルはあるのに、上の世代をみて世の中に絶望している気がして。ベンチャーに行きたいのに、親の価値観で大企業を選んでしまう人もいて、違和感を覚えました。

一方、研修の仕事で出会う大企業の人に「この会社で何をしていきたいですか?」と訊ねると、業界に関わらず「それは僕が決めることじゃなくて、会社が決めることですから」と返ってくることが多いんです。「大学までは自分でこれがやりたい、と選んできているのに、会社に入ったらそこを人に任せるの?」と疑問を感じていました。自分がやりたいことをやらないことと、給料や雇用の安定がトレードオフになっているんですよね。私にとっては、その考え方が驚きでしたし、モヤモヤを感じました。

私たち世代が、先に生きている人間として「40代、50代は楽しい!」と言えなければ、後ろに続く人たちが、「大人になるの、楽しくないんだろうな」と考えちゃうのも無理ないですよね。改めて自分の周りの同世代を見たときにも、楽しそうにしている人が意外に少ないなと思いました。

それで、まずは私達の世代が変わらなければ、と決意。退職し、中高年のセカンドキャリアを支える会社を立ち上げたんです。中高年の方々には、今までの経験を通してたくさんの引き出しがある。その中にあるその能力を使ってもらうこともできるし、他の人の引き出しを開けてあげることもできるはず。そんな想いを込めて“ヒキダシ”という社名にしました。

スナックだからこそ言える本音


会社を作ってミドルシニアの人たちをサポートしていくからには、生の声が聞きたいと思いました。企業研修やセミナーなどをやらせていただく中でいろいろな意見を集めていこうとしていました。しかし、会社の中でやる研修やセミナーでは、みなさんなかなか本音を言えないんですよね。だから飲みの場であればそれができるかなと思い、中高年向けのスナックも始めることにしました。たまたま知り合いがバーをやっていたので、週1回、昼間の空いている時間を使わせてもらってスタートしたんです。昼スナックです。

スナックに集まるのは、知らない人同士。まさに一期一会です。でも、みんなでワイワイ話しているうちに、普段は言えないような言葉が出てきます。「実は会社でこういう風に思っているんだよね」という心の声が聞けたり。それに対して、「あなたの方も態度変えたらいいじゃん」といった、全然知らない相手だからこそ言える本質をついたアドバイスが、ポンって出てきたり。スナックという装置があるだけで、そこまで話せるんだな、と気がつきました。

どこの会社の社長だとか部長だとか関係なく、知らない領域については、自分より若い人に聞けるのもいいですよね。50代の人が20代の若者にさとされていることもありました。「話が長くないですか?」とか「顔が暗いと人集まってきませんよ」なんて、年長者のほうが言われているんです。

年齢や立場に関わらずフラットになれることは、とても大切だと感じましたね。ひとりの人間として、相手をちゃんとリスペクトをしながらコミュニケーションできる場所って、実はとても少ないんです。特に日本は、性別や年齢、会社や肩書で人を見る傾向が強いじゃないですか。そうすることで、みんな損していると思うんですよ。肩書がない人は話しにくいし、役職のある人は、それに適した振る舞いをしなきゃいけないというプレッシャーがありますしね。

腹を割って本音で話せることが大事。それができる場所がもっとあればいいのにと、スナックを始めて改めて思いました。そこで出会った人とつながったり、弱っている人の肩をポンポンッて叩いてあげたり、そういう場所が、もっと世の中に増えるといいなと。

歳を重ねていくことは面白い


現在は、立ち上げた会社の代表として企業へのキャリア研修や個人向けのコーチングをやりつつ、スナックでも引き続き“紫乃ママ”をやっています。

私も当事者ですが、今の40代から50代半ばくらいの方は大変ですよね。昔のように、定年後は退職金で悠々自適に生活というのも難しくなってきているし、親の介護や子どもの独立など、いろいろとライフチェンジもありますから。そのなかで、目の前に迫るセカンドキャリアも考えなくてはいけない。会社の仕事でもスナックでも、そんな方々のお手伝いができればと考えています。

今後の生き方を考える上でまず必要なのは、自分の中の本音と対話をすることだと考えています。「やってられないな」とか、「正直しんどい」という気持ちも含めて、本音で話す練習ができたらいいですね。自分で自分の枠を決めてしまうのではなく、それを解放して本当の意味でやってみたいことを考えてほしいです。そして実際に挑戦する人が、もっと増えたらいいなと思います。

これからは、もっとみんながやりたいことを、気軽にやり始められるような世の中になったらいいですね。会社の中とか外とか関係なく、気の合う仲間と始めるのもいいんじゃないかと思います。私自身も人の力を借りて、新しいことをやるチームを作りたい。お金になるかどうか考えていたら始められないから、この指とまれで緩くやってみたらいいんじゃないでしょうか。楽しそうにやっていたら人も集まってくるし、少しずつ大きくなって、それが結果的にお金になるかもしれない。そういう循環なんじゃないかなと思います。

自分がやってみたいと思ったことを、まず形にしてみる。もちろん、うまくいかないかもしれませんよ。でも、それ全部がストーリーになっていくじゃない。年を重ねると、うまくいった話しかしなくなりがちですが、みんな失敗していることなんて実はいっぱいあるし、今もまさにチャレンジしている人もいるんですよね。それが見えてこないからつまらなくってね。

やっぱり若い人たちに、「あの年でもチャレンジして、“ああやっちゃった、ごめんなさい”でもアリなんだ」と知ってほしいし、「いつだってチャレンジはできるんだ」と思ってもらいたい。だからこそ、私も含め中高年の人たちが、やってみたいことにチャレンジして滑ったり転んだりして変化していく姿を見せたいです。歳を重ねていくことは、いろいろあるけど面白いんだというメッセージを、言葉よりも行動で、伝えられたらと思っています。

2021.03.18

インタビュー | 粟村 千愛ライティング | 伊東 真尚
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