やりがいは会社だけに委ねない。化粧品の研究開発から広げるハッピーの種。

富士フイルムで化粧品の研究開発をする傍ら、新規事業推進や社外の有志団体の運営を行う金海さん。幅広い活動をする中で、やらされるのではなく、やりたいことにフォーカスする視点が大切だと気づいたと語ります。一時は見失いかけたやりがいを見つけ出すきっかけとは?お話を伺いました。

金海 俊

かねうみ しゅん|富士フイルム株式会社 バイオサイエンス&エンジニア研究所化粧品研究開発担当
1989年生まれ。10歳で硬式テニスを始め、関東中学生大会準優勝、インターハイ2度出場。北海道大学医学部で臨床検査技師の資格を取得後、同大学院で腫瘍免疫学を研究。2015年富士フイルム入社。医薬品や化粧品の研究開発を行う。社内有志団体「くものす」代表。社内ピッチで採択された新規事業を推進中。社外では、大企業の若手中堅有志団体の実践コミュニティ「ONE JAPAN」の運営メンバー。

自分の存在価値を示さなければ


中国の吉林省で生まれました。中国人の両親との3人家族です。共働きの両親に代わって、近くに暮らす祖父母がいつも面倒を見てくれました。

小学校の低学年では、アレルギーの持病があり、長い間入院していました。友人とは遊べず、祖母とトランプばかりしていましたね。学校の成績もそれほど良くなかったし、目立つ性格ではなかったです。

特に得意なものもなかったですが、10歳で始めたテニスだけは熱中できました。もともと出版社に勤めていた母が、取材先のテニスのコーチと仲良くなって。僕もラケットを握らせてもらったら、案外良い感じに打てたんです。それまでピアノや絵画などを習っても全然ピンとこなかったのですが、テニスだけは黙々と練習を続けられて、プレーしていると充実感がありました。

小学3年生のとき、父の転職に伴い日本に行くことになりました。日本は高層ビルがたくさん建っているような世界だと思っていたので、少し恐怖心がありました。しかし、実際に引っ越した先は、茨城県北茨城市という、のどかな場所。怖い印象は全くなく、すぐに気に入りました。

ただ、言葉の壁はものすごく大きかったですね。日本語はほとんど喋れず、学校での意思疎通の術は「ボディランゲージ」だけでした。なんとかしてできることを見つけなければと思ったんです。

言葉がわからない中、唯一理解できたのが「数字」でした。だから、これならいけると思い、算数の授業だけは、めちゃくちゃ積極的に手を挙げて答えました。少しずつ「あいつ算数できるじゃん」と言われるようになり、いつからか同級生たちが「一緒にサッカーしようよ」と誘ってくれるようになりました。

自分の存在意義は、自分で示さないとわかってもらえない。それを新しい環境の中で、初めて理解しました。

感情がコントロールできず暴れる


中学校は、県内で珍しく硬式テニスの部活があった私立を受験しました。日本に来てからも、親に頼んでテニスの練習だけは続けさせてもらっていたんです。自分にとっては、唯一の武器がテニスだったから。だから誰にも負けたくなかったし、どうしても中学でもテニスを頑張りたかったんです。日本に来て間もないため、受験科目の国語はまったくできませんでしたが、理科・算数で点数を稼ぎ、志望校にギリギリ合格できました。

小学生の3年間、一生懸命練習してきたおかげもあり、中学校ではいきなりレギュラーの座につけました。でも、プレーでうまくいかないと、感情のコントロールができず、よく暴れていました。

中学3年生のとき、あと一勝すればいよいよ全国大会に進めるという県大会の試合がありました。「どうしても勝ちたい」「最高のプレーをしないといけない」と自分にプレッシャーをかけすぎてしまったんです。

その結果、普段の10分の1も力が発揮できず、どんどん調子が崩れてしまい、自分に苛立ちが募りました。ラケットを投げる、ボールを叩きつける、大声で叫ぶ...。試合中にさんざん荒れまくった結果、自滅して惨敗しました。

さすがに担当の先生やテニス協会の人にまでこっぴどく注意されました。周りの人たちからの言葉で、初めて未熟な自分とイヤというほど向き合いました。

生意気な態度を悔い改め、そして気づいたんです。物事をネガティブに捉えても、どんどん自分が萎縮してしまうだけだと。できないことにフォーカスするのではなく、「自分はできるぞ!」と自己暗示をかけて臨むことでしか、良い結果は生まれないのだと学びました。自分の心のコントロール方法を知ったことで、ポジティブな思考回路に変わっていきました。

誰かの役に立ちたくて医療の道へ


高校は、中高一貫校だったのでそのまま進学しました。そこで、医師の仕事を見学する医療体験に参加する機会があったんです。そのとき病院で見た医師の姿に憧れました。医師って、短い診察時間で患者さんの話をしっかり聞いて、ちゃんと分析して処方するんです。一つひとつ的確に問題解決していることにすごく驚きました。自分が幼い頃にアレルギーで入院していた記憶も重なり、苦しむ人たちの力になりたいとも思いました。

そんな想いから医師を目指し始めたものの、テニスに打ち込んでいたので勉強が間に合わず、1年間浪人。その次の年もうまくいかなくて、もう一年浪人しようかと考えました。でも、医療に携わって人の役に立つという意味では、医師でなくてもできるかもしれない。そんな風に考えた末、患者さんの身体の機能や細胞を検査する臨床検査技師の専攻に進み、北海道大学医学部で3年間学びました。

