何か一つ、好きなものがあればいい。 どん底から救ってくれた音楽の力を信じて。

数々の名曲を手がけ、作曲家、アーティストとして活動するShusuiこと周水さん。生まれつき目に障害を持ち、一度は生きている意味がないとすら考えたと言います。そんな時に出会ったのが音楽でした。周水さんが考える音楽とは。音楽を通して伝えたいメッセージとは?お話を伺いました。

小杉周水

こすぎ しゅうすい|作曲家、アーティスト、音楽プロデューサー
1976年、東京生まれ。文化学院を卒業後、19歳でイギリスへ留学し、演奏技術や音楽論理を学びながら作詞作曲を始める。帰国し、1997年にポップユニットcanna(カンナ)を結成。一度は活動休止するもスウェーデンなどで曲作りを続ける。2011年にはcannaの活動再開。2014年には、育児と音楽を掛け合わせた「育音(Iku ON)」プロジェクトを始める。提供楽曲は『青春アミーゴ』(修二と彰)や『もう君以外愛せない』『青の時代』(KinKi Kids)など多数。ラジオパーソナリティー、東京音楽大学客員教授。

音楽に救われた


東京都杉並区で育ちました。生まれたころから弱視で、強い光から目を守るためにサングラスをする必要がありました。

父は音楽プロデューサーであり実業家。子どもの頃から音楽業界の裏側を見せてもらっていました。レコーディングしているスタジオやコンサートの楽屋など、いろいろな職場に連れていってもらい、様々なアーティストや芸能人、音楽関係者に囲まれて過ごしました。物事の交渉の仕方や、一流の人たちの考え方、音楽のこと。聞こえてくる大人たちの会話から、多くのことを自然と学んでいましたね。

その頃、妻や子どもを仕事場に連れて行くのはタブーだったはずですが、父はアメリカに住んでいたこともあって、そういう環境が大事だと考えていたのかもしれません。「日本に収まるな、小っちゃい人間になるな。とにかくデカイ夢を描け、大物になれ。そのために失うものは大きくて良いんだ」と、よく言われていました。周りにいるのは本物のスターばかりでしたから、よくわからないながらもプレッシャーを感じていました。

目が悪かったこと、音楽が身近にある環境で育ったことから、6歳から両親の勧めでクラシックピアノを習い始めました。ところが、両親と先生に少し勘が良いと思われたためか、音大受験合格を目指すための指導を受けることになったんです。その先生がかなりのスパルタで。ピアノを弾くのが嫌になり、音楽も嫌いになりました。

小学校は、区立の弱視教室のある学校に通いました。視力が弱い児童を補助してくれる先生がいる学校です。低学年のうちはみんなと同じように過ごしていましたが、学年が上がるにつれ一般クラスでできないことが増えていきました。飛び込みをすると眼圧が上がってしまうから、プールの授業には出られない。ものが見えないから、工作の授業はみんなとは別で受ける。みんなと一緒にできない時間の後に教室に戻ると、空気が変わっているんですよね。自分の教室なのに中に入っていけない、転校生みたいな気持ちを味わっていました。

一方で、思ったことは口にする性格でした。おかしいと思ったことはすぐに変えたくなってしまうんです。たとえば同じ先生が2年間担任なのが気に入らなくて、校長室まで行って抗議して。違和感を我慢できず行動してしまうので、周りから浮いて、徐々にいじめられるようになりました。

そんな状況からの一発逆転を狙って、中学校に入ると学級委員長に立候補。注目を浴びられるし、成果をあげればクラスの人気者になれると思ったんです。しかし、結果はどスベリ。「なんなのあいつ、目立ちたがり屋」とやればやるほどいじめられて。友達と呼べるような友達もできず、塞ぎ込むようになりました。だんだんと学校に通えなくなり、生きてる意味がないと感じました。

高校受験はしなければならないと、勉強のために1週間に1回、家庭教師のお兄さんに家に来てもらっていました。その人は洋楽が好きで、「J-POPもいいけど、ビートルズが良いよ」と勧められたんです。『HELP!』というアルバムを持ってきてくれて、聞いてみ?と渡されました。

