細い糸を辿り見つけた、PRという天性の仕事。 直感を信じて、自分らしいクリエイティブを。

個人としての関係性を大切に、PRを中心に様々な活動に取り組む細田さん。ジュエリーデザイナーとしてキャリアをスタート、10年間のブランクを経てPRの仕事を始めたと言います。今に至るまでには、どんなストーリーがあったのか。お話を伺いました。

細田知美

ほそだともみ|株式会社電通パブリックリレーションズ 情報流通デザイン局 シニアPRプランナー
1971年、東京生まれ。日本大学藝術学部卒業。デザイナーからキャリアをスタートし渡仏。10年間の子育てと専業主婦のブランクを経て、再就職。社長秘書・広報、コーポレートPRに就いたのち、2011年株式会社電通パブリックリレーションズ入社。PRプランナーとして、メディアの方々を中心に企業や著名人らをつなぎ、新しい取り組みを生み出している。2017年からは元ソニー会長、出井伸之氏が設立した株式会社クオンタムリープのエグゼクティブフェローに就任。2020年から社会課題を解決する一般財団法人Famieeのプロジェクトメンバーとして参画。また青山学院大学の松永エリック・匡史教授のエリックゼミにも携わる。

何も話さなければマイナスにならない


東京都大田区で生まれました。両親と妹、父方の祖母、叔母、そして私の6人家族です。

父は自宅で畳屋を営んでいました。本当に優しい人でしたね。いつも家にいたので、何かあると父が仕事をしているところにこっそり行って、嬉しいことも辛いことも悲しいことも話していたんです。父は全てを受け止めてくれました。大好きで、心のよりどころでした。家族の誰より私を見守ってくれる存在でした。

母は厳しい人で、私や妹が何かミスをしたり、気に入らないことをしたりするとよく怒られました。しつけと称し、長時間正座させられたり、外で立たされたり。理不尽に感じることもありましたが、できるだけ怒られないように妹と2人、息をひそめて過ごすんです。

毎日がそんな感じなので、自然と口数が少なくなりました。何か話して母の気に障ると怒られるからです。担任の先生が心配するくらい、無表情で何も話しませんでしたね。話さなければプラスにはならないけれど、マイナスにもならない。一種の予防線を張っていました。

そういう生活が辛くて、小学生になると、常に空想して異次元に逃げ込み、物語や漫画の世界にも入り込みました。そして、人はなぜ生まれなぜ死ぬんだろう、死んだらどこにいくんだろうと、考えるようになりました。現実を否定し、逃げたかったんです。

救いは勉強でしたね。4歳の頃から家庭教師がついていました。その先生が好きで、一緒に学ぶのが楽しかったんです。小学校3年生からは塾にも通い始めて、家から離れて勉強できる時間を楽しんでいました。

デザインの道を進む


中学は、受験して高校までエスカレーター式の歴史ある伝統的な女子校に入りました。母も叔母もその学校の卒業生だったので、私もそこに行くのが自然な流れだったんです。デザインして絵を描くのが好きだったので、高校2年生からは美術部に入りました。学園祭のポスターなどを描いたりしていましたね。

学校は有名私立大学の姉妹校だったので、そのまま進学する人が半分くらいいました。でも私は、国内の大学だと勉強をしないで遊んでしまうだろうなと感じていて。猛烈に勉強したい気持ちがあったし、家から離れられる米国留学を考え始め、英語の勉強もしました。でも、そこに行って具体的に何を学べばいいのかは分かりませんでした。

決めかねていると、3年生になる前の春休み、母に「本当に絵がやりたいんだったら」と美術大学を勧められました。意外でしたね。母は私に、就職や結婚に優位な有名私立大学に進学してほしいんだと思っていたんです。厳しい母がなぜ美大を進めたのか不思議でしたが、数日間じっくり自分の将来を考え、留学をやめて美大を受けることにしました。

都内の大学の藝術学部に進学し、ビジュアルコミュニケーションのコースを専攻しました。広告やエディトリアルデザインなどグラフィックに興味があったからです。1年生から、銀座にある雑誌系出版社でアルバイトも始めました。

