事業・組織両輪で、サステナブルな仕組みを。 働く人の目の色が変わる瞬間を生み出す。

パナソニック株式会社で新規事業立ち上げや組織改革を行う一方、地方創生の推進、DJ、投資など様々な活動に取り組む濱本さん。その根底には、社会人になったばかりの頃の、「不自然」な自分の働き方があると言います。濱本さんが行動する理由とは?そして目指す社会とは?お話を伺いました。

濱本 隆太

はまもと りゅうた|パナソニック株式会社 新規事業開発担当
岡山県岡山市生まれ。岡山大学を卒業後、2011年パナソニック株式会社に入社。社内外を巻き込んだオープンイノベーションに取り組み、社内有志団体One Panasonic x Nagoyaを立ち上げる。大企業の若手中堅有志団体の実践コミュニティ「ONE JAPAN」幹事、ONE JAPAN TOKAIの発起人・共同代表として地方創生活動を主導。地方共創団体ONE Xメンバー。大学生と社会人を繋げる「がくしゃか」も主催。

努力すれば、嫌いなことも好きになる


岡山県岡山市で生まれました。なかなか子どもができず悩んだ両親が、子宝に恵まれるという祭り、西大寺会陽に参加した結果、生まれたのが私だそうです。「西郷隆盛のように太く生きろ」という願いから、隆太と名付けられました。

でも、子どもの頃のあだ名は「泣き虫隆ちゃん」。体が小さく、周りに比べてできないことが多くて、どこに行っても泣いていました。たとえば、幼稚園での昼ごはんは、みんなが食べ終わって掃除をする時間になっても、全然食べ終えられなくて。頑張って食べているのに遅いのが辛くて、毎回泣きながら食べていましたね。

サッカーも、鉄棒も、跳び箱も、水泳も、やりたいなと思っても全然できません。できなくて悔しくて、ずっと練習していました。毎回泣きながら、でも諦めたくなくて。その結果、サッカーも、鉄棒も、跳び箱も、水泳も、全部できるようになりました。「全然できなくても、努力すればなんとかなるんだ。最初は嫌いなことでも好きになる。続けていたら結果が出るんだ」と思えて、自信になりましたね。

自信がつくと、だんだん目立ちたいなという気持ちが出てきて。小学3年生の時、学級委員長に立候補しました。もう一人、クラスで人気のある男子も立候補して、投票による一騎打ちに。結果は、相手の圧勝。私に投票してくれたのは2人くらいしかいませんでした。もう悔しすぎて、その場でウエーンと泣き崩れてしまいました。

どれだけやる気があっても、ダメなこともある。やる気だけじゃなくて、仲間を集めなくちゃだめなんだ、と学びました。そこから努力して、6年生では生徒会長になって、運動会の時には全体の取りまとめをしました。目立ちたい気持ちが強くて、人前に出るのが楽しかったですね。

水泳チームで得た、成功体験と気付き


中学では、続けていた水泳を頑張ろうと思いました。しかし、水泳部は部員が4人と少なく、翌年の新入部員が入らなければ廃部の危機。なんとか水泳をやりたい私は、小学校までリクルートに行って、「水泳部募集中です」とアピールしました。すると、2年生になった時、18人まで部員を増やすことができたんです。

想いを伝えたら人って集まるんだ、と嬉しくて、活動にも熱が入りました。強くなりたくて、たくさん練習しましたし、周囲にもスパルタ指導しました。厳しい指導で人は強くなると思っていたんです。しかし、そんなやり方を続けたある日、ボイコットが起きて、部員たちから「ついていけません」と反旗を翻されました。

そこで初めて、このやり方では通じないと気がつきました。何か変えなければと思い、学校外で習っていたスイミングコーチの指導法を真似してみることにしました。コーチは、いつも「応援してるよ」「期待してるで」と言ってくれるんです。そう言われるとやる気が出て、泳げるようになったしどんどん前に進める感覚がありました。それを取り入れてみようと思ったんです。