CDをプレイヤーに入れてプレイボタンを押した瞬間、雷が落ちたような衝撃を受けました。「Help ! I need somebody」って。「僕じゃん」と思ったんです。誰か助けて、僕に気づいてと、僕が苦しんでいることを、ジョン・レノンとビートルズが歌ってくれていた。そのことが、僕の人生を照らしてくれたような気がしたんです。ジョンの魂とメッセージが込められていることがわかって、「音楽ってこういうことなんだ」と感じました。

『Help!』が刺さりまくって、そこからビートルズの虜に。それをきっかけに音楽にはまり、レコードやCDを聞いて、楽器屋に行って譜面を買ってはコードを覚えてを繰り返しました。音楽のことばかり考えていましたね。音楽という絶対的な親友ができたことで、腐らずに済んだ。

自分のままでいいんだ


高校は、芸能関係者が多い文化学院という私立を選びました。試験は集団面接。「この学校で何をしたい?」と問われて、勉強ができない僕は正直に「バンドをやってみたいです」と答えました。すると、同じ組だった受験生の一人が、「僕はビートルズが好きで、ギターを弾いています」と答えていて。変な奴がいるなと思いました。向こうもそう思ったと思います。

無事に合格し、入学した初日、ビートルズが好きと答えた彼が話しかけてきたんです。「ビートルズ好きって言ってたよね?楽器は何やってるの?」って。キーボードだと答えると、「だっさ!」とバカにされたんです。なんだこいつ、と思いましたね(笑)。彼は、「俺はもう、ジョン・レノンだよ、ギターと歌。周ちゃんはポールでしょ?ベース買いに行こう」と言ってきて、帰りに御茶ノ水の楽器屋に直行。そこで安いベースとアンプを買わされて、家まで持って帰りました。僕は彼とバンドを組んで、ベースをやることになったんです。

そこからはもう、スパルタでした。彼と毎日練習するのですが、できるまで帰してくれないんです。死ぬほど練習しましたし、時には大げんかすることも。それでも、音楽の基礎は彼に教えてもらいました。中学校までは音楽の話をできる友達もいなかったので、そんな友達ができたことが嬉しかったです。

学校生活も楽しかったですね。僕は思ったことをストレートに言ってしまう、感情の起伏が激しいタイプだったので、これまでの先生たちは、手に負えないというような感じでした。でも高校の先生は、「あんたはそのままでいいんだよ」と言ってくれて。「目が悪くてできないことがあるかもしれないし、勉強もちょっと苦手だけど、あんたはあんたの個性がある。音楽が好きなんだから、それをやればいいんだよ」と。出る杭を打つんじゃなくて、もっと出ろと伸ばしてくれる人ばかりでした。

加えて、2年生になった時、音楽の趣味の合う後輩が入ってきて。CDを貸し借りしているうちに付き合うことになりました。

人生が一変した感じでしたね。一緒にバンドをする彼と、彼女と、先生たちと出会って、小中学校の暗い時代はこの転機を迎えるための時間だったんだなと思えました。自分が好きなこと、好きな人に対して真っ直ぐであれ、と教えてもらって、「僕、間違ってなかったじゃん」と思えました。

ベーシストから作曲家へ


高校3年生になると、僕らのバンドが音楽業界から注目されるようになりました。僕も、一緒にバンドを組んでいる彼も親が有名だったので、その息子たちがバンドを組んでいると話題になっていたんです。芸能関係者が多く通う学校だったこともあり、高校の食堂でライブをしていると、大手音楽事務所の方々が見にきていて。異様な雰囲気でしたね。

卒業を控えて改めて、将来どうするか考えるようになりました。一緒にバンドを続けるという選択肢ももちろんありましたが、彼はロック、僕はポップで音楽への価値観がずれていることにお互いが気づき始めていて。加えて、僕はこのままベーシストとしてやっていくことに違和感があったんです。このまま二人でやっていっても、多分空中分解だなと感じました。

しょっちゅうお互いの家に泊まりに行っている中で、ある日「将来どうする?」と話をしました。彼は、「バンド組んでデビューしたいんだよね」と。僕は、「僕、ベースって重くて肩こるし、ロックンロールな人生よりピアノマンみたいな人生が良いんだよな」と話して。じゃあやめようか、と決めた。そして、彼との音楽活動にピリオドを打ちました。