ここは仕事の場であると同時に、社会勉強の場でもありました。出版社は、これまで過ごしてきた世界とは、やることも出会う人の種類も全く違います。メディア周辺にいる人たちは個性的で、仕事の後ずっと一緒に過ごしていても楽しくて仕方ありませんでした。こんな世界があるんだ、人生を重ねてきた人の話を聞くのってこんなに楽しいんだと思いました。全く新しい世界が開けました。

大学では、藝術学部特有のすごい教授陣が手厚く教えてくれましたし、アメフト部のマネージャーもして、毎日が本当に充実していましたね。初めて自分がやりたいことを実現できる場所に行けて、同じ目標を持っている人たちと出会ったことで、少しずつ行動的に変わっていきました。

新しい世界を求めて


将来はグラフィックデザインに関わりたいと思っていましたが、駅で、時期が終わった広告が捨てられていくところを目にしました。すごく良い作品が生み出されても、ビリビリに破られ消えていく。それは悲しくて嫌だと思い、形あるものを作りたくなったんです。

この製品が良いと思ってお金を払い、ずっと大事に使ってもらえるものをデザインしたい。そう考え、就職先はプロダクトデザインの部署を受けました。結果的には一番行きたかった、ジュエリー企業に決まりました。もともとジュエリーやアクセサリーが好きだったのですが、お店には私の気に入るものが存在しなくて。だから自分で作りたいと思ったんです。

入社後は、海外のライセンスブランドの担当に。入社1年目なのに、デザインした製品が世の中に出るんです。それが本当にすごくて楽しくって。雑誌の表紙に私がデザインした製品が採用されたこともありました。夜、寝ていても、次から次へと夢の中でデザインが浮かんでくるので、ベッドの脇にノートを置いて、思い立ったら描き込めるようにしていました。ファッション業界の檜舞台であるパリコレに関わることもできました。

加えて、会社には、自分のやりたいことを表現していこうという意欲的な人ばかりが集まっていて。出版社の時はすごい人たちの話を聞くのが楽しかったけれど、この職場にはクリエイターという目標が同じ女性ばかりが集まっていたので、打ち解けて自分から話せるようになってきました。

ただ、世界が狭まっていく感覚もありました。出版社でアルバイトをしていた時は、毎日たくさんの出会いや驚きがあって、世界が一気に広がっていく気がしたのに、デザイナーは自分と向き合うことが多く、出会える人も専門範囲も定まっていって。わかってはいたんですけどね。

外を見たいという気持ちが強くなり、大学の時に考えていた留学があきらめきれず、3年ほど経った時、フランスに行くことに決めました。担当していたファッションブランドの影響で、ヨーロッパに興味が出ていたんです。海外に住みたいという、学生時代からの思いもありました。

フランスの大学の語学コースを受講しながら、パリで暮らし始めました。フランス語は、最初、日常会話の基本的な受け答えしかできない状態でしたが、話せないのは当たり前。分からないことは辞書を引けばいいんだと思っていました。フランス語を発するのが嬉しくて、ともかく日常が学ぶことばかりでしたね。

生活は「楽しい」の一言に尽きました。同じくフランス語を学ぶアメリカ人の親友もできて、毎日お互いの家を行き来し、週末になると音楽をガンガンにかけて多国籍なパーティーを開いていました。日本では味わえないような経験をたくさんしました。

フランス語をしばらく学んでから、さらにデザイナーとしての腕を磨くため、ジュエリーデザインの専門学校を受験。合格しました。ところが同時に嬉しい出来事がありました。妊娠していることが分かったんです。大切な初めての赤ちゃんで不安もある中、体力的にもハードなカリキュラムの学校に通うのは断念し、結婚し子育てに専念しました。さらにその後に授かった2人目も現地で出産しました。

家族との別れ


2000年に帰国し、夫の実家のある関西に行きました。私には異国の地でしたが、必死に子どもたちを守り育てました。さらに3人目が生まれ、専業主婦として子育てに没頭。子どもたちとの時間は楽しく、一緒に映画を見て泣いたり、積み木やブロックでリビングいっぱいに街を作ったり。遊ぶ時はとことん一緒に遊びましたね。

一方で、東京で仕事しているかつての仲間がイキイキと頑張っている姿を見ると、「あのまま仕事していたらどうだったのかな」という考えがよぎることも。少しずつ、もう一度仕事したいなと思い始めました。とはいえ、子育ては大変だし、何年も働いていないから、なかなか次の一歩を踏み出せずにいました。