応援することで鼓舞する。悩みを聞いて、解消する。やりたいという気持ちの根源を見つけて、そこにアプローチする。そんなことに気をつけてやっていった結果、3年生では団体で県大会3位に入賞することができました。翌年からは県1位を取れるチームになって。みんながやる気になってくれたことが嬉しかったし、自分の中での成功体験になりました。人のやる気を心の底から温めることで、チームが持続的に頑張れるようになることを学びましたね。

高校は、賢い人たちが学んでいるところへ行ってみたいと感じ、勉強を頑張ってなんとか進学校に受かりました。水泳部のない学校でしたが、なぜかできる人が集まっていたので、同好会的に泳ぐことに。話し合ううち、どこまで行けるかわからないけれど大会を目指そうと決め、練習に力を入れていきました。その結果、個人で国体強化選手に選ばれたんです。団体でも、中国地方の大会で入賞しました。

ただ、国体には出場できず。自分自身の実力不足に加え、総合的な評価にて、連盟の関係者から推薦頂けず、別の選手が選ばれることになりました。すごく辛かったです。

ただただ愚直に頑張っても、手の届かない壁がある。実力はもちろんのこと、関係者との信頼関係を構築していくことの重要性を学びました。この経験を経て、いちプレイヤーであるだけではなく、ルールメイクする側に関わっていかないと、物事は変えられないんだとわかってきたんです。

人生は一度きり


喘息持ちだったためか医療分野に関心があり、将来は薬剤師になりたいなと考えていました。しかし、学力不足で全然ダメで。他に興味があることを考えたとき、環境問題が浮かびました。

両親がアウトドア好きだった影響か、私自身も星や自然が好きだったことを思い出したんです。小学生の頃、宇宙がどうやって出来上がったのかに興味を持って調べる中で、地球はいつか滅びることを知り、地球に住めなくなることに恐怖を覚えていました。そうならないようにするために、環境問題を考える必要があるなと。社会システムを変えられれば環境問題を解決していけるかもしれないと思い、循環型の社会システムを学べる岡山の大学へ進学。循環型社会の在り方について学びました。

楽しい大学生活を送っていたある日、原付で下り坂を走っていたところ、急にトラックが走りこんできたんです。気がついたら吹っ飛んで道に倒れていて、めちゃくちゃ遠くにトラックが見えて。周囲の人が救急車を呼んでいる声が遠くに聞こえ、すぐに病院に搬送されました。

結果、10メートルくらい先まで吹っ飛んでいたそうですが、体をめちゃくちゃ鍛えていたためか、奇跡的にうまく受け身をとったらしく、怪我は打撲で済んだんです。ただ、そのことをきっかけに「いつ死ぬかわからないな」と感じるようになりました。人生は一度きり。その時から、どう生きるべきか考え、哲学書などを読むようになりましたね。

やがて就活が始まると、どうせならグローバルな働き方をしたいなと思い、様々な会社を見るように。「経営の神様」と言われる松下幸之助さんに影響を受けていたこともあり、初めのキャリアはパナソニックがいいなと思いました。選考を受け、結果内定をいただくことができたんです。

社会に出て、死んだ魚の目になっていた


1年目は、溶接ロボットを扱う事業部に配属になりました。溶接機については馴染みもなく、商材に対する知見も全くありません。それでもなんとか結果を出したいと考え、仕事に打ち込みました。一つのことしかしていなかったので、それ以外の情報はどんどん入らなくなってきて、景色がどんどん色褪せていく。やがて世界は白黒になって、「俺は何のために生きてるんだろう?」とわからなくなっていったんです。

そんなある日、友人が外に誘ってくれました。話している中で、不意に「お前、なんか死んだ魚の目にみたいになってるよ」と言われたんです。衝撃でした。「まさか」と。

岡山から上京したとき、電車に乗っている人たちはみんな元気が無く、疲れて死んだ魚の目をしているように見えました。そんな風にはなりたくないなと思っていたんです。なのに、いつの間にか自分が死んだ魚の目をする側になっていて。おかしいと感じていたはずの社会システムに組み込まれていたんです。そこで初めて、ヤバイと思いました。