その後、エスカレーターで大学へ。進学したものの、「このまま日本にいちゃだめだ」と思うようになりました。ビートルズが好きだったので、イギリスに行って修行しようと決めたんです。イギリスは交通インフラが整っているので、目が悪い僕でも移動しやすいんです。そのこともあって、イギリス留学を決めました。

ベース1本担いでイギリスへ。ただ、ロックバンドのベーシストじゃないことはわかっていても、何になるかは全く描けていませんでした。とにかく英語をしっかり学びながら、いろいろなバンドでセッションするベーシストとしてやっていこうと考えるようになりました。

そんなある日、父が勉強のために、山下達郎さんのレコーディングに呼んでくれたんです。夜になると父は疲れて先に寝てしまいましたが、僕は達郎さんと話していました。そこで「周ちゃん今何やってんの?」と聞かれて。ベーシストになろうと思っていると答えたんです。すると間を置いて、達郎さんに「あのさ、ベーシストって食えると思うの?」と言われました。

そのころはミュージシャンの全盛期、僕はツアーミュージシャンやスタジオミュージシャンになれば食っていけると思っていました。でも、達郎さんはもっと先の音楽業界の未来を見ていて、これからはどんどん仕事が減っていくと言ったんです。「食えないから、曲書きな」と。

その言葉がすごく響きました。達郎さんが真剣でしたから。「食えない」というのはリアリティがありました。その日からベースを置いて、作曲の勉強をすることにしたんです。

しかし、僕はずっとコピーバンドをしていたので、曲なんか書いたことはありません。あるお正月、小さい頃からお世話になっていた作曲家の馬飼野康二さんの家に集まったとき、意を決して「作曲ってどうやるの?」と聞きました。すると、プライベートスタジオに連れて行ってくれたんです。

そこで、いくつかのコードに合わせて歌った鼻歌を、カセットテープに録音しました。「作曲は全てここなんだよ。基礎だけ教えるから、とにかく鼻歌を歌い続けて録り続ける」。そんな風に言われて、単純な僕は楽しくなってしまって。作曲は、天才がやるものだと思っていたんですよね。でも、自分にもできるんじゃないかって。すぐにカセットテープを買ってきて、イギリスに戻ってからもひたすら言いつけを守りました。

4チャンネルの録音用の機器を買ってきて、鍵盤を弾いて、ベースを弾いて、歌を歌ってコーラスを重ねて。ひたすら曲を作る日々でした。

実は高校時代から付き合っている彼女と一緒にロンドンに行っていたのですが、彼女はガーデンデザイナーになりたいと熱心に勉強していて。彼女が帰ってくるまですることがないので、孤独の中、地道に曲作りを続けました。

帰ってきて彼女に聞かせると、すごく的確に「こっちの歌詞がいいよ」「これはあの曲のメロディに似ているからだめ」と指摘してくれるんです。リスナーとして優秀なんですよ。指摘された部分を直すと、曲がよくなるんですよね。それを繰り返していくうちに、良い曲ができ始めました。

ただ、良い曲ができたと思っても、自分で歌うと素敵に聞こえないんです。彼女に聞くと、「良い曲は書くかもしれないけど、あなたにはヴォーカリストが必要だね」と言われて。それじゃあ、日本に帰ろうと思いました。英語もある程度喋れるようになったし、友達はいないから未練もないし、日本でデビューを目指そうと。帰国して東京にて、高校時代によく通った御茶ノ水の楽器屋通りに行って、ボーカリストを探しました。

そこには、「完全プロ思考!」など電話番号と共にいろいろな貼り紙があって。手当たり次第に電話して、5〜6個バンドを組んで、ベースやキーボードとしてやってみました。でも、全然ピンと来ないんですよね。

焦っていたある日、一緒にいた彼女が一枚の貼り紙を指さして、「これ持って行ったら」と言いました。その紙には、ボールペンの細い達筆な字で、「谷中たかし、ヴォーカリスト」。