卒業後は、臨床検査技師として病院に勤める選択もありました。でも、医師に比べて患者さんと直接関わる機会が少ないことが、心に引っかかっていたんです。自分が幼少期にアレルギーだったこともあり、免疫学をもう少し深く勉強しようと大学院に進みました。

自分の仕事は人の幸せにつながるのか


就職では、これまでの研究を活かして医薬品に携わろうと考え、25歳で富士フイルムに入社しました。入社してみると医薬品の部署に配属されたものの、自分の学んできた免疫の研究には、あまり携われなかったんです。自分の専門領域をとことん研究しようと意気込んでいたので、すごくもどかしかったです。

それに医薬品の研究は、簡単には商品に結びつかない。自分の研究が実際に商品になって世の中に届くまでには、何十年もの長いサイクルを要する厳しい世界です。自分の仕事が本当に人の幸せにつながっているのか、なかなか実感が持てませんでした。

手応えが感じられないままモヤモヤを抱えていた3年目の頃、先輩から会社の有志団体「くものす」のことを教えてもらい、刺激を受けました。くものすは人と繋がり、視野を広げ、自ら行動することで「楽しいの輪」を作る有志団体です。有志団体の活動を通じて、会社のことをより広く深く知るきっかけを得ました。

そして、自分もより会社をより「楽しくしたい」と想っていた頃、ちょうど新規事業提案のための研修があることを知り、行動してみることにしました。

仕事を楽しむ作法を学ぶ


研修の内容は、5人1組でチームを作り、新規事業としてやってみたいことを役員に提案するというものでした。社内はもちろん、グループ企業の人たちも大勢参加していたので、初対面の人ばかり。たまたまチームのメンバーはパパ・ママが多かったこともあり、何か子育てに役立つ商品が作れないかと話し合いました。

例えば、電動の寝かしつけ機とか、デジタル機能付きの絵本など、いろいろなアイデアが出ました。その中で、自社のカメラ技術を活用して新しいことができないかという話が出たんです。最初は全然興味が湧きませんでした。自分は医薬品のことだけ考えていれば良いと思っていたので。

でも、メンバーと話す中で「あれ?ちょっと待てよ」と。この会社はいろいろなことができる環境があるし、いろいろなスキルや知識を持っている人がいるんだと気づいたんです。自分たちの資源を最大限に活かそうとする視点を持てば、実は多くのチャレンジができると知りました。すると、どんどん議論が楽しくなってきて。話はあっちこっち行くんですが、自分たちで出し合ったアイデアの原石について考えるワクワク感がありました。

それらを集約して、最終的には絵本とカメラによる子供の興味開発を行うようなサービスを提案しました。プレゼンの結果、「面白いね」と評価をもらって最終選考も通過し、自らのアイデアをカタチにするチャンスをいただけました。

やらされるのではなく、やりたいことにフォーカスして取り組む。そんな仕事を楽しむ上での作法を学べたと思います。やりがいを会社だけに委ねず、自分から楽しいことを見つけて行動していこうと、思考が切り替わりました。

それからは視野がどんどん広がり、会社の外にも目が向くようになりました。ちょうど研修の直後に、大企業の若手中堅有志団体の実践コミュニティ「ONE JAPAN」がカンファレンスを開催しており、興味を持って参加しました。

熱量が高い人たちのディスカッションを見ている中で、新しいやり方や考え方に触れることができ、ものすごく新鮮で刺激的でした。そこから運営にも参加するようになり、自分にとって大きな仲間が一つできました。こうした活動を通して、主体的な社会人に、やっとなれた気がしました。

ハッピーの種につながる大きな流れを


今は、医薬品の部署から異動をして、エイジングの悩みに応える女性向け化粧品の研究開発を担当しています。皮膚科学的な証拠を取得してコンセプトを設計するところから、それに合わせて使用感を調整して商品化するところまで、一貫して商品をプロデュースする仕事です。

他にも、社内では有志団体「くものす」に所属しながら新規事業を推進し、労働組合の活動にも参加しています。両方に関わっていることで、会社全体の構造がより見えやすくなったと感じています。

社外の活動としては、引き続きONE JAPAN事務局として運営に携わっていますデジタル分野を担当しており、2020年にはオンラインで開催した2千人規模のカンファレンスの進行をサポートしました。あとは、月一度の代表者会議の準備など、メンバーと一緒に動いています。

先見の明を得るには、本業だけでなく、社内外の動きをよく見て理解することが必要だと感じています。そうすれば、自分がやりたいことに対してどうアプローチできるか、俯瞰して考えられるからです。そうやって実体験を重ねながら得た知見を、いつか周囲に還元できたらうれしいです。

いずれの活動でも実現したいのは、社内外で関わる人や社会に少しでもハッピーの種を届けることです。捉え方は人によって違うけれど、僕にとってのハッピーとは、「あのとき楽しかったね」と振り返ることができる体験を、いかに作れるかだと思っています。

例えば化粧品の研究開発では「良い商品を作れたね」とか、ONE JAPANの活動では「良いカンファレンスにできたよね」とか、関わる人がそんな風に思える体験を一つでも多く増やしていきたい。それが、その先に進むための前向きなモチベーションになると思います。

でも、それは一人ではできません。自分だけで動いても“点”にしかならないからです。けれど、周囲を巻き込めば大きな“流れ”を作れる。そうして初めて変化が生まれると思うんです。だからこそ、これからもその時々で良い思い出になるような体験を、さまざまな人と作りたい。活動を通して、ハッピーにつながる大きな流れを生み出していきたいです。

2021.03.04

インタビュー | 粟村 千愛ライティング | 野下わかな
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