どうしようと思っていると、友人がクラブに連れて行ってくれてストレスを解消できたんですよね。さらに、「音楽だったら刺激あるで、お前音楽めちゃめちゃ好きやん」とDJを紹介してくれました。DJってすごく面白いなと思い、少しずつ音楽を聞くようになりました。

音楽で取り戻した、彩りある世界


ストレスを発散することの大事さを実感し、もともと興味があった海外へも旅行でいくようになりました。長めの休みを取れたので、一人旅でタイに行くことに。旅先でパーティーが開催されるということで、参加しました。会場は暗いジャングルの先にあり、不安になりながら進んでいくと、急に目の前が開けたんです。

大きなスピーカーがどんと置かれた野外ステージ。DJが流す音楽。両端の岩が色とりどりにライトアップされ、背後からは滝の流れる音が聞こえます。ファイヤーダンスしているお兄さんが見え、大勢の人がお酒を飲みながら踊っていました。上を見ると満点の星空。なんじゃこりゃ、と思いましたね。

景色も音も酒も最高、踊っている人たちもみんな楽しそうで。こんな空間がこの世にあるんだと感動しました。これこそ極上の体験だと感じて、「こんな体験を、自分でつくれるようになりたい」と思うようになったんです。

帰国すると、すぐに機材などを購入し、DJを始めました。いろいろな音楽を探したりつないだりすることは、自分が何に興味を持って、どんな感覚が好きなのか知る機会になります。死んだ魚の目をした不感症の人間が、感受性を取り戻すリハビリみたいでした。それを続けるうちに、白黒だった世界が、どんどん彩りを取り戻していったんです。社会のシステムに組み込まれ、おかしくなっていた自分が、あるべき生態系に戻ってきたような感覚がありました。すると、仕事でもパフォーマンスも上がり、状況が好転していったんです。

DJや音楽が、白黒になった自分の世界に彩りを取り戻してくれた。そんな経験をしたことで、私自身も、心が枯れてしまっている人に、潤いを与える体験を作りたいと考えるようになりました。

それから、音楽フェスも好きになり、休みが取れれば海外へ。世界30カ所ほどのフェスを回りました。フェスの考え方が好きだったんですよね。特に、「Headliner is you」。みんなが表現者、Headlinerであり、傍聴するだけじゃなくて表現してその場を作り上げるんだという考え方です。自分自身が表現者であり、その場をつくる。誰もがそう思えるような体験をつくれないか、とも考え始めました。

その後、サウンドシステムの担当部署へ異動に。好きな分野の仕事に携われて、より一層楽しくなりました。著名な音楽関係者と関われることも嬉しかったですし、良質で最高の音楽体験を設計する仕事にもやりがいを覚えました。

目の色が変わる瞬間を生み出す


本業の他にも、社内で有志団体の活動に参加。社外でも、大企業の若手中堅有志団体の実践コミュニティ「ONE JAPAN」の活動に参加するようになり、縁あって東海地区で「ONE JAPAN TOKAI」を立ち上げることになりました。いろいろな地域の方を集めて、岡崎にて川辺で音楽をガンガン流しながら焚き火もするフェスみたいなイベントを開催したんです。そんな活動を通して、新規事業開発を担当している方、コトを仕掛けている方と親しくなっていきました。

その後、経済産業省が主催する次世代イノベーターの育成プログラムに参加させてもらうことになり、これからの日本を担うイノベーターの方々とも出会いました。話を聞く中で、新規事業って面白いと感じるようになっていったんです。

その頃、社内でもイノベーションの創出を担う部署へ異動しないかと声をかけられました。ただ、今まで7年営業をやって、経験のない新規事業。大丈夫かと不安もありました。そこで尊敬する事業家の方に相談すると、「行くでしょ」と即答。背中を押してもらいましたね。その日のうちに、「いきます」と会社に連絡を入れました。

新しい部署では、社内起業家育成プログラム「Game Changer Catapult」の運営がミッションでした。著名な方が講師として教えてくれる経産省のプログラムが面白かったので、参考にしながら設計。新規事業のマインドやスキル、ノウハウを詰め込んだ3カ月間の短期プログラムをつくり、運営を開始しました。不足部分もありいろいろご指導もありましたが、これまで出会った事業家の方々に助けていただき進められましたね。