正直、僕は全然ピンときませんでした。字は綺麗だけど、みんな目立とうと工夫された貼り紙の中で、ほんとに地味で。やる気ないじゃんって。でも、何個もバンドをやって、全部ダメで、こんなんじゃプロになれない!と凹んでいるタイミングのなかで、まずはとにかく電話して。「もしもしー」と電話に出た反応を聞いて、なんか面白いやつだなと感じたんです。

約束して、すぐに新宿駅で待ち合わせ。ハンバーガーを食べたあと、僕がお世話になっていたミュージックスクールに行って、お互いのでデモテープを聞き合いました。ついに、彼の番。聞いた瞬間、「コレだ!」と思いました。この人だ、と。声に温かさがあったんです。芯が強くて、歌声に説得力があって、優しくて温かい。僕の書いたメロディーには、こういう温かいヴォーカルが合うなって思ったんですよ。これだったら、僕のやりたいポップユニットができるかもしれないって。

彼は、音楽専門学校を卒業し、バイトを掛け持ちしながらデビューを目指していました。その場ですぐに「やろう」と決めて、翌週から僕の家で、曲づくりが始まりました。

努力の先のステージ


デビューまでに、まず100曲作ろうと決めました。良い曲じゃなくていい、99曲が駄作でも1曲ヒット曲があればそれでOKだからと。僕が提案すると、彼も乗ってきたんですよね。お互いのアイデアを出し合って、どんどん曲ができていきました。

僕には、自分に才能がないことがわかっていました。高校時代に相方のような天才をたくさん見ていましたから。がむしゃらに、人が1やってできることを僕は10やらなきゃいけない。自分には努力しかないと思っていました。

一方で、父のコネを使うのは嫌だったので、ずっとバンド活動を始めたことを隠していました。実力で這い上がってやる!と思ったんです。

最初に楽曲提供が決まりました。ジャニーズのグループのコンペに出場し、二人で書いた詞曲で勝ち抜くことができたんです。その時に、作詞作曲家としてやっていく道も考えました。でも、どんどん良い曲ができて、ストック曲が溢れてしまって。もったいないから、やっぱり自分たちでやろうと、「canna」というグループ名で、とにかくたくさんオーディションを受けました。

すると、あるオーディションに引っかかり、最終審査に残ることができたんです。審査は、国際フォーラムで行われるライブパフォーマンス。そこで初めて父や親戚を呼びました。これが僕らのやってる音楽だ、って。父は、「良い音楽性だね!だから一生懸命頑張りなさい」と言ってくれました。

そんな中、デビューが決まり、忙しい日々が始まりました。しばらくすると、地上波テレビの有名音楽番組への出演が決定しました。奇しくもそこに、高校時代に一緒にバンドをやっていた彼も、出演することがわかったんです。彼は別のバンドを組み、僕らより1年前にデビューしていました。

僕は音楽の基礎を教えてくれた彼に、早く追いついて恩返ししたいと思っていて。その彼と、同じ番組に、並んで立つことができました。天才じゃなくても、人の10倍、100倍努力すれば、追いつけることがあるのかもしれない。結果は後から付いてくる、報われることもあるんだと感じられた瞬間でした。

そのことに気づけたのは、高校時代に音楽を教えてくれた彼、TRICERATOPSの和田唱さんがいたからでした。出演後に楽屋で、「掛ける言葉がよく分かんないんだけどさ、ありがとね」と伝えました。普段人を褒めない彼が、「周ちゃんがここまで来ると思わなかったよ、スゲエよ」と言ってくれて。同じバンドではなかったけれど、目指したところはきっと同じだったんです。「こんなこともあるんだね」と一緒に喜び合いました。

活動休止、そして再開


デビュー後はとにかく必死でしたが、嬉しい気持ちがある一方で、応援してくれる方々の期待に応えなきゃいけないというプレッシャーもあって。他のアーティストさんに提供した曲は売れるのに、僕らがやると売れない。ヒット曲を作出したいのに、あまりに忙しすぎて、二人でクリエイティブなことを話し合う時間がない。お互いの嫌なところが見えてきて、喧嘩も多くなりました。