そんな時、たまたま知り合ったニューヨーク在住の日本人女性が経営する、セレクトショップをお手伝いすることになりました。一番上の子どもは幼稚園に、下2人は保育園に預け、数時間だけ働くのです。社会とのつながりを感じる一方で、本当は自分なりに何かできることがあるんじゃないかという気持ちもあって。でも、それが何か分からず、どうしていいかわからずにもがいていました。加えて、本格的な働き方ではないので、この先どうにかしたいという強い思いが常に頭から離れませんでした。

気持ちをざわつかせていた大きな原因は、年々酷くなっていった夫の態度と行動でした。仕事を辞めることになってさらに増した私への否定と監視の締め付けから、ご飯を食べられなくなり、かなり痩せてしまって。精神的にも体力的にも限界でした。やむにやまれず、一人で東京の実家に戻ることにしました。愛する子どもたちと離れるのは苦渋の決断でした。でも、このままの状態では死の危険性すらあると、危機感を持ってしまったのです。

父が亡くなって母が一人暮らす東京の実家に戻るのも、かなり抵抗がありました。幼少期の体験はずっと頭から離れません。でも母を頼りました。そして生活していくために仕事を探しました。もう一度デザイナーをやりたかったのですが、過去の同僚に話を聞いてみると大きな差がついてしまっていて。自信がなくなり、デザイナーを諦め、別の仕事を探しました。でも現実は厳しく、10年も専業主婦としてブランクがあった人にチャンスはありません。

絶望を感じていた時、たまたま大学時代のアメフト部との集まりがあり、大学の先輩でロボットデザイナーの方の秘書に就くことになりました。しかし、働き始めてみると、メール1つもまともに打てなかったんです。社会人としての自分の力不足に愕然としました。

仕事の関係者は、ラグジュアリーブランドや大手企業のPR担当の方々ばかりです。秘書として広報として、必死に目の前のことに食らいついていきました。嫌われないよう、できれば好かれるように毎日のメイクや髪型、服装や振る舞いなどにも気を遣いました。厳しかったですが、すごく勉強になりましたね。

自分自身が表現者になるのは諦めてしまったけれど、表現したいクリエイターの気持ちがわかる。そしてデザイナーを目指し出版社でアルバイトをしていたから、メディア側の人の気持ちもわかる。表現者とメディアの間に私がいました。続けるうちに、両方の気持ちがわかる私はPRという仕事が適任なんじゃないか、と思えるようになったんです。楽しくて効果も出せて、PRという仕事に自分の可能性を感じました。

3年ほど働く中で、バイタリティーがあり社会的地位を確立した理想の女性に出会いました。その人の紹介で、都内に本社を置く翻訳会社の関西支社に広報と営業を兼ねて転職したんです。まだ離婚はしておらず、別居状態だったのですが、子どもたちのことを考え関西に戻ってもう一度家族とやり直したいと思っていたのです。しかし、やはり夫とうまくいくはずもなく、PRという仕事においては東京とのとつながりも必要で、徐々に、平日は東京、週末は関西で子どもと過ごすという日々になっていきました。

そんなとき、東日本大震災が発生。業績が悪化したことを受け、多くの人とともにクビを切られました。加えて、夫とは最悪の状態になり、私もついに決意し離婚することに。結果的に、家族も仕事も失い、何もなくなりました。子どもたちと本当に離れ離れになるのは辛く、原因不明の腹痛や高熱に襲われる日々が続きました。

細い糸を辿って


それでも、生きていくためにはなんとしても職を見つけなければなりません。PRという仕事を続けたくて、公私ともにお世話になっている方のおかげで、電通の子会社であるPR会社に入れることになりました。正社員ではありません。2011年は、どの企業も必死で、長く働ける保障はありませんでした。

それでも、家庭も仕事も失って、いっぺんに自分の価値がなくなったような気がした中で私が見つけた、細い糸だったんです。ですから、「この先どんな嫌なことがあっても、絶対に投げ出さないで、感謝して仕事しよう」と固く心に決めました。