新規事業をほぼやったことのない参加者が、最初は「このアイデアがいいんじゃないかな?」くらいのテンションで話していたのに、プログラムを通して課題を持つ人の悩みを感じ取っていくうちに、「これは作らないといけないんですよ!」と言い出すんです。「やりたい」から「使命感」に変わる瞬間を見て、衝撃を受けました。目の色が変わるんです。これが、フェスを見てから思い描いていたような、自分の作り出したかった瞬間だと思いました。大きなやりがいを感じたんです。

こんな瞬間をもっと作り出したいと思い、社外でも積極的に活動するように。岡山出身で、地方をなんとかしたいという思いもあり、地元の伝統工芸の備前焼の一つ、「黒備前」のブランディングや、大芦高原キャンプ場の再生などの取り組みにも携わりました。すると、やればやるほど、地域の良いところが見えてきたんですよね。

一方で、地域の情報は都心と比べ、伝わっていきません。東京にはメディアが多く、大きなメガホンを持っているから、より速く広く伝わる構造になっています。地域にはそのメガホンがない。それでも、別の方法で盛り上げることができないだろうか?と考えました。

その中で、地域の人と大企業の人とを繋げることで、新規事業プログラムで見たような「目の色が変わる瞬間」を作れないか?と思いついたんです。そこで、大企業の社員の地域での貢献を推進する「ONE X」という取り組みを進めるようになりました。

人らしく自然に生きる仕組みづくりを


今は、パナソニックで新規事業開発、組織開発、サステナブル経営の推進を行っています。社外でも、ONE JAPANで幹事を務めるほか、ONE JAPANからスピンアウトした実行団体ONE Xで活動。さらに、ご縁をいただいて、長野県塩尻市で関係人口拡大を担うコミュニティを運営したり、学生と社会人をつなぐイベントを立ち上げたり、経産省のグリーン成長若手ワーキンググループの委員としても活動しています。プライベートでは変わらずDJと、フォトグラファーも行っています。

様々なことをやらせていただいていますが、今後やりたいと思っているのは、サステナブルな仕組みの実現ですね。大学に入る前に抱いていた関心と近いのですが、今グローバルでみても、日本はサステナブルな経済や経営の仕組みで遅れを取っていると感じています。

特にエネルギーやフードロスなど、影響の大きな領域に対し、事業開発の側面で取り組みたいと思っています。加えて、経産省の若手ワーキンググループのメンバーとしても活動しているので、仕組みの部分からも変えていきたいですね。

サステナブルな仕組みづくりの中でも、特にいま大きな関心があるのは企業経営や働き方ですね。初めて東京に来たときに感じたように、死んだ魚の目をして感情を失くして働いている人が、今の社会には多くいると感じています。私はDJや音楽の体験によって、感情を取り戻し、本来あるべき姿に戻った感覚がありました。感情の起伏や多様性が認められるその状態こそが、人間にとって持続可能な自然な状態だと思うのです。

だから、例えば大企業と地域をつなぐ活動や、イノベーションを創出する場づくり、そのほかの活動を通して、人の目の色が変わる瞬間を生み出し続けていきたいです。それによって、心に潤いが戻り、自然な状態で生きる人を増やしたいですね。

2021.03.11

インタビュー・ライティング | 粟村 千愛
ライフストーリーをさがす
fbtw

お気に入りを利用するにはログインしてください

another life.にログイン(無料)すると、お気に入りの記事を保存して、マイページからいつでも見ることができます。

※携帯電話キャリアのアドレスの場合メールが届かない場合がございます

感想メッセージはanother life.編集部で確認いたします。掲載者の方に内容をお伝えする場合もございます。誹謗中傷や営業、勧誘、個人への問い合わせ等はお送りいたしませんのでご了承ください。また、返信をお約束するものでもございません。

共感や応援の気持ちをSNSでシェアしませんか?