100曲のストックがあったからやっていけましたが、3年、4年と走り続けると時間がないことに耐えられなくなっていきました。そこで事務所に「僕はアーティストである前にクリエイター、作詞作曲家なんだ。だから曲を作るために1年間休みをくれ」と訴えたんです。しかし、事務所の返答はNO。若いうちにとにかく経験を詰めと言われました。

でも僕はもう限界。「このまま消費されて、良い曲を書けずに終わっていってしまうんだ」という気持ちが強く、一緒にやっていた谷中に話をしました。

僕らは共通の音楽が好きで、詞を、曲を書けた。二人でやると良い曲になる、その興奮から始まったグループ。人前に出てキャーキャー言われるのは嬉しいけれど、それが本当のモチベーションじゃない。だからもう1回初心を思い出して、クリエイターに戻らないかと。谷中は、「なんで?」という感じでしたね。

アーティスト活動をやめると、やることが本当になくなりました。「24時間、音楽だけに時間を使って良いのかと思ったら、ロンドンでの日々が戻ってきた感じがしました。僕のいちばんイケてる瞬間は、居場所はここなんだ、と実感しましたね。好き放題曲や詞を書くと、溜まっていたものが出るわ出るわ。嬉しくなりました。

曲を作るときは、メロディーの歌いやすさを大事にしました。「歌い易い曲は鼻歌から生まれる」と馬飼野先生に教えてもらったことを守り、鼻歌からの曲づくりをずっと続けましたね。ひたすら、人のために役に立ちたいという気持ちで作っていました。アーティスト活動をしていたときは、自分が売れたい、有名になりたいという欲にまみれていて。だけど作曲家としては、インスピレーションやメロディを、僕というフィルターを通して届けることで、みんなが楽しい気持ちになったり、感動したりする姿を見ていきたいという気持ちに立ち返ることができました。

ある方からの紹介で、スウェーデンに行って曲づくりをすることになりました。実際行ってみて、「ここだ」と感じたんです。仕事は9時ー17時で家族との時間を大切にしていて、自然もあるし、クリエイターのチームも超優秀だし。「ここに呼ばれていたからアーティスト活動と両立できなかったんだろうな」と思えるほど、スウェーデンでの生活はしっくりきました。

音楽だけでなく、人として大切なこともたくさん教えてもらいました。次々と良い曲ができるので、アイドルグループなどを中心にヒット曲もどんどん生まれましたね。

ただ、最初は受けのよかった洋楽クオリティの楽曲も、だんだん日本っぽさを求められるようになっていきました。耳が慣れてしまうんですよね。どうしようかと考えて、仮歌を日本語の詞で歌ってもらおうと思いつきました。でも、僕は歌が得意じゃない。そこで谷中に「好きに詞を書いていいから、日本語で歌ってくれない?」と頼みました。

ちょうど彼も時間があったので、引き受けてくれることに。するとやっぱり良いんですよ。バンバン曲が決まりました。しばらくして彼にいろいろ頼むようになってから、使ってくれる曲よりもストック曲の方が多くなってきてしまって。良い曲なのにもったいないと、余った曲をピックアップして、谷中とネット配信を始めました。すごく自然に、cannaを再開していたんですよね。

当初は、ライブをやったり、アルバムを作る気はありませんでした。でも、昔聞いてくれていたファンの方々がネットを通じて集まってきてくれるようになって。みんなから背中を押されているうちに、気がついたらライブハウスで、ライブをしていたんですよね。こんなはずじゃなかったんですけど、僕らには待ってくれている人が居たんだと思えて、すごく嬉しかったです。

障害を持った自分だからできること


あるとき、幼稚園に通っている娘の同級生の女の子と、家族ぐるみで仲良くなりました。その女の子は、生まれつき耳が聞こえ辛くて、補聴器をして生活していたんです。「実は僕も目が悪くて障害があるんだよね」と話したら、その子のお母さんはびっくりしていました。

僕はいつもサングラスをして生活していましたが、ファッションでかけていると思われることがほとんどで。自分からは障害があると話すこともなかったので、目が悪いと知らない人が多かったんです。