正社員ではないので、雇用期間が終わったらやめなければなりません。なんとか正社員になれないかと一生懸命仕事しました。子どものことはすごく辛く、泣いてばかりいましたが、目の前に自分の価値を認めてくれるやりがいのある仕事があるから頑張りました。いつか、子どもたちが、仕事で頑張っている私の姿を見て誇りに思ってくれたら。その一心で走り続けました。

私は、人と関係性を築くときは、仕事としてだけではなく、個としてのお付き合いを最も大事にしていました。だから、前職までお付き合いのあったメディアや著名人の方々とのつながりはずっと続いていて。今の会社で、メディアとクライアント双方が良い結果を得られるよう考えながら、私の人間性を生かした独自の取り組みを創っていきました。会社としても、メディアや著名人との強い関係性を築ける人は貴重で、徐々に私の価値が確立されていきました。

その後、自分からの働きかけや、上司や多くの周囲の人たちが推薦してくれたことで、最終的には正社員になることができたんです。細い糸を辿った先で、いろいろな人が私を引き上げてくれました。本当に感謝しています。

自分らしい表現を


今、株式会社電通パブリックリレーションズで、メディアや著名人のリレーション構築を行い、情報の提供や交換をしながら、メディアと新しい取り組みを行っています。クライアントが注力したい製品やサービスの情報流通をアレンジしながら、世の中に有効的に発信していくためのデザインをし、時にはムーブメントを起こしていく仕事ですね。

加えて、次世代のビジネスやリーダーを生み出す育成支援をしている株式会社クオンタムリープのエグゼクティブフェローとしても活動しています。

クオンタムリープの代表は、元ソニーの会長の出井伸之さんです。日本からイノベーションを生み出すため、ベンチャー企業の育成のサポートと大企業の改革を進めていて、その活動の推進をお手伝いしています。

実は、出井さんがとあるきっかけを作ってくださったおかげで、離れ離れになった子どもたちとも、心の繋がりを持つことができ、一緒に食事やお出かけができるようになりました。とても感謝しています。

加えて、青山学院大学の松永 エリック・匡史教授のエリックゼミにもアドバイザーとして参画しています。このゼミでは、共感のコミュニティーを生み出すため、学生と社会人をつなげた幅広い活動をしています。子どもたちと同じ世代の学生や、様々な業界の社会人の方々とコミュニケーションをとるようになり、さらに世界が広がりました。

これまで、他人に自分の考えや生き方について深く話す機会はありませんでした。怖かったし、自分に自信がなかったのです。でも、信頼できるごく一部の人に少しずつ言葉にしていくと、「頑張ったね」とか「すごいね」と言ってくれて。涙が出ました。初めて価値を認めてもらえたと思いました。こういう風に生きてきたこと、やってきたことは間違っていなかったと徐々に自信がついてきました。そして、共感とともに自分の直感を信じるようになったのです。

2020年には、コロナ禍の中、法的には家族と認められない人々の家族関係を証明しブロックチェーン技術で永続的にその関係を守るサービスを提供する、一般社団法人Famieeの活動にも参画し始めました。この活動に関わることで、私が経験してきた様々なことが、自分の中で良い方向に変化していく気がしています。さらには、同じような境遇の人たちを、少しでも助けられるのかもしれない、と思っています。

様々な活動をしていますが、いつも物事を進める時には、「こういう風になったら心地よいな。最高だな」というイメージを大切にしています。デザインと同じです。実際、いろいろな人と話していると、理想のイメージがビジュアルで湧き出てくるんです。そのイメージを目指しながら、世の中が良くなったり人が喜んでくれるものを創りたいと思っています。

これまでの人生の経験を通して改めて思います。私がやりたいのはやっぱりクリエイティブなんです。自分の最高のイメージを形にして、人が喜んでくれるものを作りたいという思いは、ジュエリーデザイナーの時から変わりません。

実は、5年ほど前から水彩画も描き始めました。デザイナーは諦めてしまったけれど、自分を信じられるようになった今、もう一度自分を表現してみたいと思っています。

どのように形にしていくかはまだわからないけれど、表現者としての私らしさを生かし、社会とつながりのあるクリエイティブなこと、新しいことを生み出していきたいです。


2021.02.05

インタビュー | 粟村 千愛
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