障害を持って生まれて、いじめられたりもしたけれど、デビューもできて、結婚して子どももできて、前向きに明るく生きている。そんな話をしたら、「うちの子も頑張って、これから前向きに生きていきたいんだ」と笑顔を見せてくれました。

その経験を経て、自分の障害を話すことで、少しでも誰かを勇気づけられるんじゃないか?と思ったんです。そこから、障害のことをオープンに話すようになりました。そして、育児と音楽を融合した「育音(Iku ON)」というボランティア活動を始めることになりました。

はじめに、妻や高校時代の同級生と一緒に、物語を音楽と一緒に楽しめる、CD付きの絵本を作りました。それが徐々に広まり、様々な幼稚園や保育園、障害者施設や児童養護施設から「実際に来て欲しい」とお声がかかるようになったんです。そこで、園や施設に行って、弾き語りをしたり、紙芝居をしたり、一緒にゲームをしたりする「育音ふれあいライブ」という活動を始めました。

活動を通して伝えようとしたこと、それは障害があろうがなかろうが、子どもに無限の明るい未来があるのは変わらないということ。そして、「一つでもいいから、自分の好きなことや人やものを見つけて欲しい」ということです。

僕自身、3人の子どもを育てる父親です。好きなことも、得意も不得意も子どもたちそれぞれに全然違うことを実感しました。だから、やること全部がうまくできなくてもいいと思うんですよね。僕自身、目の障害があったから、小さい頃からできないことだらけ。でも、音楽と出会えたことで救われたし、音楽があるから生きていけると思えました。スポーツでも、勉強でも、お絵かきでもなんでもいい、何か一つ好きなことがあれば乗り越えていける。そんなメッセージを伝えていけるように活動を広げていきました。

ビートルズのように、誰かを救う音楽を


今は、作詞作曲家、音楽プロデューサー、cannaとしての活動のほか、音楽大学の客員教授を務めたり、育音プロジェクトを推進したりしています。育音は、新型コロナウイルス感染症の影響で、実際に子どもたちに会いに行くことが難しくなっていますが、オンラインに切り替えて実施していますね。

今後については、特に音楽的な野望があるわけでもないですし、思いつきの人間なので数年後のプランもありません。

ただ、自分の経験を若い世代の人たちに語っていく義務はあると考えています。アーティストとしての成功と挫折や、障害がある中で前向きに生きてきたこと。それらの経験を伝えることで、今悩んでいる子たちのヒントになったら、自分の人生にも意味があるのかなと思いますね。

それから、なにより人とのご縁を大切にしていきたいなと。これまで僕は、雷が落ちるように衝撃的な、人との出会いに助けられてきました。何気ない出会いでも、あとで振り返ると「会うべくして出会ったんだな」と思う。一人で成し得たことは一つもなくて、全部みんなが助けてくれたこと。それに報いるために一生懸命努力して、今があると思っています。だから人との出会いできっと、5年後や10年後も新しいことをやっていると思います。

いま、世の中はコロナで大変な時代です。その中で、音楽は生活に必要ないという人も大勢いるでしょう。でも、長い歴史を紐解くと、戦争が起きても、飢餓が起きても、感染症が流行していても、人は歌い、踊り、楽器を奏でて笑顔になるんです。幸せを感じ、国境や言葉を越えて心を通じ合わせることができる。音楽はそういうエネルギーだと思っています。

ただ、ジョン・レノンでさえ、どんなに良い曲を作っても戦争は止まらないと言っています。実際にベトナム戦争は終わらなかった。でも、音楽に込められたメッセージが人々に与えた影響は多大です。時代が、伝達の仕方が変わっても、音楽が根底にもつ偉大なエネルギーは変わらないと信じています。勘違いされるかもしれませんけど、そういう意味では、僕のやっていることもビートルズと変わらないんです。

音楽を信じて、発信し続けること。作り続けること。たった一つでいい、自分の好きなものを見つけて欲しいと伝え続けること。それによって励まされたり、音楽っていいなと思ってくれる人が増えたらすごく嬉しいですね。日々を音楽と家族と一緒に生きていく中で、周りの人を笑顔でハッピーにしていくことが今の僕にできることだと信じています。

2021.01.25

インタビュー・ライティング | 粟村 千愛
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